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北イタリア紀行
世界最大のファッションと革命の発信地
ミラノ


青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komchi Ikeda

2006年4月7日
 転載禁


ブラチスラバ (1)〜(5) ウィーン  ミラノ コモ  セベソ


■5日目(火

 今日は明日のロンバルディア環境財団訪問ととセベソ現地視察の下見を兼ねてミラノを探索。

 朝7時にホテルで朝食。 右も左も分からないミラノだが、まずは世界的に有名なミラノのドーモという寺院を探す。ホテルの前の通りを100mほど南に下ると、ダテオ(DATEO)という鉄道の駅がある交差点に出る。

 一端地下に下るが、ここはどうも日本で言えばJRの駅。ミラノから近郊や他国に列車で行く駅のようだ。そこでエスカレータを乗り継ぎ地上に出る。

 ダテオの交差点でドーモ行きのバスを見つける。バスの切符は社内では販売していないので、あらかじめたばこ屋や商店などで買っておく必要がある。

 1切符1ユーロ、3回まで乗り換えok。最初の乗車時に日時を刻印する。

 54番のドーモ行きバスで市内を東から西に走る。次第に、中世っぽい雰囲気の荘厳な建物が多くなってくる。終点近くでドーモの建築物の先端が見える。

 そのドーモだが、イタリア語の表記からするとドーモよりドウモあるいはドウォーモの方が適切な発音かも知れないが、ここではドーモで通すことにする。

 そして終点。

 54番のバスの終点からドーモを目指し歩く。


54番のバス終点のドーモのバス停で

 数分後、世界一の寺院、教会ミラノのドーモに出くわす。14世紀後半に着工されたドーモが最終的に完成を見たのは19世紀はじめ、ナポレオンによってだそうだ。このドーモはゴシック建築の世界的大傑作である。しかし、どういうわけか世界遺産には登録されていない。

 このドーモだが、多くの細い尖塔がたっていて、女性的な寺院だ。ステファン寺院が男性だとすれば、このドーモはどうみても女性。

 イタリアと言えば世界一のファッション、デザイン、モードの発信都市とか....。

 ドーモの反対はモードなんちゃって!

 ドーモの建築様式はゴシックだが、5世紀もの歳月をかけ建築されたこともあり、バロック様式などの影響も受けている。


改修工事中のミラノのドーモ


改修工事中のミラノのドーモ

 そのドーモは、現在改修工事中。残念ながら壮麗な正面からの外観は隠れているが、教会の内部に入れる。


ドーモ内部

 私はいままで世界中の教会のカテドラルなどを見てきたが、ウィーンのシュテファン寺院、ベルリン大聖堂を凌ぐ規模だ。中には日本からの団体客、グループがたくさんいて、案内の女性の説明に聞き入っている。だがこのドーモは世界遺産となっていないと言う。


東側から。ここは改修していない。

 ドーモは、大きな広場に面しているが、ドーモのすぐ横に、ファッション、商業の世界先端都市ミラノを象徴する巨大かつ豪勢なアーケード商店街がある。ミラノはイタリア第二の都市。それも世界をリードするファッションの発信地。

 そして北部イタリアの政治、経済の中心地だ。そのさらに中心がドーモとヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアと呼ばれる巨大アーケードだ。建設は19世紀末。約200m続くその巨大アーケードを歩く。一番高い部分は32mもある。


ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアと呼ばれる巨大アーケード
日本からの団体客でにぎわっていた。


一番高い部分は32m

 このアーケードはドーモとスカラ座を結ぶ回廊にもなっている。

 印象としては、たとえば良く行くウィーンが重厚で堅い感じなのに対し、ミラノは洗練されたデザインとおおらかなまちと言う感じだ。ともに歴史あるまちだが、明らかに違いがある。

 ところで明日訪問するロンバルディア環境座談の場所だが、このアーケードからよく見える以下の写真の中央のビルだった(ただし、これは翌日、さんざん探して分かったのだが)。


ロンバルディア財団が入るビル(中央)

 ドーモとアーケードを見た後、スカラ座の前にあるミラノ市役所を訪問する。

 受付嬢はまったく英語が話せず希望する環境行政担当部署との接見は実現しないが、関連する資料をいただく。

 その後、スカラ座から北西のブランド物がならぶ一大通りを歩くと、その先に茶色をした無骨なお城が見えてきた。

ミラノにも路上のあちこちに花屋さんがある。
その前で池田さん。
スフォルフェスコ城、遠景

 これがスフォルフェスコ城、通称、頑固者の城と呼ばれる建築物だ。

 ルネッサンス期のミラノが最も繁栄した時代のミラノ公の居城とされる。もともとはヴィスコンテ家失脚後、傭兵隊長だったフランチェスコ・スフォルツァが改築して現在の城となったそうだ。


頑固者の城

 城の中庭に入る。まるでシタデル、要塞のようだ。壮麗とか華麗とは言えないが、なかなか味がある城だ。


頑固者の城

ミラノの歴史 出典:ウィキペディア(Wikipedia)

 ミラノは紀元前600年のケルト人の町を元にしている。 その後、紀元前222年の古代ローマによる征服があったが そのどちらにもMediolanum(平原の真中)と言われた。

 293年から402年まではMailandとも呼ばれた。 司教アンブロジウスと皇帝テオドシウス1世の時代には西ローマ帝国の首都であった。

 東ゴート王国、東ローマ帝国、ランゴバルド王国の時代を過ぎ、11世紀にミラノは成長の回復と神聖ローマ帝国からの独立をする。

  1162年の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世による破壊に対し、1176年5月29日にレニャーノの戦いにおいてロンバルディア同盟が勝利した。

