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第3回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2013-6
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune

ポンペイ、ヘルクラネウム及び

トッレ・アンヌンツィアータの

遺跡地域(世界遺産)
2
Archaeological Areas of Pompei, 2
Herculaneum and Torre Annunziata, It
alia

    青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2020年11月30日 独立系メディア E-wave Tokyo

ポンペイの考古遺跡とヴェスヴィオ山 Source:Wikimedia Commons CC BY 2.0 de, リンクによる

<ヴェスヴィオ総合メニュー>

ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータ
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 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Wikipediaイタリア語版を中心に英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

  
アマルフィの位置   イタリア国旗


Source:Wikipedia

はじめに

 ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域は、西暦79年のヴェスヴィオ山の噴火によって埋もれてしまったポンペイやヘルクラネウム(現エルコラーノ)の都市遺跡およびトッレ・アンヌンツィアータのヴィラの遺跡を対象とするUNESCOの世界遺産リスト登録物件です。

 1997年の世界遺産委員会ではイタリアの世界遺産が10件登録されましたが、これはそのうちの1件です。

歴史

 紀元前6世紀に建設されたとされるポンペイは、紀元前80年以降ローマの傘下に入りました。当時のポンペイは海に面した港町で、ローマの文化が多く流入する中で発展していました。

 港は地中海貿易の拠点として栄え、長らく噴火のなかったヴェスヴィオ山の斜面ではブドウなどの栽培が営まれていました。ポンペイでは羊毛加工と並び、ワインの醸造が主要な経済活動のひとつとなっていたのです。


西暦79年の噴火の被災地域
ヘルクラネウムなどヴェスヴィオ火山の周りの複数の都市が噴火により被害を受けた。
黒い雲は灰と噴石の降下の大まかな分布を表している。
Source:Wikimedia Commons
CC 表示-継承 3.0, リンクによる


 しかし、1世紀には地震が頻発するようになり、西暦62年2月に、その中でも特に規模の大きい地震が一帯を襲い、ポンペイのみならず、近隣の高級保養地ヘルクラネウムなどにも大きな被害をもたらしました。

 現代では、これらの地震はヴェスヴィオ山の活動と関連があったと見なされていますが、当時の人々は62年の大地震によって災害のピークは過ぎたと誤認していたといいます。そして震災からの復興の途上にあった西暦79年8月24日にヴェスヴィオ山は大噴火したのです。

 この噴火は13時頃に始まり、水蒸気爆発のあと、大量の軽石を噴出し、周囲に堆積していきました。軽石の堆積は1時間当たりにおよそ15cmのペースであったとされ、同じ日の18時には屋根に堆積した軽石によって潰される家屋が出はじめたといいます。

 この間、断続的に火砕流が起きたと考えられていますが、その最大規模のものは翌朝7時に発生し、周辺の町を住民もろとも飲み込みました。

 大プリニウスも近隣の町スタビアエでその火砕流に遭遇し、命を落とした[5]。噴火はその火砕流の少し後、8時頃まで実に約19時間持続していたといいます。


イシス神殿の発掘作業(18世紀)
Source:Wikimedia Commons
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 ポンペイも周辺の遺跡も埋もれたままになっていましたが、16世紀には建築家ドメニコ・フォンターナが水路建設の途中で建物の一部を発見しました。しかし、このときはまだ遺跡の全体像は認識されていませんでした。転機となったのは18世紀にヘルクラネウムの遺跡が発見されたことです。

 これを契機に1748年からブルボン家のカルロが主導する形でポンペイの発掘調査も始められました。1760年に建築家のフランチェスコ・ラ・ヴェーガが発掘作業の指揮を執るようになると、より体系的な発掘調査が行われるようになり、町の南部で大小の劇場だけでなく、エジプトの神イシスを祀る神殿も発見されました。


