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  厳寒のロシア2大都市短訪

ロシア帝国

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo
 
無断転載禁
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<ロマノフ朝>
  ロマノフ王朝        ロマノフ家            ロマノフ家の人々  
  ロマノフ帝国        エカテリーナ1世        エカテリーナ2世 


サンクトペテルブルグ(Saint Petersburg)

 
サンクトペテルブルグ市紋章 ロシア帝国の大紋章(1882 ~1917年)

ロシア帝国 Russian Empire

 ロシア帝国(Российская империя ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年から1917年までに存在した帝国です。帝政ロシアとも呼ばれます。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多くなっています。

 下は版図にみるロシア帝国です。ロシア帝国は現在のロシアを始め、最大時、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、満州などユーラシア大陸の北部を広く支配していました。


出典:東洋文化ミュージアム ロマノフ王朝企画展


呼称

 君主がツァーリを名乗った以前のロシア・ツァーリ国においても「ロシア帝国」と翻訳されることがありますが、ロシア語では「ツァーリ」(本来は東ローマ皇帝を指したが、やがて一部の国の王、ハーンなどを指す語とななります)と「インペラートル」(西欧に倣った皇帝を指す語)は異なる称号であるため、留意を要します。

ロシア帝国概要

 帝政は1721年にツァーリ・ピョートル1世が皇帝(インペラートル)を宣言したことに始まり、第一次世界大戦中の1917年に起こった二月革命でのニコライ2世の退位によって終焉します。

 領土(冒頭の版図を参照してください)は、19世紀末の時点において、のちのソヴィエト連邦の領域にフィンランドとポーランドの一部を加えたものとほぼ一致する面積2000万km2超の広大、広域に及び1億を越える人口を支配していました。首都は、1712年まで伝統的にモスクワ国家の首府でしたがモスクワからサンクトペテルブルク(St.Petersburg)に移され、以降、サンクトペテルブルクが帝国の終末まで帝都となりました。

 政治体制は皇帝による専制政治でしたが、帝政末期には国家基本法(憲法)が公布され、国家評議会とドゥーマからなる二院制議会が設けられて立憲君主制に移行しました。

 20世紀はじめの時点で陸軍の規模は平時110万人、戦時450万人でありヨーロッパ最大でした。海軍力は長い間、世界第3位でしたが、日露戦争で大損失を出して以降は世界第6位となっています。

 宗教はキリスト教正教会(ロシア正教会)が国教ですが、領土の拡大に伴い大規模なムスリム社会(イスラム社会)を内包するようになりました。そのほかフィンランドやバルト地方のルター派、旧ポーランド・リトアニアのカトリックそしてユダヤ人コミュニティも存在しました。

 ロシア帝国の臣民は貴族、聖職者、名誉市民、商人・町人・職人、カザークそして農民といった身分に分けられていました。貴族領地の農民は人格的な隷属を強いられる農奴であり、ロシアの農奴制は1861年まで維持されました。シベリアの先住民や中央アジアのムスリムそしてユダヤ人は異族人に区分されていました。

 ロシア帝国ではロシア暦が使用されています。文中の日付はこれに従っていますが、ロシア暦をグレゴリオ暦(新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えることになります。

国土

 先にロシア帝国の版図を時代区分とともに示しましたが、以下は、1866年のロシア帝国、1914年のロシア帝国、そして1945年以降のソビエト連邦(USSR)のロシアの国土を示しています。


1866年のロシア帝国   
出典:Wikipedia Commons


1914年のロシア帝国     
出典:Wikipedia Commons



1945年以降のソビエト社会主義連邦領    
出典:Wikipedia Commons


領域

勢力圏


 20世紀はじめ時点のロシア帝国の規模は世界の陸地の1/6にあたる約 22,800,000km2 (8,800,000 sq mi)に及び、イギリス帝国の規模に匹敵しました。しかしながら、この当時は人口の大半がヨーロッパロシアに居住していました。100以上の異なる民族がおり、ロシア人は人口の約43%を占めていました。

 現代のロシア連邦のほぼ全領土に加えて、1917年以前のロシア帝国はウクライナの大部分(ドニプロ・ウクライナとクリミア)、ベラルーシ、モルドバ(ベッサラビア)、フィンランド(フィンランド大公国)、アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア(ミングレリア(英語版)の大部分を含む)、中央アジア諸国のカザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン(トルキスタン総督府)、リトアニア、エストニアとラトビア(バルト諸州)の大部分だけでなく、ポーランド(ポーランド王国)とアルダハン、アルトヴィン、ウードゥル、カルスの相当の部分、そしてオスマン帝国から併合したエルズルムの北東部を含んでいました。

