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メアリー・ステュアートの足跡を追って
スコットランド
2200km走破


グレンコーの大虐殺3

The Massacre of Glencoe 3

青山貞一
Teiichi Aoyama  
池田こみち Komichi Ikeda
2018年12月10日公開
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大虐殺の経緯3  The Massacre of Glencoe 3

 1691年8月27日、ウィリアムはハイランドの氏族長たちに、1月1日までにウィリアムに従うと誓約するよう──しないならば、血の制裁があるであろうという脅迫付きで──求めました。

 氏族たちはどう処すべきか迷い、フランスに亡命中のジェームズ2世に伺いを立てました。ジェームズも如何に反応するか悩み、時間だけが過ぎていったのです。12月も中盤になってジェームズから「とりあえず」署名しておくようにとの意思が届きました。氏族長たちは冬の雪のなか、急いで署名の場に向かいました。

犠牲者の選別

 氏族長たちは続々と署名に集まりましたが、なかには期限間近になって到着する氏族もありました。しかしイングランドのほうが一枚上手で、土壇場になって署名の場を変更し、しかも関所を設けて足止めをはかったのです。

 結果的にグレンコーのマクドナルドが1月2日になって到着し、治安判事の不在によって署名は1月5日にずれこみました。これを名目として、ステア伯ジョン・ダルリンプルをはじめとする政府内の革命支持強硬派は、実力行使の矛先にグレンコーのマクドナルドを選んだのです。

 マクドナルド氏族が選ばれたもうひとつの理由は、イングランドと氏族社会の仲立ちをしていたキャンベル氏族の長年の宿敵だったことでした。マクドナルドはキャンベルと同じく、ハイランドで最有力氏族のひとつで、また双方ともハイランド西岸が主な勢力圏でした。

 両氏族は──近隣氏族がしばしばそうであったように──不仲で、牛泥棒などの小競り合いが絶えず、しばしば死者を出す事件が起きていました。キャンベル氏族長のブレダルベーン伯ジョン・キャンベルは、マクドナルドが遅れたのを見逃さず、これを粛清するようステア伯らに進言しました。


虐殺命令を記した書簡の写し
Source:Wikimedia Commons
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