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厳寒のロシア2大都市短訪
 

ノヴォデヴィチ女子修道院

概要・歴史

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo

無断転載禁
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 ・ノヴォデヴィチ女子修道院
  
概要・歴史   歴史2   建築・外装   内装   イコン   

 ・ノヴォデヴィチ女子修道院併設
  
生神女就寝大聖堂


◆モスクワ市の寺院


モスクワ市の紋章

 モスクワでチャイコフスキーがこの湖を見ながら「白鳥の湖」作曲したという湖(池)のすぐ隣に、ロシア全体でも著名なノヴォデヴィチ女子修道院がありました。

 この修道院はロシア全体でも有名な歴史ある修道院で、その墓にはロシア皇帝の家族、大統領はじめ多くの人々が眠っています。例外なく、この修道院も、帝政ロシア、ソ連、そして現在のロシアと国の形が変わるたびに大きな影響を受けてきました。

 しかし、ノヴォデヴィチ女子修道院、ロシア語でНоводевичий монастырь、英語でEnsemble of the Novodevichy Conventは、2004年に国連のUNESCOの世界遺産に登録され、設立本来の目的、役割を達成する下地ができつつあります。

 以下のノヴォデヴィチ女子修道院についての解説はWikipediaを、また写真は現地撮影およびWkimedia Commons を基にしています。また地図の出典はグーグルマップです。
 

◆ノヴォデヴィチ女子修道院

◆概要

 ノヴォデヴィチ女子修道院は、下のグーグルマップにあるように、モスクワ中心部のクレムリンの南西、モスクワ川が蛇行した部分にあります。


出典:グーグルマップ

 下は拡大した地図です。ノヴォデヴィチ女子修道院のすぐ北には、ボリショイノヴォデヴィチー池があります。この池がチャイコフスキーが白鳥の湖の作曲を思い浮かべたという場所です。


出典:グーグルマップ

 ノヴォデヴィチ女子修道院は、モスクワにある正教会の修道院の中でも、有名な女子修道院のひとつです。2004年にUNESCOの世界遺産に登録されています。

 以下は「白鳥の湖」の池からノヴォデヴィチ女子修道院を撮影した写真です。この日は曇りのち雨、しかも逆光ということで条件が悪すぎたのですが、何とか修道院全体のシルエットが映っています。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2017-2


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2017-2

◆ノヴォデヴィチ女子修道院群

 2004年に登録されたロシアの世界遺産(文化遺産)で、首都モスクワ南西、モスクワ川の近くにある修道院です。モスクワにある正教会の修道院の中でも、最も有名な女子修道院の一つです。

 この修道院の建物は、リトアニアからのロシア領土奪回を記念して、当時のモスクワ大公国のヴァシーリー3世(1479~1533年)の命により建設が始まりました。

 現在残っている修道院の建築物群は15の建物からなっています。

 6本の柱と3つのドーム屋根を持つスモレンスキー聖堂は、1524年から1525年にかけて建設されたもので、モスクワ・バロック様式の傑作とされ、ロシア建築特有の中央の切妻屋根は、雷帝と呼ばれたイワン4世(1530~1584年)の治世に建設されたものです。

 この聖堂の中には、16世紀のテンペラ画を主体にした壁画があります。英名はEnsemble of the Novodevichy Conventです。

出典:コトバンク

 なお、ノヴォデヴィチ女子修道院へはメトロ スポルチーヴナヤ より徒歩で約12分です。また入場料300ルーブル(日本円で600円弱)、さらに 写真撮影料100ルーブル(日本円で200円弱追加)です。 墓地のみの入場は無料です。ノヴォデヴィチ女子修道院の開館時間は、10:00~17:30です。


◆ノヴォデヴィチ女子修道院の歴史

・モスクワ大公国時代

 ノヴォデヴィチ女子修道院は1524年に創建されました。モスクワ大公・ヴァシーリー3世の命によって、建設が開始されたこの修道院は、1514年に、スモレンスクがモスクワ大公国に併合されたことを記念して建てられました。

 ということは、下表で見ると、ロシア・ツァーリの成立以前、モスクワ大公国時代に建設が開始されたことになります。

 スモレンスク (Смоленск, Smolensk) は、ドニエプル川沿いに位置するロシア連邦の西方の都市です。モスクワからは西南西へ360km、スモレンスク州の州都です。現在の人口は351,100人(2003年推計)、2002年国勢調査では325,137人となっています。