復元された犠牲者
Source:Wikimedia Commons
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 19世紀に入ると、まず1812年から13年の調査でフォルムなどが発見され、1830年には「アレクサンドロス大王とダレイオス3世の戦い」をはじめとするモザイクで飾られた「ファウノの家」などが出土しました。そして、1863年に考古学者ジュゼッペ・フィオレッリが、火山灰土中の空洞に石膏を流し込むという手法で、火砕流に巻き込まれた後、遺体が分解した人々の最期の姿を復元する手法を導入しました。

 1875年まで指揮を執ったフィオレッリは、発掘手法の進歩にも貢献し、彼が退いた後も、次々に重要な建造物は発見されました。すでに全体の8割が発掘されているといわれますが、残りの2割の発掘はあまりなされていません。これは新しい発掘よりも、既存の出土品・遺跡を後の時代へと伝えていくことの方が重視されるようになっているためです。

世界遺産の登録経緯

 ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域の位置(イタリア内)ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域

ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域

 世界遺産センターへの推薦書の提出は1996年7月19日のことでした。世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) は現地調査も踏まえて、世界遺産としての「顕著な普遍的価値」を認めましたが、ポンペイ、ヘルクラネウムのいずれも、推薦された範囲よりも登録範囲を拡大すべきと勧告しました。そして、当初推薦されていなかったトッレ・アンヌンツィアータのヴィラの遺跡も含めるべきことも勧告したのです。その年の第21回世界遺産委員会では、勧告を踏まえる形での登録が認められました。

登録名

 世界遺産としての正式登録名は、Archaeological Areas of Pompei, Herculaneum and Torre Annunziata (英語)、Zones archéologiques de Pompéi, Herculanum et Torre Annunziata (フランス語)です。

構成資産

 この世界遺産はカンパーニア州ナポリ県に残るポンペイの都市遺跡および関連するヴィラ、ヘルクラネウムの都市遺跡および関連するヴィラと劇場、さらにトッレ・アンヌンツィアータのヴィラなどによって構成されています。


ポンペイ


 ポンペイの街路図。
2番の黄緑の道がアボンダンツァ通り、3番の薄桃の道がノチェーラ通り、
4番の青い道がノーラ通り、5番の赤い道がスタビア通り、6番の水色の道が
メルクリオ通り、番号のない黒い道がフォルトゥナ通り。
Source:Wikimedia Commons
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 ポンペイ (Pompeii, ID829-001) は、世界遺産登録面積98haのうちの84.59haを占める都市遺跡です。

 ポンペイ南部にスタビア門があり、そこからスタビア通りが伸びています。スタビア門から見て通りの右側(北東側)が第Ⅰ地区とされており、反時計回りに第9(IX)地区までに分けられています。第Ⅰ地区では1927年から1932年にかけて「メナンドロスの家」が発見されました。

 この家からは多数の金属細工が発見されているほか、残されていた絵画やモザイクの素晴らしさが評価されています。また、ポンペイの主要産業のひとつであった繊維産業に関わる「ステファヌスの縮絨(しゅくじゅう)工房」も第I地区にあり、毛織物を浸すための水槽、脱水用の圧縮機などが使われていたようです。こうした毛織物の加工や洗濯を行う工房は他の地区にもありましたが、分水場と配管の都合で、スタビア通りの近辺に多く存在していました。

 ほかに、「クリプトポルティコの家」と呼ばれる、その名の通りクリプトポルティコ(強い日差しや雨を避けて歩ける地下列柱廊)が残る家や、ペガサスとベレロポン、牡牛に乗ったエウロパなど神話を題材に採った装飾画が残るテルモポリオ(居酒屋)なども第I地区にあります。


メナンドロスの家の壁画
Source:Wikimedia Commons
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 第I地区とノチェーラ通りをはさんで北東に位置するのが第II地区で、ポンペイ遺跡の東端にあたります。ここには紀元前80年に建てられたアンフィテアトルムや、トレーニング用の大運動場が残されています。大運動場(大パラエストラ)は1935年から1936年の調査で発見されたものですが、そこからは噴火の犠牲者も多く発見されています。