 1860年から1905年にかけて、ロシア帝国はトゥヴァ(1944年に併合)、カリーニングラード州(第二次世界大戦後にドイツより併合)そしてクリル列島(第二次世界大戦後に実効支配)を除く現在のロシア連邦の全領土を支配していました。サハリン州南部(南樺太、第二次世界大戦後に実効支配)は1905年のポーツマス条約により日本に割譲されています。

植民地

 シベリア・極東地方
 ・シベリア(ロシア人の入植によりロシア本土と同化)
 ・ウラル地域
 ・シベリア地域(狭義)
 ・極東地域

 中央アジア地方
 ・中央アジア(ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、カザフスタンなど)
 北米地方
 ・ロシア領アメリカ - 北アメリカのアラスカを領有していた(ロシアによるアメリカ大陸の
   植民地化)が、1867年にアメリカ合衆国に売却している(アラスカ購入)。

 中国地方
 ・天津租界地(zh:天津俄租界) - 1858年の天津条約により清から獲得。
 ・漢口租界地 - 1858年の天津条約により清から獲得。
 ・旅順租借地 - 1898年に清から獲得。
 ・大連租借地 - 1898年に清から獲得。

歴史

 注)詳細は「ロシア帝国の歴史」を参照

 1613年に全国会議(ゼムスキー・ソボル)がミハイル・ロマノフをツァーリに選出したことによって300年続くことになるロマノフ朝が開かれました。

 その孫にあたるピョートル1世(1682年 - 1725年)は近代化改革を断行して、専制体制を確立させました。


「全ロシアの皇帝」の称号を贈られるピョートル1世。 Boris Chorikov画。
Source:Wikimedia Commons
By Boris Chorikov - http://www.stormfront.org/forum/showthread.php/russian-civilization-379706p12.html, Public Domain, Link



ペテルブルクのクンストカメラはピョートル1世の蔵書や収集品を収蔵するために建てられた。1718年着工、1727年完成。バロック様式。
Source:Wikimedia Commons



サンクトペテルブルクのペトロパヴロフスク要塞(1706年-1740年)
出典:Wikipedia Commons
By Ssr - Praca własna, Domena publiczna, Link



ペテルゴフに所在するバロック様式のボリショイ大宮殿(1714年-1725年)
Source:Wikimedia Commons
Public Domain, Linkki


◆ペトロゴフ

 ペテルゴフ(Петерго?ф, Peterhof)はロシア・サンクトペテルブルクのペトロドヴォレツォヴヌイ区(ru:Петродворцовый район Санкт-Петербурга)にある町です。ドイツ語で「ピョートルの邸宅」の意味です。

出典:Wikipedia

 1721年、大北方戦争(1700年 - 1721年)に勝利したピョートル1世に対して元老院と宗務院が「皇帝」(インペラートル)の称号を贈り、国体を正式に「帝国(インペラートルの国)」と宣言し、対外的な国号を「ロシア帝国(インペラートルの国)」と称したことにより、ロシア帝国が成立しました。


出典:東洋文化ミュージアム ロマノフ王朝企画展


ペテルブルクの聖シモン・アンナ教会は1734年建設のバロック建築。いわゆる「ピョートル・バロック」に属する。
Source:Wikimedia Commons
Од User:LoKiсопствено дело, Јавна сопственост, Врска



バロック様式の代表作品、ペテルブルクのスモーリヌィ修道院(1748年-1764年)
Source:Wikimedia Commons
By Horvat - Opus proprium, Public Domain, Link



キエフの聖ムィハイール黄金ドーム修道院はウクライナ・バロックに属する建物である。
Source:Wikimedia Commons
By Луц Фишер-Лампрехт - Own work, CC BY-SA 3.0, Link


 ピョートル1世の死後、女帝と幼帝が続き、保守派によって改革が軌道修正されることもありましたが、ロシアの領土と国力は着実に増しており、エリザヴェータ(在位1741年 - 1761年)の時代に参戦した七年戦争(1756年 - 1763年)ではプロイセンを破滅寸前に追い込んでいます。


出典:東洋文化ミュージアム ロマノフ王朝企画展

 クーデターにより、夫ピョートル3世(在位1761年 - 1762年)を廃位して即位したエカチェリーナ2世(1762年 - 1796年)は啓蒙主義に基づく統治を志しましたが、結果的には貴族の全盛時代をもたらす施策を行っており、農奴制を強化しています。

