エントランスへはここをクリック   

グアム現地総合調査


参考・グアム島と沖縄2
JapanTimes 枯葉剤報道第11弾
ジョン・ミッチェル

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2019年1月24日公開
独立系メディア E-Wave Tokyo 
無断転載禁

グアム島全体目次

グアム島と沖縄1   グアム島と沖縄2   


ジョン・ミッチェル「太平洋の毒物:グアム、沖縄、枯れ葉剤」
『ジャパン・タイムズ』 2012年8月7日。

原文:Jon Mitchell, "Poisons in the Pacific: Guam, Okinawa and Agent Orange,"

Japan Times, Aug. 7, 2012. http://www.japantimes.co.jp/text/fl20120807zg.html

 1968年、当時19才の軍曹リロイ・フォスターがグアムのアンダーセン空軍基地、太平洋最大のこの米軍駐留地に到着した翌日、彼は上官から「植生管理任務」を命ぜられた。「ディーゼル燃料とエージェント・オレンジを混合して、ジャングルの茂みを除草するため基地中をトラックで散布してまわった。

 先輩兵はだれもやりたがらない仕事だったから、トーテムポールでいえば最下層にいる自分にお鉢が回ってきたってわけだ」とフォスターはジャパンタイムズ紙に語った。

[写真キャプション]虹の戦士:ラルフ・スタントン。

 現在は軍の枯れ葉剤使用について調査の先頭に立っている彼は、1969年か70年のある時期、グアムで勤務し、「虹色の除草剤」のひとつ、エージェント・オレンジに被曝したと考えている。写真提供ラルフ・スタントン。 軍務が始まったばかりの頃、フォスターは吹き出物や腫れ物が体中に出来、布団に擦れて出血するのが大変つらかった。

 その後は何年にも渡ってパーキンソン病、虚血性心疾患など病気の連続だった。これらの病状は散布を命じられた毒性の高い除草剤が原因だと考えている。フォスターはまた、エージェント・オレンジのダイオキシンはその被害が次世代の健康にも及ぶほど長期にわたるもので、彼の娘が10代にして抗がん治療を受けなければならず、孫の手と足は12指あり心雑音を持って生まれたことも、このダイオキシンの影響だと考えている。

 だがフォスターは幸運なほうだと言える。グアムでエージェント・オレンジによる病気を訴える数百の元米兵がいるなか、フォスターはこの島での被曝を原因として政府から補償を受けているわずか5名のうちのひとりだからだ。

 残りの者たちは、記録には「グアムのどの場所においてもエージェント・オレンジのような戦略除草剤の使用・試験・保管を示すものはない」とペンタゴンが主張しているため、救済を拒否されているのである。

 この否定の仕方は、ジャパンタイムズの読者には見慣れたものだろう。本紙は、もう一つの米軍の軍事拠点である沖縄においてもこの毒性化学品が使用されたとの疑いについて米政府の調査を行ってきた。過去18ヶ月間、何十人もの元兵士がヴェトナム戦中の沖縄における除草剤について発言してきた。

 これらの退役兵たちと、ときにはその子供たちも、ダイオキシン被曝を原因とする病気にかかっている。しかし、米政府はかれらのうち3名の被害しか認定せず、沖縄でのエージェント・オレンジ保管・埋却・使用を一貫して否認している。

 米軍による毒物汚染がグアムと沖縄で併行して起こっていることは憂慮すべき事態である。第一にこれらの島にエージェント・オレンジが持ち込まれた原因は、その共通の歴史にある。2200キロメートルの距離を置いて西太平洋に浮かぶグアムと沖縄はどちらも、第二次世界大戦の悪夢のような戦闘の目撃者であった。

 グアムは、かつて米の輸出基地であり、1941年12月に日本に占領されて2年半の残虐な占領を受け、1944年7月、米軍によって解放された。日本の県である沖縄は1945年春、米兵に1万2000名の死者と4万人の負傷者を出す戦闘の末、米軍によって占領された。


 沢山の米兵の血で贖われたふたつの島は、多くの米国指導者たちにとって、過酷な戦闘の戦利品として獲得した領土であるとの意識が染みついている。第二次大戦終結の後、二つの島は徐々に地球上で最も軍事化された場所へと変貌し、グアムは銛の切っ先("Tip of the Spear")、沖縄は太平洋の要石となった。

 軍事評論家たちには好まれるとはいえ、このニックネームは、島に暮らす人びとに押しつけられた周縁的な地位を覆い隠すものだった。1950年にグアムは非併合領を宣言、島内の民政を認定するものの住民は大統領選挙への参政権を持たない、この制度は今日まで続いている。

 1945年から1972年まで沖縄はアメリカ支配のグレーゾーンのなかで、米国、日本いずれの憲法の保護も受けない状態に置かれた。

 この制度によって、軍はその行動の責任を問われずにすむことになったが、それは他地域では困難であっただろうことであり、有毒除草剤の使用もその範疇に含まれる。

 ペンタゴン自体の記録によれば、1952年グアムに初めて保管された枯れ葉剤は、5000本のエージェント・パープルのドラム缶であった。いわゆる「虹色の除草剤」のひとつで、容器の周囲に描かれた識別色によって命名されたエージェント・パープルは、エージェント・オレンジに先行するもので、さらに毒性の高いものとして今日では知られている。

 米軍は朝鮮戦争で使用するためグアムに除草剤を持ち込んだ。だが配備前に紛争が停止し、米政府によれば、その後グアムから撤去されたという。


グアム島と沖縄3につづく      グアム島全体目次