富士五湖、自然と文化・歴史短訪 御師の家梅谷3 Oshinoie Umeya, Yamanashi pref. 青山貞一・池田こみち 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年9月 |
御師の家・梅谷 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2022-9 全体メニュー 御師とは 御師の家 梅谷1 御師の家 梅谷2 御師の家 梅谷3 旧鎌倉街道の要衝、河口集落には大梅谷家、中村肥後家など河口12坊と呼ばれる「御師の家」がある。 現存する梅谷(本庄)家の建物は、安永5年(1776年)の築。門は寛政12年(1800年)の建築です。富士河口湖町)で現存する唯一の御師住宅。当主は河口浅間神社神主で、今も御師の家を守っている。 写真:池田こみち Nkon Coolpix S9900 2022-9 写真:池田こみち Nkon Coolpix S9900 2022-9 写真:池田こみち Nkon Coolpix S9900 2022-9 ◎「貞観の噴火」を契機に勧請された河口浅間神社 平安時代の貞観6年(864年)に富士山の北西麓において、割れ目状の噴火が発生し、かつて存在したせノ海を西湖と精進湖に分断し、甲斐国に大きな被害をもたらしました。この噴火を鎮めるために翌年(865年)、勅命によって勧請されたのが河口浅間神社の起源と考えられています。富士山の鎮火を祈る古代の信仰が現在まで受け継がれている神社で、世界文化遺産・富士山の構成資産として登録されています。境内地には、山梨県指定天然記念物「河口浅間神社の七本杉」をはじめとした巨樹が多く生育し、荘厳な社叢の雰囲気を形成するとともに、同神社が神聖な空間として長い歴史の中で守られてきたことを証明しています。 ◎御坂峠を越え冨士に集う人々を支えた川口(河口)御師(おし) 河口は、旧鎌倉街道の難所である御坂峠の南に位置し、峠を越えて冨士に集う大衆の登山者(道者)を受け入れ、宿と食事を提供し、加持・祈祷や登山の世話をする御師が多く居た集落でした。江戸時代初頭に十二坊として記録に見える御師は、時代と共に分家などが進み、やがて120軒を超えました。甲府盆地以西・以北に暮らす道者たちにとって河口は富士山の玄関口であり、富士山信仰の重要な拠点でした。御師住宅が展開した短冊形の町割りが現在も見られます。江戸時代の御師住宅の姿を留めた「梅谷本庄家住宅」、江戸時代に将軍家の御祈願所として重要な役割を果たした三浦家に建てられた「三浦家の門」(町指定有形文化財)など、富士山信仰を支えてきた河口には往古の歴史を物語る貴重な文化的資産が数多く残されています。 富士山牛玉(ごおう) 長生不老之明神、安産之大祖、五穀成就之守護 昔は、富士山は遙拝(遠くから神仏などを拝む)の山として信仰されていました。やがて、平安密教の影響を受け、修験道の山として登拝(信仰登山)の山へと進化してきました。室町時代以降は、布教と登拝者の世話をする富士山御師が登場します。「御師(おし)」とは、「御祈祷師(おきとうし)」を略したものです。 彼らが、登拝者や信徒に配布したのが富士山の絵札です。そのひとつが、富士山牛玉(ごおう)です。「牛玉」(牛黄)とは牛の胆嚢や胃の中でできたもので、早くから高貴薬として重用され、一切の病魔を避除するのに効験があると言われました。護符の一種として、版木(はんぎ)という木版画を墨で和紙に摺ったものです。 この富士山の牛玉は登拝の道者が身にまとう行衣にも摺られました。はじめは、阿弥陀三尊を背に摺って登りました。つまり、仏に導かれて極楽に往生することと同じ意味をもっていました。やがて、江戸後期から明治の初期には、神道の影響により富士の祭神・木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を中心とした三神像が描かれるようになりました。 