 彼女の治世にロシアは西方ではポーランド分割に参加し、南方ではオスマン帝国との戦争に勝利してクリミア半島を版図に加え、ロシア帝国の領土を大きく拡大しました。


エカチェリーナ2世。
Source:Wikimedia Commons
ウィギリウス・エリクセン - smk.dk, パブリック・ドメイン, リンクによる

 次のパーヴェル1世(1796年 - 1801年)は母帝を否定する政策をとりましたが、クーデターによって殺害されました。皇位を継承したアレクサンドル1世(1801年 - 1825年)は自由主義貴族やスペランスキーを起用して改革を志しましたが、保守層の抵抗を受けて不十分なものに終わっています。彼の治世はフランス革命戦争やナポレオン戦争の時期であり、列強国となっていたロシアも欧州の戦乱に巻き込まれました。ロシアに侵攻したナポレオンに壊滅的な打撃を与えたアレクサンドル1世は神聖同盟を提唱し、戦後のウィーン体制を主導しています。


出典:東洋文化ミュージアム ロマノフ王朝企画展

 アレクサンドル1世の急死によって即位したニコライ1世(1825年 - 1855年)はその直後にデカブリストの乱に直面しました。乱を鎮圧したニコライ1世は「専制、正教、国民性」の標語を掲げて国内の革命運動・自由思想を弾圧し、国外でも反革命外交政策をとりました。

 オスマン帝国との戦争に勝利してバルカン半島への影響力を広げましたが、治世末期のクリミア戦争(1853年 - 1856年)では英仏の介入を招く結果となりました。

 ニコライ1世は戦争中に死去しており、帝位を継いだアレクサンドル2世(1855年 - 1881年)は不利な内容のパリ条約の締結を余儀なくされました。アレクサンドル2世はロシアの後進性を克服するための改革を志し、1861年に農奴解放令を発布したが、地主貴族に配慮した不十分なもので社会問題は解消されませんでした。


出典:東洋文化ミュージアム ロマノフ王朝企画展

 これ以外にも地方行政・司法・教育・軍制の諸改革が実施され、一連の改革は大改革と呼ばれます。オスマン帝国との戦争に勝利してバルカン諸国の独立を実現させるとともに、バルカン半島への影響力も拡大させますが、警戒した列強国の干渉を受け、ベルリン会議で譲歩を余儀なくされています。

 国内の知識人の間では革命思想が広がり、ナロードニキ運動が起こりました。政府はこれを弾圧しますが、アレクサンドル2世は革命派の爆弾テロで暗殺されます。


皇帝専用列車内で大臣や将軍らに退位を表明するニコライ2世。
Source:Wikimedia Commons
不明 author - http://chron.eduhmao.ru/page_3_2_1.html (direct link), パブリック・ドメイン, リンクによる




レフ・イワノフの肖像写真(1885年)  
出典:Wikipedia Commons


 父の暗殺によって即位したアレクサンドル3世(1881年 - 1894年)は反動政策を行い、革命運動を弾圧しましたが、彼の時代にロシア経済は大きな躍進を遂げています。


出典:東洋文化ミュージアム ロマノフ王朝企画展

 最後の皇帝となるニコライ2世(1894年 - 1917年)は専制政治を維持しましたが、日露戦争(1904 - 1905年)の敗北によって1905年革命が起こり、国民に大幅な譲歩をする十月詔書への署名を余儀なくされました。十月詔書によってドゥーマ国会が開設され、ロシアは国家基本法の下で立憲君主制に移行したものの、依然として皇帝権が国会に優越したものでした。


出典:東洋文化ミュージアム ロマノフ王朝企画展

 ストルイピン首相が強権を伴う国内改革を断行しましたが、中途で暗殺されて終わり、ロシアは国内が不安定なまま第一次世界大戦(1914年 - 1918年)を迎えることになります。ロシア軍は初戦で惨敗を喫し、ドイツ軍がロシア領に深く侵攻しました。

 ロシアはドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国との総力戦を戦い、2年間の戦闘で530万人もの犠牲者を出しています。

 国民と兵士に厭戦気分が広まり、1917年に首都ペトログラードで労働者が蜂起する二月革命が起こりました。兵士は労働者の側について労兵ソビエトを組織し、権力掌握に動いた国会議員団はニコライ2世に退位を勧告しました。ニコライ2世はこれを受諾し、ロシアの帝政は終焉したのです。