 この地区には、18世紀半ばの発掘の段階で見つかっていた「ユリア・フェリクスの家」が残っています。この家は、住居部分、一般公開部分(浴室)、賃貸部分(店舗など)の3つの要素で構成されており、柱廊に囲まれた庭園なども残っています。


アンフィテアトルム
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大運動場
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ユリア・フェリクスの家の壁画
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 第II地区とアボンダンツァ通りをはさんで北東にあるのが第III地区、そこからさらにノーラ通りをはさんだ北西が第IV地区で、これがポンペイ遺跡の北端ですが、それらの地域からは特筆される建物は出土していません。

 第IV地区の西に隣接する第V地区では、1891年から1893年の調査で「銀婚式の家」が出土しました。

 スタビア通りをはさんで第V地区の西に位置するのが第VI地区で、市壁に囲まれた区域の中では西端に当たります。

 市壁には付随していたメルクリオの塔が残されており、塔の上からポンペイ遺跡を一望できます。この地区では、残されたフレスコ画や彫刻が最高傑作の部類に入ると評価されている富裕商人の邸宅「ヴェッティの家」、演劇に関心を持っていたらしいネロ帝と同時代人の邸宅「アモリーニ・ドラーティ(金のキューピッド)の家」、だまし絵を含む絵画が評価されている「アラ・マッシマの家」、テセウスとミノタウロスの迷宮(ラビュリントス)を題材に採ったモザイク画が残る「ラビュリントスの家」です。

 前述のアレクサンドロス大王のモザイク画が発見された「ファウノの家」、エジプト風の装飾を施した噴水が特徴的な「大噴水の家」、番犬への注意を促すモザイク画が残る「悲劇詩人の家」など、様々な邸宅が発見されています。


ヴェッティの家
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ヴェッティの家に描かれたパシパエとダイダロス
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アラ・マッシマの家の壁画



ファウノの家
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ファウノの家のアレクサンドロス大王のモザイク画
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 第VI地区とフォルトゥナ通りを隔てて南側にあるのが第VII地区で、ユピテル神殿、アポロ神殿、ウェスパシアヌス神殿などの神殿群や、フォルム、市場、フォルム浴場、スタビア浴場などの公共施設群が多く残っています。スタビア浴場には男湯、女湯とも更衣室、微温浴室、温浴室(男湯は冷浴室も)が残り、運動競技場やプールもそなえていました。

 奔放な装飾の娼館が残っているのもこの地区であり、ほかにはポンペイで最も有名な肖像画ともいわれる「パン屋の夫婦」が発見された「テレンティウス・ネオの家」も、第VII地区にあろ、あし。


アポロ神殿
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フォルム
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スタビア温泉
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パン屋の夫婦
発掘された肖像画、フレスコ、国立ナポリ考古学博物館
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 第VII地区とアボンダンツァ通りをはさんだ南側が第VIII地区で、1760年からのラ・ヴェーガの調査で発見されたイシス神殿、大劇場、小劇場などが残っています。5,000人ほどを収容できた現在残る大劇場は1世紀に改築されたものですが、最初のものは紀元前5世紀に建てられていました。

 それに対し、800人収容の隣接する小劇場(オデオン)はそこまで古くはなく、ローマ人に支配され始めた頃に建てられました。

 この地区にはほかにウェヌス神殿やバシリカ、選挙の投票所などが残っています。第VIII地区の北側、第I地区の北西に位置するのが第IX地区で、選挙ポスターとして機能した碑文が正面に残る「トレビウス・ウァレンスの家」や、酒や料理を売る店がありました。


大劇場
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小劇場(オデオン)
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バシリカ
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秘儀荘の壁画


秘儀荘(ポンペイ)
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 ポンペイの秘儀荘 (Villa dei Misteri (Pompei), ID829-002) は、ポンペイ市壁外に残っていた館で、世界遺産登録面積は0.95haです。

 1910年に発見され、1929年から1930年の再調査で全貌が明らかになった別邸で、内部に「ディオニュソス秘儀」の壁画が描かれていることから、そのように呼ばれています。

