富士五湖、自然と文化・歴史短訪 武田信玄4 Wikipedia Koufu Takeda Jinjya, Yamanashi pref. 青山貞一・池田こみち 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年9月 |
武田 信玄 / 武田 晴信 Takeda Harunobu.jpg 出典:不明 - The Japanese book "Fūrin Kazan (風林火山:信玄・謙信、そして伝説の軍師)", NHK, 2007, パブリック・ドメイン, リンクによる 全体メニュー 武田信玄1 武田信玄2 武田信玄3 武田信玄4 武田信玄5 凡例武田 信玄 / 武田 晴信 Takeda Harunobu.jpg 軍政 Copyright © 地図・空中写真閲覧サービス 国土地理院, Attribution, リンクによる。 ・旗本武者奉行…弓矢指南とされる。最上位に記される事から出陣の儀や勝鬨の儀などの責任者か。 ・旗奉行…諏訪法性の旗などを差配する。 ・鑓奉行…騎馬足軽が付随したとある。旗本親衛隊の統率者か。(横目衆。後の甲州九口之道筋奉行) ・使番衆…百足の旗を背負う伝令役。使番と奥使番に分けられる。 ・奥近衆…奥近衆小姓とも記される。基本的には領主クラスの子弟から選ばれる。 ・諸国使番衆…諸国への使者を務める。 ・海賊衆…海軍(武田水軍)。 ・御伽衆…御話衆とも。側近。 ・新衆…工兵集団。架橋や陣小屋作成など。 ・行政・軍政とも職(総責任者)の下に位置し、武田氏の下部組織を勤める。竜朱印状奏者はこれらの制度上の地位とは別である。また、占領地の郡代など、限定的ながら独自裁量権を持つ地位も存在する。なお郡代という表現そのものも信濃攻略時には多く見られるが、駿河侵攻時にはあまり見られなくなっており、城主や城代がその役目を行うようになった。武田の行政機構が領地の拡大にあわせて変化していった一例であろう。 寄親寄子制 軍事制度としては寄親寄子制であった事がはっきりしている。基本的には武田氏に直属する寄親と、寄親に付随する寄子の関係である。ただし、武田関連資料ではこの寄子に関して「同心衆」と言う表現をされる場所があるため、直臣陪臣制と誤解される事も多く、注意が必要である。また、地域武士団は血縁関係によって結びついた甲州内に存続する独自集団であり、指揮系統的には武田氏直属であったと考えられているが、集団が丸ごと親族衆の下に同心の様に配されている場合もあり、必ずしも一定していない。地域武士団の前者の例は先述の武川衆、後者の例は小山田氏に配属されていた九一色衆が上げられる。 寄親とされているのは親族衆と譜代家臣団・外様家臣団の一部。譜代家臣団でありながら同心(寄子)である家もあるため、譜代家臣団が必ず寄親のような大部隊指揮官という訳ではない。また、俗に言う武田二十四将の中にも同心格である家もあり、知名度とも関係はない。それどころか侍大将とされている人物でも寄親の下に配されている場合もあり、かなり大きな権限を持っていたと考えられている。全体としては大きな領地を持っている一族である例が多く、地主的な発言権とは不可分であるようである。また、一方面指揮官(北信濃の春日虎綱や上野の内藤昌豊など)のように、領地とは別に大軍を指揮統率する権限を有している場合もある。 寄子は制度的には最も数が多くなる。譜代家臣団・外様家臣団の大部分である。平時には名主として領地を有し、居住する地域や領地の中に「又被官(武田氏から見た表現。被官の被官と言う意味)」と記される直属の部下を持つ。寄親一人の下に複数の寄子が配属され、一軍団を形成する。武田関係の資料では先述したように「同心衆」と記され、「甘利同心衆」と言うように責任者名+同心の書き方をされる例が多い。ただしこの名前が記されている人物も寄子である場合もあり、言葉そのものが状況によって使い分けられていたようである。 この複雑さを示す例として「信玄の被官」であり、板垣信方の「同心」を命じられた曲淵吉景が挙げられる。