エントランスへはここをクリック         

富士五湖、自然と文化・歴史短訪

恵林寺3 出典:日本語Wikipedia
Erinji, Yamanashi pref.

青山貞一・池田こみち
 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年9月
 

恵林寺三門  出典: CC 表示-継承 3.0, リンクによる

全体メニュー
恵林寺1   恵林寺2   恵林寺3   恵林寺4


伽藍


本堂から望む庭園  出典: CC 表示-継承 3.0, リンクによる


池田こみちが茶道の弟子を連れ恵林寺を訪問し住職からご高説をうかがっている写真。

 1905年(明治38年)の出火で焼失した後、再建したものもあるが(方丈・庫裡)、桃山様式の四脚門(国の重要文化財)や夢窓作といわれる庭園(国指定の名勝)がある。

・本堂
・明王殿
・庫裡
・開山堂
・柳沢廟
・佛舎利宝塔(三重塔)

文化財

重要文化財(国指定)



石庭   出典: CC 表示-継承 3.0, リンクによる

四脚門(重要文化財)


恵林寺四脚門 明治40年8月28日指定  出典:funk bass, CC 表示 3.0, リンクによる

太刀 銘来国長 大正4年3月26日指定

 短刀 銘備州長船倫光 応安二年八月日 大正4年3月26日指定
南北朝時代・応安2年(1369年)銘の短刀[15]。刃長27.4センチ、反り0.1センチ[15]。備前国の刀工・長船倫光(おさふねともみつ)の作[15]。表裏に菖蒲樋(しょうぶひ)を彫り、指表(さしおもて)に倶利伽羅龍、指裏に梵字の彫物がある。銘は表に「備州長船倫光」、裏に「応安二年八月日」と切る[15]。

 柳沢吉保(永慶寺殿)と正室・定子(真光院殿)の生前の愛用品の目録である享保9年(1724年)の「永慶寺殿・真光院殿道具覚帳」(恵林寺所蔵)では、本刀は吉保生前の愛用品であったことが記されている[15]。『道具覚帳』では付属品として白鮫の柄・黒漆塗の鞘・白練の袋も記載されているが、これらの付属品は伝存していない[15]。

山梨県指定有形文化財

・恵林寺三門 昭和60年3月19日指定
・木造夢窓国師坐像 昭和35年11月7日指定
・不動明王及二童子版木 昭和58年12月26日指定
・恵林寺文書 5点 昭和33年6月19日指定
・和漢朗詠集 昭和38年9月9日指定
・紙本著色渡唐天神図 昭和40年8月19日指定 - 快川紹喜賛
・孫子の旗 昭和55年9月18日指定
・諏訪神号旗 昭和55年9月18日指定
・柳澤吉保・定子関係資料一括 平成7年4月26日指定

甲州市指定文化財

・恵林寺開山堂 平成8年2月8日指定
・恵林寺文書 8点 昭和49年8月30日指定
・紙本墨画蘆葉達磨像図 昭和51年2月25日指定
・絹本著色夢窓国師像 昭和52年4月5日指定 - 室町時代
・絹本著色快川紹喜像 昭和52年4月5日指定 - 自賛、天正6年(1578年)
・末宗瑞曷像および南化玄興墨跡 道号「末宗」 昭和52年4月5日指定 - 頂相は江戸時代(17世紀)、道号は桃山時代 (16世紀)
・絹本著色武田信玄像 昭和52年4月5日指定 - 柳沢吉里筆、享保8年(1723年)
・紙本著色武田信玄像 昭和52年4月5日指定 - 佐々木文山賛、狩野洞元邦信筆、17-18世紀
・絹本著色隻履達磨図 平成8年8月8日指定
・江戸時代(17世紀から18世紀)の隻履達磨図(せきりだるまず)[16]。狩野探雪の筆[16]。絹本墨画淡彩[16]。寸法は縦132.6センチメートル、横64.9センチメートル[16]。画面右下に落款「探雪図」と印「探行印信」がある。箱書によれば、常陸国土浦藩主・土屋政直(相模守)により寄進されたものであるという。政直は武田氏家臣・土屋昌恒の子孫で、大阪城代・京都所司代を経て老中首座となる[16]。政直の三男・定直は吉保の女婿となっている。本像は政直が吉保を追福した像であると考えられている[16]。なお、定直は兄の早世により土屋家嫡子となるが、宝永2年(1705年)に柳沢家との婚姻が成立しないまま若年で死去している[16]。
・絹本著色羅漢図 平成8年8月8日指定 - 柳沢淇園筆
・紙本墨画山水図 平成8年8月8日指定 - 双幅、曾我蕭白筆、安永6年(1777年)
・柳沢吉保坐像(解説は下記)
ほか多数

名勝(国指定)