 ディオニュソス秘教は、当時の南イタリアで流行していた官能性を備えた信仰で、秘儀荘の女主人ないし主人の妻は、その巫女ないし祭司のような存在であったと考えられています。秘儀荘の壁画は儀礼書の朗読、供犠、鞭打ちなど様々な場面が描かれていますが、これはディオニュソス秘教の入信儀式に関する秘儀を描いたものと考えられています。

 部屋を飾る壁画は鮮やかな赤地に描かれており、その赤のことが「ポンペイの赤」と呼ばれています。ポンペイの絵画は4つの様式に分類されていますが、ポンペイの赤を使った壁画は、その中でも最も美しい様式に属し、色彩には硫化水銀が使用されています。


ヘルクラネウム

 ヘルクラネウム (Herculaneum, ID829-003) は、現在のエルコラーノで18世紀に発見された都市遺跡で、ポンペイの本格的発掘の呼び水にもなりました。人口5,000人ほどだったとされる高級保養地で、世界遺産登録面積は9.42haです。

 建築物の遺跡としては、アウグスティヌス帝時代に建設された共同浴場、貸家にしようと改装していた途中で被災した貴族の館「宿屋の家」、海神とその妻を描いたモザイク画が残る「ネプトゥヌスとアンフィトリテの家」、ヘルクラネウムで最も独創的と評される「美しい中庭の家」、発掘開始200周年に当たる1938年に出土した「200年記念の家」、彫刻やフレスコ画で美しく飾られた「鹿の家」などが残っています。

 ポンペイとの違いは、冷えて固まった土石流の厚い層と地下水による湿度との作用で、木や紙で燃えたり腐ったりせずに残ったものが出土していることです。建築物でも、壁の骨組みとしての木材が残る「木の格子組の家」のほか、「炭化した仕切りのある家」「炭化した家具のある家」などが残っています。


宿屋の家
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ネプトゥヌスとアンフィトリテの家
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美しい中庭の家
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200年記念の家
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鹿の家
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炭化した仕切りのある家
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 ヘルクラネウムのパピリの館 (Villa dei Papiri (Herculaneum), ID829-004) は市壁の外にある壮大なヴィラで、世界遺産推薦の時点でも発掘作業が継続していました。世界遺産登録面積は1.22haです。


パピリの館(ヘルクラネウム)
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 ヘルクラネウムの劇場 (Theatre of Herculaneum, ID829-005) は、都市遺跡の中心部から外れた場所に建っており、2000人収容可能な劇場でした。世界遺産登録面積は0.17haです。


ヘルクラネウムの劇場  劇場の復元図
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出土した彫像
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トッレ・アヌンツィアータのヴィラ
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オプロンティスのヴィラ

 トッレ・アンヌンツィアータはポンペイとは約2.5 km 離れています。

 その郊外の遺跡は1964年から発掘が行われ、出土した「オプロンティスのヴィラ」は2つの区画が世界遺産に登録されています。西側の区画がヴィラA (Torre Annunziata: Villa A, ID829-006)、東側の区画がヴィラB (Torre Annunziata: Villa B, ID829-007) で、世界遺産登録面積は前者が1.15ha、後者が0.55haです。

 オプロンティスのヴィラは皇帝ネロの妻ポッパエアが所有していたと考えられ、西側の区画がその皇帝の部屋、東側の区画が奴隷たちの区域となっていたらしいのです。籠と果物を組み合わせた静物画やクジャクを描いたものなど、美しいフレスコ画が多く残されています。


Oplontis-PinturesCubicle-5657.jpg
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Villa Poppaea Salon 01.jpg
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静物画
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クジャク
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世界遺産の登録基準

 この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。

(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

(5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。

 世界遺産委員会は個別の登録基準の適用理由を示していなかったが、包括的な適用理由として「西暦79年のヴェスヴィオ山の噴火で埋もれたポンペイとヘルクラネウムの都市群および関連するヴィラ群の印象的な遺跡は、過去の特定の時点における社会と日常生活とを完璧に活写した全体像を提示しており、世界でほかに例がないものである」[43]と説明していた。


世界遺産3

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