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厳寒のロシア2大都市短訪
 

ロシア文豪 プーシキン

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年3月31日
独立系メディア E-wave Tokyo
 
無断転載禁
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ロシアの文豪
  19世紀はロシア文学の黄金時代 
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アレクサンドル・プーシキン
  Александр Сергеевич Пушкин
 (1799年6月6日 - 1837年2月10日)


『アレクサンドル・プーシキンの肖像画』(キプレンスキー作、
1827年、トレチャコフ美術館所蔵)
Source:Wikimedia Creative Commons



出典:Wikipedia
   アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(1799年6月6日 - 1837年2月10日)は、ロシアの詩人・作家。ロシア近代文学の嚆矢とされています。

生涯
 
 モスクワに生まれます。父親は由緒ある家柄のロシアの地主貴族です。母親の祖父アブラム・ペトロヴィチ・ガンニバルは、ピョートル1世に寵愛された黒人奴隷上がりのエリート軍人でした。叔父のワシーリイ・リヴォーヴィチは詩人であり、カラムジンやドミートリエフなどの当時の詩人らがプーシキン家に出入りしていました。

 プーシキンは早くから文学に親しみ、また乳母はロシアの民話や民謡に詳しく、彼に影響を与えました。

 ペテルブルク郊外のツァールスコエ・セロー(現在はプーシキンと呼ばれます)にあったリツェイ(学習院)での公開試験で朗読した自作の詩『ツァールスコエ・セローの思い出』が、デルジャーヴィンに認められます。

 これを機に、その才能はロシアの文学界に広く知られるところとなりました。1820年、最初の長編詩『ルスラーンとリュドミーラ』を発表します。

 次第に政治色を帯びた詩を発表するようになり、文学的急進派の代弁者となって行きます。

 それを疎んだ政府は、1820年に彼をキシニョフへ送る。1823年までキシニョフに留まりました。その間、夏にカフカース(コーカサス)とクリミアに旅して長編詩『コーカサスの虜』や『バフチサライの泉』を書き、高い評価を得ました。

  1823年にはオデッサに移り住みますが、再び政府と衝突し、1824年に両親の住む北ロシア、プスコフ県ミハイロフスコエ村に送られます。この時期にシェークスピアを愛読し、『ボリス・ゴドゥノフ)』などの戯曲を書いています。
 1826年、皇帝ニコライ1世への嘆願が認められてペテルブルクに戻ります。しかし、1825年に起こったデカブリストの蜂起の後の締め付けのために、デカブリスト(十二月党員)に友人をもつプーシキンは、北ロシアにいた時期に書いた『ボリス・ゴドゥノフ』などの詩を発表することが許されず、政府の監視のもと、窮屈な生活を余儀なくされます。

 ニコライの創設した秘密警察である皇帝官房第三課は、長官アレクサンドル・ベンケンドルフ伯爵のもとでプーシキンへの監視を行いました。結婚の前年の1830年には、ボルジノにてロシア初の短篇小説集『ベールキン物語』、叙事詩『コロムナの家』、『ヌーリン伯爵』、韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』を完成します。

 1831年、ナターリア・ゴンチャロワと結婚します。プーシキンとナターリアの間には、1832年に小説『アンナ・カレーニナ』のモデルとして知られる長女マリア、1833年に長男アレクサンドル、1835年に次男グリゴリー、1836年に次女ナターリア(孫はゾフィー・フォン・メーレンベルク)の、計2男2女が生まれました。


ナターリア・プーシキナ、アレクサンドル・ブリロフ画、1831年
Source:Wikimedia Creative Commons

 1833年、オラルとオレンブルクを訪問します。

 1836年、雑誌『同時代人』を創刊。ニコライ1世の強権的な専制政治の圧政下、検閲や発禁処分など言論への弾圧に反発します。同年11月、『大尉の娘』を第4号に発表。その後、低位の階級を与えられ帝室への出入りを許されるが、この申し出を、名うての美人で、密かに慕う者が多かったと言われる妻ナターリアを帝室に出入りさせるためのものとして、屈辱と受け取ります。

 プーシキンの進歩思想を嫌った宮廷貴族達は、フランス人のジョルジュ・ダンテスをたきつけ、ナターリアに言い寄らせ、やがて、プーシキンは妻に執拗に言い寄るダンテスに決闘を挑み、1837年1月27日、ペテルブルグ北郊のチョールナヤ・レチカで決闘を行いました。

 この決闘で受けた傷がもとで、その2日後に息を引き取りました。政治的な騒動を恐れた政府は、親しい者だけを集めて密かに葬儀を執り行いました。遺体はミハイロフスコエ付近のウスペンスキー大聖堂の墓地に埋葬されました。


ガウ画『ナタリヤ・プーシキナの肖像』(水彩画・1840年代)逸話
Source:Wikimedia Creative Commons

 決闘によって死ぬ以前、プーシキンは強運の持ち主として知られ、数多くの決闘で、自分は一切撃たず、相手に撃たせ、いずれも弾が外れ、当然の如く笑って済ませていたという逸話がいくつかあります(死ぬこととなる決闘においても、出血して怒りの形相だったのが、最後の方では周囲に笑っていたとされています)。

 逸話1:若い友人と詩のことから喧嘩となり、決闘に至ったが、平然と笑いながらプーシキンは彼が撃つのを待ち、弾はそれました。大声で笑いながら友人の身体を抱いて、手を握りました。侮辱されたと思った友はしきりに撃てというが、「僕のピストルはね、雪が詰まっちまったんだ」といって、笑いながら撃たなかったと言われます。