絵の上部にあるものは、右が日輪、左が月輪を描いています。そこに描かれた世界が現世的な時間を超越した世界=他界であることを表したものと言えます。また、合唱する猿(申)が描かれていますが、猿は古来から「山の神」ないし、その化身として礼拝されてきました。 この富士山牛玉の絵札は、河口浅間神社(富士河口湖町)で約1000余り、神宮・御師として仕えた梅谷(本庄)から出てきたものです。河口浅間神社(あさまじんじゃ)は貞観(じょうかん)7年、西暦865年に建てられました。富士山世界文化遺産の構成資産の一つになっています。 冨士浅間大神は、木花開耶姫命を祭神として、「長生不老之明神、安産之大祖、五穀成就之守護」のご加護があると言われています。特に木花開耶姫命は、安産・縁結び・夫婦円満の神様として永く信仰されてきた神様です。 企画・制作 株式会社エイオーエス企画 〒401-0304 山梨県南都留郡富士河口湖町河口1129(河口浅間神社前) TEL:0555-76-5181 師の家のことですが、お話しを聞いたと言っても本の少しなので、ちょっと調べて以下の様に書いてみました。いかがなものでしょうか。駐車場の看板の写真があれば送って下さい。じゃみ --- 富士山の噴火の歴史は、わかっているものの最も古い噴火が小御岳火山と言わ れ、約70万円から20万円前とされています。その後、何度も噴火を繰り返してい ますが、最も有名なものが貞観大噴火(864~866年)です。 ※貞観大噴火 864年(貞観6年)富士山の北西斜面(現在の長尾山)から大量の溶岩を流す噴火が起こりました。流れ出た溶岩の一部は当時あった大きな湖(せの海)を埋めて西湖と精進湖に分断し、大部分は斜面を幅広く流れました。これは青木が原溶岩と呼ばれ、現在そこには樹海が広がっています。 (出典:富士山の噴火史について、富士市Webサイトより) 今回、私たちが訪れた河口浅間神社は、この貞観大噴火の怒りを鎮めるめ、貞観七年(865年)に創建された1100年を超える歴史を持つ神社であり、河口湖周辺の三つの浅間神社(河口浅間神社、北口本宮浅間神社、冨士御室浅間神社)の中で最も古いものでした。その鳥居の前に御師の家「梅谷」という提灯が掛けられた古い門のある家があり、神社の駐車場の看板には次のような記載がありました。 「旧鎌倉街道の要衝、河口集落には大梅谷家、中村肥後家など河口12坊と呼ばれる御師の家がありました。現存する梅谷(本庄)家の建物は、安永5年(1776年)の築。門は寛政12年(1800年)の建築です。富士河口湖町)で現存する唯一の御師住宅。当主は河口浅間神社神主で、今も御師の家を守っています。」 2016年に明治以来140年ぶりに御師の家を復活させたご当主にお話しを伺ったところ、最盛期は河口地区に140件もの御師の家があり、富士山をお参りする登拝者たちのお世話をしていたが、明治以来途絶えてしまっていたとのことでした。復活した梅谷家は現在残る唯一の宿坊=民宿としての機能を果たしており、主に海外からの観光客が多く利用しているとのことでした。 富士山が世界遺産となったこともあり、登山者の数は年々増え、7-8月だけでも20万人近くになるそうですが、歴史的にも、富士山は信仰の山であり、全国からお詣りにくる登拝者たちのお世話をするのが「御師(おし)」のつとめだったようです。河口浅間神社の真ん前というロケーションからもわかるように、神官の手伝い、参拝者の食事、宿泊、怪我や病気の手当、登山の装束支度などの手伝い、安全祈願や祈祷などさまざまな役割を果たしていたようです。 主屋には古い資料なども展示してあり、歴史と文化を学ぶことが出来ます。御師の家の復活のニュースは、新聞やテレビでも紹介され話題になりました。 写真:池田こみち Nkon Coolpix S9900 2022-9 写真:池田こみち Nkon Coolpix S9900 2022-9 全体メニュー |