概要
1940年5月のナチス・ドイツのフランス侵攻とフランスの敗北によって、フランス本土に極めて近いチャンネル諸島には、ドイツの軍事的脅威が迫ることとなった。イギリスの軍指導部は戦略的理由によってチャンネル諸島を防衛しないことを決めた。6月には9万7千人の島民のうち、3万1千人が自主避難を行っている。
※ 英 Alderney concentration camps
独 KZ Alderney
日 オルダニー強制収容所
解説
チャンネル諸島の各政府は非常事態政府への改編が行われ、占領に備えることになった。6月16日、チャンネル諸島の行政機関は無防備都市宣言を行ったが、ドイツ側には認識されておらず、6月28日にはガーンジー島とジャージー島の港湾が爆撃された。
セント・ピーター・ポートでは、イギリス本土への食料輸出のために止まっていたトラックが軍事用と誤解されたために爆撃され、44名の島民が死亡している。ドイツ国防軍はチャンネル諸島を占領するために、二個空挺大隊による占領計画を立てていた。
6月30日、国防軍の第3航空艦隊に所属するLiebe-Pieteritz大尉が偵察のためにガーンジー島郊外の空港に降り立ち、島に軍隊がいないことを確認した。大尉の報告を受けて上陸したドイツ軍兵士たちに、島の警察官は「チャンネル島が『陛下の命令によって』無防備都市である」という書面を手渡した。7月1日、ドイツ軍はチャンネル諸島はドイツ軍の占領下にあると宣言し[3]
、7月4日に公式に降伏した。
チャンネル諸島のオルダニー強制収容所(Alderney concentration camps)は、ナチス・ドイツの強制収容所の一つである。イギリス連邦領で唯一ナチスに占領された、チャンネル諸島のイギリス王室属領・ガーンジーに属するオルダニー島に建設され運営された。
ナチスは、ハンブルク郊外のノイエンガンメ収容所の支収容所として、オルダニー島に4つの強制収容所を建設した。4つはフリースラント諸島にちなんでノルダニー収容所、ボルクム収容所、シルト収容所、ヘルゴラント収容所と名付けられた。ナチスのトート機関が各支収容所を運営し、強制労働でトーチカや銃座、防空壕、コンクリート製の要塞を建設した。収容所は1942年11月に運営を開始し、総収容者数は約6000人であった。
シルト収容所やノルダニー収容所の囚人は、オルダニー島全域に作られた要塞や軍事施設の建設に従事した。シルト収容所ではユダヤ人が強制労働に駆り出されていた。ノルダニー収容所ではヨーロッボルクム収容所とヘルゴラント収容所は、「有志の」(Hilfswillige)労働収容所であり、ここの労働者も酷く扱われたが、シルト収容所やノルダニー収容所よりは幾分ましな扱いであった。ボルクム収容所はドイツ人技術者とヨーロッパの異なる国の「有志」に用いられ、ヘルゴラント収容所の収容者は、主にトート機関のロシア人労働者であった。パ人と(通常は東欧だがスペイン人を含む)ロシア人が強制労働に駆り出された。
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1942年、ユダヤ人を収容するシルト収容所と、ロシア人捕虜とポーランド人捕虜を収容するオルダニー収容所は、マクシミリアン・リスト(de:Maximilian
List)親衛隊大尉の指揮下に置かれた。収容所閉鎖までに700人を越える囚人の命が失われ、残りは1944年にドイツに移送された。
戦争犯罪審理
第二次世界大戦後にオルダニー島の残虐行為に関する軍事法廷事件がマクシミリアン・リスト元親衛隊大尉に対して準備された。しかしリストは法廷に立つことはなく、1980年に死亡するまでハンブルク近郊に暮らしていたと考えられている。
参照
・オルダニー強制収容所に関する詳しい情報は、『オルダニー島、アングロ・ノルマンの島のナチスの強制収容所』[5]をご覧ください。
・ユダヤ人などに対するナチスの扱いについての詳しい情報は、ホロコーストをご覧ください。
脚注
1^ a b Subterranea Britannica (February 2003), SiteName: Lager Sylt Concentration
Camp 2009年6月6日閲覧。
2^ Christian Streit: Keine Kameraden: Die Wehrmacht und die Sowjetischen
Kriegsgefangenen, 1941-1945, Bonn: Dietz (3. Aufl., 1. Aufl. 1978), ISBN
3801250164 - "Between 22 June 1941 and the end of the war, roughly
5.7 million members of the Red Army fell into German hands. In January
1945, 930,000 were still in German camps. A million at most had been released,
most of whom were so-called "volunteers" (Hilfswillige) for (often
compulsory) auxiliary service in the Wehrmacht. Another 500,000, as estimated
by the Army High Command, had either fled or been liberated. The remaining
3,300,000 (57.5 percent of the total) had perished."
3^ The Jews in the Channel Islands During the German Occupation 1940-1945, by Frederick Cohen, President of the Jersey Jewish Congregation, http://web.archive.org/web/20031217122111/
http://www.jerseyheritagetrust.org/edu/resources/pdf/cijews.pdf
4^ Noted in The Occupation, by Guy Walters, ISBN 0-7553-2066-2
5^ Matisson Consultants, Aurigny ; un camp de concentration nazi sur une ile anglo-normande (English: Alderney, a Nazi concentration camp on an Anglo-Norman island ) 2009年6月6日閲覧。 (フランス語)
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