 逸話2:南ロシア・キシニェフの事。ある参謀将校(『人間の死にかた』の逸話を原文ママ)とバカラ賭博のことで決闘に至りました。プーシキンはピストルの代わりに一袋の桜桃を持って立っていました。相手が狙っている間、終始桜桃を頬張り続け、弾が外れると、「どうだ、得心がいったか?」と言い、笑いながら立ったままだったそうです。

 逸話3:有名なピストルの名手(『人間の死にかた』原文ママ)の軍人との決闘話。吹雪の中、夜会でも行くような気持ちで行ったプーシキンでしたが、この時は、双方とも2発撃ちました。しかし、互いに2発とも外れたとされ、介添に促されて中止になりました。水のような彼の冷静さは常に友人達を驚かせたのです。


 なお、ロシア作家については、ロシアNOWが「ロシア作家の5つの決闘」という特集記事を組んでおり、その筆頭にプーシキンvsダンデスの決闘が掲載しています。


アレクサンドル・プーシキンを描いたグラフィティ= V. Vizu/wikipedia.org撮影
出典:ロシアNOW


プーシキンが偉大である10の理由 ロシアNO

 さらに、ロシアNOWに、プーシキンが偉大である10の理由 という論考があります。

 以下にその10の理由の見出しを紹介します。これはサンクトペテルブルグやモスクワを歩くと実感します。プーシキンはロシア国民に絶大な人気があるのです! 

 青山が思うに、それは①文学能力の高さ、②絶大な勇気、③比類ない愛情の持ち主、④話題性それでいて⑤ユーモアがあるからでしょう。、

プーシキンが偉大である10の理由   
 
  1.現代ロシア語を創った。
  2.ジャンルの多さの記録保持者
  3.すべての主題を書いた。
  4.ロシア生活の百科事典
  5.もっとも難しいことを単純素朴に話した。
  6.勇敢な剽軽(ひょうきん)者だった。
  7.真理のために苦しんだ。
  8.絶妙な愛の抒情詩を残した。
  9.大作家たちの間での議論の的だった。
  10.ソ連時代に一般的になったプーシキン崇拝。

 出典:ロシアNOW

作品

 南ロシアにいた時期にはバイロンの影響を受け、「コーカサスの虜」などの詩を作っています。プスコフに移された時期からはシェイクスピアの研究を行い、ボリス・ゴドゥノフなどに影響が見て取れます。

 ・ルスラーンとリュドミーラ(詩、1820年)
 ・コーカサスの虜(ロシア語版)(詩、1822年)
 ・バフチサライの泉(詩、1824年)
 ・シベリアへ送る詩(1827年) - シベリアへ流された友人オドエーフスキイ公爵にあてた詩
 ・ジプシー(ロシア語版、英語版)(詩、1827年)
 ・ポルタヴァ(英語版)(詩、1829年)- ポルタヴァの戦い
 小悲劇(ロシア語版)(「けちな騎士(ロシア語版)」、「モーツァルトとサリエリ(ロシア語版)」、
  「石の客(ロシア語版)」、「黒死病の時代の饗宴(ロシア語版)」の4篇、1830年)
 ・ボリス・ゴドゥノフ(英語版)(戯曲、1831年)
 ・ベールキン物語(ロシア語版、英語版)(短編集、散文、1831年)
 ・その一発(ロシア語版、フランス語版)
 ・吹雪(ロシア語版、英語版)
 ・葬儀屋(ロシア語版、フランス語版)
 ・駅長(ロシア語版、フランス語版)
 ・百姓令嬢(ロシア語版、フランス語版)
 ・サルタン王の物語(ロシア語版、英語版)(1831年)
 ・金の鶏の物語(ロシア語版、英語版)(1834年)
 ・漁夫と魚の物語(ロシア語版、英語版)(1835年)
 ・エヴゲーニイ・オネーギン(韻文小説、1825年 - 1832年)
 ・青銅の騎士(詩、1833年)
 ・スペードの女王(1833年)
 ・プガチョーフ叛乱史(ロシア語版)(散文、1834年)
 ・大尉の娘(散文、1836年)
 ・ピョートル大帝のエチオピア人(ロシア語版、英語版)(1837年)- 主人公イブラヒムの
  モデルは、祖父アブラム・ガンニバル。
 ・エジプトの夜 (1837年)

関連作品

オペラ


 ・プーシキンの作品の幾つかは、ロシア・ソ連の作曲家たちによってオペラ化されています。

グリンカ(ロシアの作曲家)

 ・『ルスランとリュドミラ』(1842年)
 ・ダルゴムイシスキー
 ・『石の客』(1872年)

キュイ(ロシアの作曲家)

 ・『黒死病の時代の饗宴』(1900年)

ムソルグスキー(ロシアの作曲家)

 ・『ボリス・ゴドゥノフ』(1874年)

チャイコフスキー(ロシアの作曲家)

 ・『エヴゲーニイ・オネーギン』(1879年)
 ・『スペードの女王』(1890年)

リムスキー=コルサコフ(ロシアの作曲家)

 ・『モーツァルトとサリエリ』(1898年)
 ・『皇帝サルタンの物語』(1900年)
 ・『金鶏』(1909年)

ラフマニノフ(ロシアの作曲家)

 ・『けちな騎士』(1903年)

コルンドルフ(ロシアの作曲家)

 ・『黒死病の時代の饗宴』(1972年)

などがあります。

その他

 『オネーギンの恋文』 - 『エヴゲーニイ・オネーギン』を映画化。レイフ・ファインズ主演。『ブロンズの天使』 - さいとうちほの漫画。プーシキンの妻ナターリアを主人公に、プーシキン、ダンテス、ナターリアの姉エカテリーナの四角関係を描く。コミックは小学館フラワーコミックスから。全7巻。


つづく