山梨県身延町探訪 湯之奥金山と博物館 Yunooku-Gold Mountain Museum 青山貞一・池田こみち Teiichi Aoyama / Komichi Ikeda 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年5月 |
戦国時代の金山の位置 出典:湯之奥湯の奥金山博物館 全体メニュー 湯之奥金山 博物館1 博物館2 博物館3 博物館4 博物館5 山梨県南西部にある身延町(みのぶまち)には、久遠寺や本遠寺、七面山など日蓮に関連する膨大な歴史的遺跡や伽藍、施設以外に、戦国時代、武田信玄が活躍した時代に湯の奥金山(内山金山)があった。 下図は、湯の奥金山(内山金山)を中心にした身延山の金山の位置である。 金山は主に山梨県と静岡県の県境にある毛無山の中腹にあった。 金山は東側の静岡県側にもある。富士五湖の本栖湖が右上にある。地図中、西側(左側)南北に走っているのがJR身延線の鉄道である。 下の地図は現在の地図(グーグルマップ)で身延山の久遠寺は、地図中南西(左下)にある。 出典:グーグルマップ 湯の奥金山(内山金山)とは 山梨県南部の天子山地は毛無山から南北に連なって、静岡県との県境を成しており、約1500万年前の新第三紀の火山岩・泥岩に入り込んだ石英脈として金鉱石などを産出する。 身延町の湯之奥金山と富士宮市の富士(麓)金山は同じ鉱脈を東西から採掘した鉱山である。 町内の下部エリアには雨河内川上流の常葉金山、栃代川上流の栃代金山、本栖湖南西の川尻金山などが知られている。 その毛無山の山腹にある中山金山・内山金山・茅小屋金山の3つの金山を「湯之奥金山」と総称する。 高い山の金脈を追った金山衆の技術を示し、江戸期に盛んになる金・銀山の源となった戦国期の金山の姿を今に伝えている。 出典:湯之奥湯の奥金山博物館 これら山梨県身延町と静岡県の富士宮市に存在する毛無山の西側の中腹入ノ沢に面した標高1350m付近にある。 ここには露天掘りの採鉱域と29箇所のテラスがあったことが考古学調査でわかっている。採鉱域は山腹を大きくえぐった露天掘りの採掘坑が数箇所あり、細かいズリ(屑石)がその下に集積している。テラスは南向きの尾根筋に段状に作られたものと沢の水場に沿うテラスとがある。 各テラスには鉱山用の石臼や陶磁器が発見されている。かつて日蓮宗の宝金山永久寺があったと伝えられる「寺屋敷」には3段の石積みで広いテラスが造成され、寛文年間(17世紀)の宝匡印塔が残されている。 また慶安年間(17世紀中期)の200年にも及ぶ長大な間歩について記述していて、江戸時代前半に最盛期を迎えたらしい。この間歩の経営をめぐっては、内山のほか、中山の金堀りたちをも巻き込んだ論争さえ生じている。 しかし盛期は続かず、貞享年間(17盛期後半)には、金掘りたちは山を下ったという。入ノ沢の奥深くにあるため旧道も土石流で荒廃し、地元でも内山金山は忘れ去られていた。 湯之奥型金挽臼が多く発見され、戦国時代の中国明製の染付皿なども出土している。その後平成にて公開されている そこで、2022年5月、身延町下部にある博物館など湯の奥金山(内山金山)に関連する場所や施設を短訪した。とはいえ、登山の用意をしていないので毛無山の中腹に上るのは無理なので、身延町営の湯の奥金山博物館と、毛無山の麓近くにある門西家住宅を視察することにした。 博物館1へつづく |