信玄の被官と言う事は信玄直属であり、制度面で正確に言えば寄子としては扱われないはずであるが、信方の同心である以上は寄子として扱われている。信玄の被官である以上、知行は信玄から与えられる一方、合戦時の指示は信方から与えられる、と言う事になる。この例の曲淵は他者の同心であるが、信玄直属の同心と言える立場の人物ももちろん存在していた。 もっとも現代のように一字一句にこだわった表現が当時されていたかどうかは判断が難しい。軍役帳などの場合、「被官〜氏」「同心〜氏」であれば信玄直属の被官、「〜氏同心××氏」でれば誰かの又被官と、前後の書かれ方で意味が通じるからである。現代発行される書籍などで単語だけ取り出す事によって混乱が助長されている面は否定できない。 また、『中尾之郷軍役衆名前帳』には同じ郷から出征する人物が複数の寄親に配属されている場合があり、複数の郷に領地を持っている人物が寄子同心が存在するなど、一概に一地方=一人物の指揮下と断定する事もできない。これもまた制度研究を困難にさせている要因の一つである。 なお、裁判面では寄親寄子制が基幹となっており、『甲州法度之次第』では内容にかかわらず寄子はまず寄親に訴え出る事が規定されている。寄親が対処できない場合のみ信玄の下に持ち込まれることになっていた。これは一方で兵農未分離の証左とも言える。 信玄は家臣との間の些細な諍いや義信事件など家中の動揺を招く事件に際しては、忠誠を誓わせる起請文を提出させており、神仏に誓うことで家臣との紐帯が保たれていた。また、信玄が寵愛する衆道相手の春日源介(「春日源介」の人物比定は不詳。)に対して、浮気の弁明を記す手紙や誓詞(天文15年(1546年))武田晴信誓詞、ともに東京大学史料編纂所所蔵)が現存しており[43]、家臣との交友関係などを示す史料となっている。 信玄堤(竜王堤)付近の空中写真。画像右側に帯状に見える緑地が堤防である。(1975年撮影) 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 Copyright © 地図・空中写真閲覧サービス 国土地理院, Attribution, リンクによる ・信玄の偏諱 信玄(晴信)に関して特徴的なことは、家臣に対する偏諱として「昌」の字が用いられた例が多いことである。武田氏の通字である「信」の授与は重臣の嫡男に限られ、それ以外の家臣には父・信虎は「虎」、子・勝頼は「勝」の字を授けているが、晴信の「晴」は将軍からの偏諱であるために「晴」の字を授けた確実な例はなく、代わりに曾祖父・武田信昌に由来する「昌」の字を代わりに授けたとみられている。例えば、真田氏の場合、幸隆の嫡男には「信」の一字を与えて信綱、次男以下には「昌」の字を与えて昌輝・昌幸などと名乗らせている[44]。 領国統治 分国法 信玄期には信虎期から整備されて家一間ごとに賦課される棟別諸役が確立し、在地掌握のための検地も行われ、領国支配の基盤が整えられた。 その一環として、天文16年(1547年)に甲州法度次第という分国法を制定した。 治水事業 「信玄堤」も参照 武田氏の本拠地である甲斐は平野部である甲府盆地を有するが、釜無川、笛吹川の二大河川の氾濫のため利用可能な耕地が少なく、年貢収入に期待ができなかった。この為、信玄期には大名権力により治水事業を行い、氾濫原の新田開発を精力的に実施した。代表的事例として、甲府城下町の整備と平行して行われた御勅使川と釜無川の合流地点である竜王(旧・中巨摩郡竜王町、現・甲斐市)では信玄堤と呼ばれる堤防を築き上げ、河川の流れを変えて開墾した。 甲斐善光寺の山門(重要文化財) 出典: CC 表示-継承 3.0, リンクによる 甲州三法 大小切税法や甲州金、甲州枡の甲州三法を制定。 日本で初めて金貨である甲州金(碁石金)を鋳造した。甲斐には黒川金山や湯之奥金山など豊富な埋蔵量を誇り、信玄期に稼動していた金山が存在していた。南蛮渡来の掘削技術や精錬手法を積極的に取り入れ、莫大な量の金を産出し、治水事業や軍事費に充当した。