 中世後期とルネサンス時代にはミラノはヴィスコンティ家スフォルツァ家の公国になった。 15世紀の北部イタリアの拡張時代の後、ミラノは16世紀のはじめフランスに征服され、その後スペインによって統治された。

 18世紀初頭のスペイン継承戦争後、1714年のラシュタット条約によってオーストリアハプスブルク家に帰属することになった。

 ナポレオン時代の後ロンバルド=ヴェネト王国としてオーストリアの手に戻ったミラノは、1859年第2次独立戦争の結果イタリア王国の一部に編入された。



 ここでドーモに戻り、地下鉄でレオナルド・ダビンチの最後の晩餐の絵画があるというサンタマリア・デレ・グラーツィエ教会に向かう。

 ドーモ駅からわずか2駅先のカドルナ・トリエンナーレ駅だが、間違ってその先のコンチリア・ツィオーネ駅で降りてしまった。

 地下鉄の駅から地上に出ると、何も教会らしき建築物が見えない住宅地だ。

 そこで花屋のおじさんに、つたない私のスペイン語でサンタマリア教会の位置を聞くと、教えてくれた。すぐそばらしい。30年以上前、メキシコに1ヶ月滞在したときに覚えたものだが、役に立ってよかった。

 以前、インド洋のコモロイスラム共和国に行ったときフランス語しか話さないフランス人にスペイン語を共通語としてコミュニケーションをとったことがあるが、片言であれ通じさえすればこっちのものである。

 徒歩で教えて貰った方向に歩くと、行く手に改修中の教会らしきものが見えてきた。やはりそこがサンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会だ。改修中の教会の中に入る。

サンタマリア教会 レオナルドダビンチ展示館

 教会の中には誰もいないが、この教会の壁の一角に、ダビンチの最後の晩餐の絵があったのだろう。


サンタマリア教会の内部。なぜか誰もいない。
この教会の一部に「最後の晩餐」が掲示されていた。


レオナルド・ダ・ヴィンチ
(Leonardo da Vinci, 1452年4月15日 - 1519年5月2日)

出典:ウィキペディア(Wikipedia)

 今日、イタリアのルネサンス期を代表する万能の天才として知られている。

 絵画、彫刻、建築、土木および種々の技術に通じ、極めて広い分野に足跡を残している。

 『最後の晩餐』や『モナ・リザ』などの精巧な絵画は盛期ルネサンスを代表する作品になっている。膨大な手稿(ノート)を残しており、その中には飛行機についてのアイディアも含まれていた。


最後の晩餐 (レオナルド)

出典:ウィキペディア(Wikipedia)

 最後の晩餐 (さいごのばんさん、伊 : Il Cenacolo o L'Ultima Cena) はレオナルド・ダ・ヴィンチが、彼のパトロンであったルドヴィーコ・スフォルツァ公の要望で描いた絵画である。

 これはキリスト教の聖書に登場するイエス・キリストの最後の日に描かれている最後の晩餐の情景を描いている。ヨハネによる福音書13章21節より、キリストが12弟子の中の一人が私を裏切る、と予言した時の情景である。

 絵はミラノにあるサンタ・マリア・デレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として描かれたもので、420 x 910 cm の巨大なものである。

 レオナルドは1495年に取りかかり、1498年に完成している。ほとんどの作品が未完とも言われるレオナルドの絵画の中で、数少ない完成した作品の一つであるが、最も損傷が激しい絵画としても知られている。

 また遅筆で有名なレオナルドが3年でこの絵を完成しているのは彼にしては異常に速いペースで作業を行ったと言える。世界遺産に指定されている。



 外に出ると、修復中の最後の晩餐の絵が見れる場所があるが、入場者を限定しており、残念ながら今日は見れない。

 それにしても、ダ・ビンチという人間は、かくも広範囲な分野に大きな足跡、実績を残したのか、残せたのか? 現代のように専門細分化が進み、官僚制が貫徹する世の中にあって、ダビンチに象徴される全人格的な能力の発揮のあり方に、私はもっと注目すべきだと思う。

 ただ単に、社会、都市が巨大化、複雑化したから能力ある人間が専門分化する
というだけの説明ではすまされないだろう。現代社会にあっても、さまざまな分野で全人格的な志向と活動をする人間がいてもよいからだ。


修復中のレオナルド・ダビンチの最後の晩餐


コンピュータグラフィックスで再現されたダビンチの最後の晩餐
上の原画とは見比べるて欲しい


 ちなみに、最後の晩餐はダビンチのものが有名だが、イタリアにはあちこちの都市の教会、寺院にそれなりの価値ある「最後の晩餐」のある。

 サンタマリア教会から東に歩く。途中、明日訪問するセベソ事件を研究しているロンバルディア環境財団に、ミラノグランドホテルから電話連絡を入れる。午前10時に訪問したい旨を伝える。


絢爛豪華なミラノ・グランド・ホテルのロビー


ここにもモーツアルト生誕250記念のコンサート案内が

 さらに東に歩くと、奇抜でハイセンスなデザインのミラノ北駅に出た。ミラノ・ノルド鉄道駅だ。何ともイタリアらしいデザインと色だ。

ミラノ北駅

 後で分かったのだが、ミラノそのものは120万人の大都市だが、ミラノ周辺都市が広域ミラノ通勤圏となっている。

 それらの周辺都市からミラノに入ってくるひとつの大きな拠点がこのミラノ・ノルド鉄道駅だ。駅の入り口近くに大きな人混みがある。

 ピザをテークアウトしている店だ。店に入りピザと清涼飲料水を注文する。安くおいしい。ひとりあたり4ユーロちょっと。

これは結構いける  こんな感じで食べる。


 コモ湖につづく