庭園 昭和19年6月26日指定[17]
木造柳沢吉保坐像

 江戸時代(18世紀)に制作された柳沢吉保の寿像。木造・玉眼・彩色[18]。像高は85.0センチメートル[18]。像内幹部前面材上方の墨書によれば、宝永7年(1710年)11月、吉保53歳の姿を写で、仏師・大下浄慶の作とされる[18][19]。太刀(銘山城守国重)が付属する[19]。

 山梨県甲府市太田町の一蓮寺や韮崎市清哲町青木の常光寺、奈良県大和郡山市の永慶寺(旧地は甲府市岩窪町)には吉保が元禄15年(1702年)に描かせた柳沢吉保画像が伝来し、彫像も肖像画と同様に束帯・冠姿で、右手に笏を持つ[20]。永慶寺の吉保夫妻像とほぼ同一の像容・法量であり、肖像画とも共通性が見られることから、彫像制作の際に吉保肖像が参考にされた可能性が指摘される[21]。

 本像は吉保が正徳元年(1711年)7月に制作し恵林寺に奉納した寿像で、恵林寺境内の柳沢吉保公廟所に安置される[19]。前年の宝永7年(1710年)には甲府に永慶寺が落慶しており、8月10日には吉保が帰依した黄檗宗の僧・悦峯道章(えっぽうどうしょう)により開堂されている[19]。隠居後の吉保が恵林寺の東方に宛てた書状では、吉保は自らの寿像が武田家ゆかりの恵林寺に奉納されることに対する喜びが記されており、この文中の寿像が恵林寺の吉保坐像にあたると考えられている[19]。また、吉保が家臣の薮田重守に宛てた書状(豊田家史料)によれば、寿像が安置される堂宇は永慶寺の吉保夫妻像安置の堂宇を模して建てられたという[19]。

 正徳4年(1714年)に57歳で死去した吉保は菩提寺である甲府の永慶寺に埋葬されたが、享保9年(1724年)に柳沢氏が甲斐国から大和国郡山へ転封されると、永慶寺も吉保夫妻像ら什物とともに大和郡山へ移転された[19]。これに際して、吉保は永慶寺から恵林寺に改葬される[19]。

 本像を制作した仏師・大下浄慶は京都七条仏所の康清の孫で、甲府八日町(甲府市中央)に居住していた[22][20]。『甲斐国志』によれば、浄慶は恵林寺の武田不蔵尊を制作した人物で、吉保夫妻像は子の次郎右衛門とともに制作したという[20][23]。翌宝永8年(1711年)3月に浄慶は法橋位に叙せられている[23]。

武田不動尊


武田不動尊   出典: CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 武田信玄の菩提寺である恵林寺明王殿には武田不動尊と称される不動明王坐像及び二童子像が安置されている[24]。

 『甲陽軍鑑』『甲斐国志』巻七五に拠れば武田不動尊像は信玄が京から仏師の康清を招聘し、信玄と対面して彫刻させ、信玄自らの頭髪を焼いて彩色させたものであるという。現在では塗料が劣化し黒ずんでいるが、本来は不純物が少なく銀を混ぜた群青の塗料を2層塗っていたことが判明している[25]。

 像内は内刳りされ、像底には布張り漆塗の底板があることから、像内の空洞に像内納入品を納めている可能性も考えられていたが、X線写真による画像では確認されていない[25]。

 中尊の不動明王坐像は像高92.9センチメートル。胸前の条帛には金泥で武田家家紋である花菱文が描かれている。『軍鑑』『国志』では信玄の姿を写した像であるとする伝承が記されているが、武田不動尊は左手に索、右手に剣を持つ儀軌どおりの造形で、相貌も伝統的な不動明王像の表現であることが指摘されている。

 仏師康清は本像以外に県内でいくつかの作品を残しており、大井俣窪八幡神社(山梨市)の旧蔵であると考えられている清水寺(山梨市)の勝軍地蔵像や、円光院(甲府市)の勝軍地蔵像・刀八毘沙門天像などが知られる。

 劣化が進んでいるため2021年から東京芸術大学のチームにより修復と調査が行われている[25]。調査結果やスキャンした映像から再構成した3Dモデルが公開される予定[25]。

アクセス

 JR中央本線塩山駅から
 甲州市市民バス西沢渓谷線・窪平線に乗車し「恵林寺」バス停で下車。
 甲州市市民バス下柚木線に乗車し「小屋敷」または「下藤木」バス停下車。ただし休日は運休。
 JR中央本線山梨市駅から
 山梨市営バス西沢渓谷線に乗車し「隼上」バス停で下車。
 新宿駅から
 高速バス「甲州ワインライナー」に乗車し「恵林寺」バス停で下車。ただし平日は運休。
 拝観について
 8:30 - 16:30 拝観は有料、信玄公宝物館は別料金


恵林寺4へ