また中央権門や有力寺社への贈答、織田信長や上杉謙信に敵対する勢力への支援など、外交面でも大いに威力を発揮した。ただし、碁石金は通常の流通には余り用いられず、金山の採掘に関しては武田氏は直接支配を行っていた史料は見られず、金堀衆と呼ばれる技術者集団の諸権益を補償することによって金を得ていたと考えられている。 寺社に対する方針 寺社政策では寺領の安堵や寄進、不入権など諸権益の保証、中央からの住職招請、法号授与の斡旋など保護政策を行う一方で、規式の保持や戦勝祈願の修法や戦没者供養、神社には神益奉仕などを義務づける統制を行っている。信玄は自身も仏教信仰を持っていたが、領国拡大に伴い地域領民にも影響力を持つ寺社の保護は、領国掌握の一環として特定宗派にとらわれずに行っている。特に臨済宗の恵林寺に対する手厚い保護や、武田八幡宮の社殿造営、甲府への信濃善光寺の移転勧請などが知られる。 研究 肖像画 伝吉良頼康像(九品仏浄真寺蔵) 出典:不明 - The Japanese book "Fūrin Kazan (風林火山:信玄・謙信、そして伝説の軍師)", NHK, 2007, パブリック・ドメイン, リンクによる 従来信玄像とされた能登畠山氏像 (模写、原典は成慶院所蔵) 出典:不明 - 東京大学史料編纂所, パブリック・ドメイン, リンクによる 信玄のは同時代のものが複数存在し、和歌山県持明院所蔵の『絹本著色武田晴信像』、高野山成慶院所蔵の長谷川等伯筆『絹本著色武田信玄像』(重要文化財)が知られる。 前者は信玄の供養のため奉納されたと伝わる肖像画で、青年期の晴信が侍烏帽子に直垂という武家の正装姿で描かれており、直垂には武田家当主・甲斐守護職であることを示す花菱紋が描かれている。後者は、勝頼が武田氏の菩提所である成慶院に奉納したと伝わる肖像画で、壮年期のふっくらとした姿で頭部には髻があり、笄や目貫に足利将軍家家紋「二引両紋」のある脇差が描かれている。三条家とも関わりのある絵師・長谷川等伯によって描かれ、信玄正室の三条夫人の叔父を描いた『日堯上人像』と同時期に描かれている。また、高野山成慶院には信玄の弟信廉が描き勝頼が奉納したとされる肖像があったとされ、原本は伝存していないが写が現存している。 同時代では、信玄は肖像画以外に不動明王のイメージで自らを描かせているが、イメージは不確定であった。江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、軍配を持ち赤法衣と諏訪法性(すわほっしょう)の兜に象徴される法師武者姿としてのイメージが確立し、狩野探信や柳沢吉里(柳沢吉保の嫡男)により描かれた信玄個人の肖像画[45]や武田二十四将図、歌舞伎や浄瑠璃の演目『本朝廿四孝』、これを描いた役者絵や武者絵などにおいて定着した。明治期もこの流れを引き継いでいるが、顔貌の描き方は統一されていなかった。しかし、松平定信編纂の『集古十種』(寛政12年(1800年刊))で既に成慶院本が「武田信玄像」として紹介されており、これが明治40年頃に東京帝国大学が発行した教育用掛図の中に採用されて普及し始め[46]、今なお信玄の一般的なイメージとして知られている。甲府駅前や塩山駅前に建てられている銅像なども、そのイメージは成慶院本がモデルとされた。 ところが、歴史学者の藤本正行は、 勝頼の書状には像の図様が書かれておらず、成慶院本がそれに当たるか判別できない。 成慶院本は、『集古十種』以前に信玄像として扱われたことはなく、また『集古十種』にはしばしば誤りがある。 信玄の末子信清の家系である米沢武田家の史料に、成慶院の肖像は逍遙軒筆とあり、等伯が描いた現在の成慶院本と矛盾する。 39歳で出家し剃髪したにもかかわらず、後鬢が残されている。 服や刀の家紋が武田花菱紋でなく、二引両紋(足利氏や畠山氏)である。旧説支持者は足利将軍家からの下賜品と解釈するが、もしそうならばより権威が高く贈答品に用いられ肖像画の作例も多い桐紋が相応しく、また自家の家紋が全く描かれていないのは不可解である。 (持病の)労咳や癌で死んだと言われる割には、身体がふっくらしている。 