政府


ロシア帝国の大紋章(1882 1917年)。
全ロシアの皇帝かつ専制者であると表示しているロシア帝国の大紋章。

 1613年にミハイル・ロマノフがツァーリに推戴されて以降、1917年に帝政が終焉するまでのおよそ300年にわたりロマノフ家がロシアの君主であり続けました。ホルシュタイン=ゴットルプ公だったピョートル3世(在位1761年 - 1762年)が即位して以降はホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝(Гольштейн-Готторп-Романовская)とも呼ばれています。

 1721年にピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は称号をツァーリから変えて「全ロシアの皇帝」(インペラートル:Император)たるを宣言しました。彼の後継者たちも1917年の二月革命で帝政が打倒されるまで、この称号を保ちましたが、一般的にはツァーリとも呼称されていました。

 1905年の十月詔書以前、皇帝は絶対君主として君臨しており、基本法(ロシア語版)(Свод законов)第一条は「ロシア皇帝は独裁にして無限の権を有する君主であり、主権の全体は帝の一身に集中する」と規定しています。

 皇帝は(既存の体制を維持するための)次の2つの事項にのみ制約されていました。一つは皇帝とその配偶者はロシア正教会に属さねばならないこと。もう一つはパーヴェル1世(在位1796年 - 1801年)の時に定められた帝位継承法に従わねばならないことです。これ以外のことではロシアの専制君主の統治権は如何なる法律にも制約されず事実上無制限でした。

 この状況は1905年10月17日に変化しました。1905年革命の結果出された十月詔書以降、皇帝の称号は依然として「全ロシアの皇帝かつ専制者」であり続けますが、1906年4月28日に制定された国家基本法は「無制限」の語を取り除いています。

 皇帝は自主的に立法権を制限し、いかなる法案も国会(ドゥーマ)の承認なく法制化できなくなりました。しかしながら、皇帝は国会の解散権を有しており、彼は一度ならずこれを実行しています。加えて皇帝は全ての法案に対する拒否権を有しており、国家基本法を自ら改正することも出来たのです。大臣は皇帝に対してのみ責任を負っており、国会は問責はできるが解任はできません。このため、皇帝権はある程度は制限されたものの、帝政が終焉するまで強大であり続けたのです。

 ロシア皇帝はフィンランド大公(1809年以降)およびポーランド国王(1815年以降)を兼ねていました。国家基本法第59条はロシア皇帝の正式名称として君臨する50以上の地域名を列挙していました(ロシア皇帝を参照)。

歴代皇帝

歴代当主(歴代ロシア皇帝, インペラートル) ムラサキの地に黄色字は女帝

歴代 皇帝 在位 備考
初代 ピョートル1世 1721年-1725年 ツァーリ即位は1682年。元老院と宗務院より、インペラートルとともに大帝(Великий)の称号も受ける。
第2代 エカチェリーナ1世 1725年-1727年 ピョートル1世の皇后。
第3代 ピョートル2世 1727年-1730年 ピョートル1世の孫、廃太子アレクセイの子。
第4代 アンナ 1730年-1740年 ピョートル1世の異母兄イヴァン5世の子。クールラント公フリードリヒ・ヴィルヘルムの未亡人。
第5代 イヴァン6世 1740年-1741年 イヴァン5世の曾孫。宮廷クーデターにより廃位。1764年に殺害。
第6代 エリザヴェータ 1741年-1761年 ピョートル1世とエカチェリーナ1世の子。
第7代 ピョートル3世 1761年-1762年 エリザヴェータの甥。ホルシュタイン=ゴットルプ公。宮廷クーデターにより廃位、後に殺害される。
第8代 エカチェリーナ2世 1762年-1796年 ピョートル3世の皇后。プロイセンのアンハルト=ツェルプスト侯家出身。大帝の称号を受ける。
第9代 パーヴェル1世 1796年-1801年 ピョートル3世とエカチェリーナ2世の子。宮廷クーデターにより殺害。
第10代 アレクサンドル1世 1801年-1825年 パーヴェル1世の子。
第11代 ニコライ1世 1825年-1855年 パーヴェル1世の子、アレクサンドル1世の弟。
第12代 アレクサンドル2世 1855年-1881年 ニコライ1世の子。「人民の意志」派の爆弾テロにより暗殺される。
第13代 アレクサンドル3世 1881年-1894年 アレクサンドル2世の子。
第14代 ニコライ2世 1894年-1917年 アレクサンドル3世の子。二月革命により退位。1918年に家族とともに殺害される(ロマノフ家の銃殺)。
出典:Wikipediaなどを参考に青山貞一が作成


つづく