国名 時代区分 継続年 首都
モスクワ大公国 1263年 - モスクワ
ロシア・ツァーリ 1547年 - 1564年 174 モスクワ
1564年 - 1581年 アレクサンドロフ
1581年 - 1712年 モスクワ
1712年 - 1721年 サンクトペテルブルグ
帝政ロシア(ロマノフ王朝) 1721年 - 1914年 196 サンクトペテルブルグ
1914年 - 1917年 ペテログラード
ロシア臨時政府 1917年 1未満 ペテログラード
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 1917年 -1922年 5 モスクワ(1918~)
ソビエト連邦(USSR) 1922年 - 1924年 95
1924年 - 1991年
ロシア 1992年 -
出典:Wikipedia、各種文献を参考にして青山が作成

 修道院は、モスクワ川の湾曲部における自然の要塞(クレムリ=要塞)の役割を果たしていました。これは、当時は他の修道院も同じような役割を持っていました。創建の際に、3,000ルーブルと2つの村が修道院に与えられたそうです。イワン4世の時代には、さらに複数の村が寄進されています。村が寄進されるということはすごいことです。

 このノヴォデヴィチ女子修道院は、ロシア王家やボヤール(Boyar、10世紀から17世紀にかけての貴族のことを指します)出身の貴婦人たちを多くかくまったことでも有名です。

 彼女たちには、ヴェールの着用が義務付けられていました。修道院で修道女となった女性で著名な者としては、フョードル1世の妻であるイリナ・ゴドゥノヴァ、ピョートル1世の姉妹であるソフィア・アレクセーエヴナ、そして、ピョートル1世の最初の妻であるエヴドキヤ・ロプーヒナがいます。

 ご承知のように、ピョートル1世は、エカテリーナ一世と結婚するために、妻をこの修道院にいれたのです。

 ロシア・ツァーり時代のロシア・ポーランド戦争では、1610年から11年にかけての一時期、アレクサンデル・ゴシュースキ (Aleksander Gosiewski) が指揮するポーランド軍に占領されたこともあります。その後、修道院はロシアの手に戻り、1616年には、修道院を護衛するために、100人の護衛兵が配備されました。

 1618年には350人まで増強され、17世紀末までには、36の村を保有する大地主にまで成長しました。修道院ここまで力を持つこと自体、ものすごいことだと思います。

 下の写真は現在のノヴォデヴィチ女子修道院の全容です。


ノヴォデヴィチ女子修道院
Source:Wikimedia Commons
Anne-Laure PERETTI Lotusalp - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


ロシア帝国時代

 17世紀の半ば、ウクライナやベラルーシのほかの修道院から多くの修道女がノヴォデヴィチ女子修道院に移ってきました。1721年には、古儀式派を殺害した老修道女の複数名が女子修道院に避難してきたこともあります。

 1724年、修道院は帝政ロシアの陸軍のための病院を併設すると同時に、孤児院も建設されました。1763年には84名の修道女、35名の修道女見習い、78名の病人がいたことが記録されています。毎年、ロシア帝国は、修道院に対して1,500ルーブルの現金とパンを支給し、さらに孤児のために別に680ルーブルの現金とパンを支給しています。

 1812年、ナポレオンの軍隊が修道院を攻撃しようとしましたが、修道院は破壊の手から免れることができました。レフ・トルストイの『戦争と平和』には、主人公のピエール(ピョートル)伯爵が修道院で処刑される予定でしたし、『アンナ・カレーニナ』では主人公格のコンスタンティンは、将来の妻となるキティが修道院の隣の池(白鳥の湖)でアイススケートしているところをみられています。

 下は、1813年のノヴォデヴィチ女子修道院の風景です。絵画のはPORTERです。


1813年のノヴォデヴィチ女子修道院の風景です。絵画のはPORTER
Source:Wikimedia Commons
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ノヴォデヴィチ女子修道院のドーム内部
Source:Wikimedia Commons
Uwe Brodrecht - 0120 - Moskau 2015 - Neues Jungfrauenkloster, CC 表示-継承 2.0, リンクによる


 修道院の側の池は確かに、19世紀の間、モスクワにおいてもっとも有名なスケートリンクでした。またトルストイもハモーヴニク (Khamovniki) に居住していた時は、修道院の側で、アイススケートを楽しんでいました。

 1871年、フィラートイェフ兄弟が孤児のために寄付し、また二軒の貧窮者の収容施設が建設されました。1900年代初頭には、建築家で建築物の保存分野で活躍したイワン・マシュコフ (Ivan Mashkov) によって、大聖堂(スモレンスキクの生神女大聖堂)の調査が行われ、修復作業が行われました。1917年のロシア革命勃発時には、51名の修道女と53名の修道女見習いが修道院にいたことが分かっています。


つづく