右側に止まっている鳥は、当時の甲斐ではあまり見られない鳥種であった。 絵師は能登出身の長谷川等伯であることは間違いないが、この時期に能登から出た形跡が無く、信玄との接点は薄い。旧説支持者からは多くの仮説が出されているが、どれも成慶院本を信玄像とすることを前提としており、史料的な裏付けもない。 などの疑問点から、成慶院本の像主は能登畠山家の誰か、特に畠山義続の可能性が高いという説を出している。そのため、最近の教科書では成慶院本の画像は使われず、もっぱら持明院本の画像が採用されることが多い。なお藤本によれば、花菱紋が大量に描かれ、具足の描き方などが時代的によく合っているという論拠から、東京都世田谷区の浄真寺所蔵の『伝吉良頼康像』こそが、本来成慶院にあった逍遙軒の描いた信玄像の忠実な模本であるという。 また、江戸期に描かれた他の模本類でも、前述の高野山成慶院にあったという逍遥軒筆の信玄像は、この『伝吉良頼康像』に類似する[47][48]。更に信玄の法名「徳栄軒」と、畠山義綱の戒名「興禅院華岳徳栄大居士」に注目し、元々成慶院本に付属していた箱書きや讃文に書かれていたであろう「徳栄」の文字が、後世の人々に信玄像と誤認させたのでは、という指摘もある[49]。しかし美術史家からは、肖像は描かれた状況からどう描いたかを考えるべきで、図像から像主を判断するのは順序が逆だとして、こうした見方に反対する意見も根強い[50]。しかし、こうした反論は説得性を欠き、もはや決着はついたとする研究者もいる[51]。 武田菱 甲府市章の菱形は武田菱を由来とする。 出典:データは投稿者が作成 - 明治39年10月13日 甲府市議決「市徽章及市旗制定ノ件」による, パブリック・ドメイン, リンクによる Question book-4.svg この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "武田信玄" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2023年1月) 武田菱は、甲州武田家の家紋である。菱形を4つ合わせた形状であり、知名度が高い。元々は「割菱紋」と呼ばれたが、江戸期に大量に描かれた信玄像で信玄を表す家紋として使われたため、「武田菱」の呼び名が定着した。ただし、前述のように信玄のような武田家の総領は、実際には割菱紋ではなく花菱紋を用いており、注意を要する。旧甲斐国の山梨県では、甲府駅から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。なおこの意匠は、山梨県警機動隊の車両などの装備品に用いており、JR東日本の特急「あずさ」「かいじ」に使われたE257系のデザインにも取り入れていた。 また、広島県立祇園北高等学校は、校舎が武田氏の傍流安芸武田氏の居城佐東銀山城のあった武田山の麓に立地していることにちなみ、校章には武田菱があしらわれている。同じ広島県の呉武田学園武田中学校・高等学校は、安芸武田氏の末裔が設立した学校である事から、この学校の校章は武田菱をモデルとした校章を採用している。 長野県の白馬連峰山麓にある白馬五竜スキー場などの名称「五竜」は「御料」もしくは「御菱」が変化したものであり、雪解けの季節に武田菱に似た模様が山肌に現れるため武田家の「御料」と定められ(もしくは武田家の「御菱」ということから)、それが「五竜」と変化した、とする巷談がある。詳しくは「五竜岳」の項目参照。 なお、皇居で行われる新年一般参賀や天皇誕生日の一般参賀において使用される宮殿・長和殿のベランダ(天皇や皇族らが立つ位置)周辺に武田菱と同じ紋様が存在するが、これは古くから宮中の調度、装束に用いられているもので、甲州武田家とは無関係である(宮内庁広報係の回答より)。 ・風林火山 ・風林火山の旗が有名である為、信玄の代名詞とされる事がしばしば見られる。 ・「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」 ・諏訪明神の加護を信じて「南無諏方南宮法性上下大明神(なむすわなんぐうほっしょうかみしもだいみょうじん)」が同時に使われている。 後世の評価 甲府駅南口前の武田信玄公之像 出典:CC 表示 3.0, リンクによる 徳川幕府が成立してから著しく評価を落とされた豊臣秀吉とは対照的に、信玄は「家康公を苦しめ、人間として成長させた武神」として高く評価された。信玄の手法を家康が参考にした事から、「信玄の神格化=家康の神格化」となるので幕府も信玄人気を容認していたとされる。 江戸時代には信玄の治世や軍略を中心とした『甲陽軍鑑』が成立。甲州流軍学が流布されたほか、『甲陽軍鑑』を基に武田家や川中島合戦を描いた文学がジャンルとして出現した。また、江戸時代中期以降は一円が幕領支配となった甲斐国においては、大小切税法や甲州金、甲州枡の甲州三法に象徴される独自の制度を創始した人物と位置づけられ、崇められるようになった。 明治には信玄のイメージが広く定着するが、江戸期を通じて天領であった山梨県においては信玄は郷土史の象徴的人物と認識されるようになった。第二次世界大戦前は内務省が武田神社の別格官幣社への昇格条件に信玄の勤王事跡の挙証を条件としていたこともあり、郷土史家により信玄を勤王家と位置づける研究も見られた。戦後は、英雄史観や皇国史観を排した実証的研究が中世史や武田氏研究でも行われるようになった。また1987年(昭和62年)に発足した武田氏研究会では、磯貝正義、上野晴朗、笹本正治、柴辻俊六、平山優、秋山敬らの研究者によって、実証的研究や武田氏関係史料の刊行を行っている。 戦後には産業構造の変化から観光が山梨県の主要産業になると、観光事業振興の動きの中で、信玄は山梨県や甲府市などの自治体、民間の企業・団体によって、歴史的観光資源となる郷土の象徴的人物として位置付けられた。信玄の命日にあたる4月12日の土日には時代行列「甲州軍団出陣」を目玉とした都市祭礼である信玄公祭りが開催されており、また山梨の日常食であったほうとうが「信玄の陣中食」として観光食としてアピールされるなど、観光物産に関わる様々な信玄由来説が形成された。信玄餅や信玄鍋のように名を冠した商品もあるほか、「信玄の隠し湯」と自称する温泉地も長野県内などを含めて点在する。 関連施設も複数ある。恵林寺山内の「信玄公宝物館」(甲州市)[52]、「甲府市武田氏館跡歴史館」(愛称「信玄ミュージアム」)[53] などである。 系譜 武田氏は清和源氏の中の河内源氏系の新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の棟梁。武田氏は甲斐守護も務め、信玄は第19代当主に当たる。 父母 父:武田信虎 母:大井の方 兄弟 武田信繁 武田信基 武田信廉 松尾信是 武田宗智 河窪信実 一条信龍 武田信友 武田勝虎(武田信顕?) 定恵院(今川義元室) 南松院殿(穴山信友室) 禰々(諏訪頼重室) 花光院(浦野友久室) 菊御料人(菊亭晴季室) 亀御料人(大井信為室) (下条信氏室) (禰津政直室) 妻妾 正室:上杉の方(上杉朝興の娘) 継室:三条の方(三条公頼の娘) 側室 諏訪御料人(諏訪頼重の娘) 禰津御寮人(禰津元直の娘) 油川夫人(油川源左衛門の娘) 子女 武田義信 海野信親 武田信之 黄梅院(北条氏政室) 見性院(穴山信君室) 武田勝頼(諏訪勝頼) 真竜院(木曾義昌室) 仁科盛信 葛山信貞 武田信清 菊姫(上杉景勝正室) 松姫(織田信忠と婚約) 信玄の正室・側室は上杉朝興の娘、三条公頼の娘・三条の方(または三条夫人)のほか、諏訪頼重の娘など。多数の正室・側室がいたとする説もあるが、系譜・記録資料から確認できるのは上杉の方、三条の方、諏訪御料人、禰津御寮人、油川夫人の5人である。 ただ、禰津御寮人の子と言われる武田信清の出生時期が極めて遅いこと、信玄の七女が母親不詳なこと、上記3人以外の側室とされる墓が残されていることから、ほかに側室がいた可能性も考えられている。 武田信玄はこれでおしまい。4.は脚注・出典・参考などです。 |