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グアム現地総合調査


マゼラン記念碑

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2019年1月24日公開
独立系メディア E-Wave Tokyo 
無断転載禁

グアム島全体目次

マゼラン記念碑  聖ディマニシオ教会  ソレダット砦 
聖ヨゼフ教会   イナラハンの史跡等

 最終日、私たちはグアム島南端の集落、ウマダックからイナラハン、さらにグアム大学まで車を走らせ、記念碑や教会などを視察しました。なかには、ポルトガルのマゼランが上陸した地点の記念碑、スペインがつくったソレダット砦それにカソリックの教会などがありました。

◆マゼラン記念碑


出典:グーグルマップ


出典:グーグルマップ

 グアム島南西部のウマタック地区にあるフェルディナンド・マゼランのグアム上陸です。世界一周の航海をしていたマゼランが、1521年3月6日にグアム島に上陸した場所です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900   2018-4

マゼラン上陸    以下の出典:グアム政府観光局

 グアム島が初めてヨーロッパと接したのは1521年3月6日とされています。それは世界一周の航海の途にあったマゼランがグアム島を発見し、ウマタックに上陸したことがきっかけでした。

 マゼランはスペイン国王の命による世界一周の航海中、3隻の船団を修理するために3日間、グアム島に立ち寄ったのです。そこで新鮮な果物や野菜や水を島から調達したマゼランはその対価として鉄を島民に与えました。

 まだ新石器時代のような暮らしをしていたチャモロ人に とって、鉄は大きな値打ちを持っていたのです。

フェルディナンド・マゼラン(1480年 - 1521年4月27日)

 マゼランは大航海時代のポルトガルの航海者、探検家です。1519年に始まる航海でスペイン船の艦船隊を率いました。マゼラン自身は航海半ばの1521年に亡くなったものの、彼が率いたスペインの艦隊が1522年に史上初の世界一周を成し遂げました。


Source:Wikimedia Commons


Source:Wikimedia Commons

スペイン統治の始まり

 マゼランがグアム島を発見した後、1565年スペインのコンキスタドール(征服者)であるミゲル・ロペス・デ・レガスピがグアム島に到達し、スペイ ン国王がグアム島およびその他のマリアナ諸島の領有権を正式に宣言しました。

 この時から333年にも続くスペインの統治時代が始まったのです。

キリスト教の布教

 その時から100年余り後の1668年、神父ディエゴ・ルイス・デ・サンビトレス率いるイエズス会の宣教師団が、ヨーロッパ文明、つまりキリスト教や交易などをこの地に確立するためにやって来ました。

 それまでグアム島は、航路の中継地としての領土でしたが、これを機に本格的にスペインに征服されることになるのです。宣教師たちはチャモロ人に「メイズ」(トウモロコシ)の栽培を教えたり、家畜を持ちこみ、その飼育法や皮のなめし方などを教えたりしたほか、衣服も西洋風に変えさせました。

 キリスト教が定着すると、村々ではカトリック教会が活動の中心となったのです。

スペイン・チャモロ戦争

 近隣の島々へも広がっていったカトリック教ですが、「先祖崇拝」を強く禁止するなど、カトリックの教えがチャモロの伝統的価値観や習慣と相反することがわかると、徐々にカトリックの教えに反発するようになり、1668年スペイン・チャモロ戦争へ発展していきます。

 スペインはカトリック教に反抗的な全ての村を焼き払い、酋長を厳しい罰を与えました。そして1695年チャモロ人が降伏した時、10万人いたといわれるチャモロ人が5,000人以下に減って しまったのです。

アメリカ時代の到来  米西戦争

 1898年スペイン軍によるアメリカ戦艦の沈没をきっかけに米西戦争が勃発しました。スペイン領であったグアム島もアメリカ海軍の砲撃を受け、同年アメリカによって占領されることになります。

 大敗を喫したスペインは多くの植民地を失い、同年パリ条約によってグアムもアメリカの領地となりました。アメ リカ海軍による統治は農業、保健衛生、教育、土地管理、税制、公共事業などに数々の変革や改善をもたらしました。

 グアム島はアメリカ海軍の石炭補給および通信連絡の拠点として使用されていましたが、1941年、真珠湾攻撃後間もなく侵攻してきた日本軍の手に落ちることになるのです。

日本占領時代

 1941年、日本は真珠湾攻撃による太平洋戦争勃発を機にグアムを占領します。グアムは日本軍の占領下にある唯一の旧米国領となり、第二次世界大戦中も他に類を見ない立場に置かれました。

 その後31ヶ月間にわたった日本の占領時代にグアム島民は日本の生活習慣を強要されることになりました。日本軍はグアム島を「大宮島」と、首都ハガニアは「明石」と改名されました。この日本軍占領時代を、チャモロ語では「日本の時代」を意味する「テイエイポン・チャパネス」と 呼んでいます。

 日本軍は歴代の統治者と同様に、島民に日本語を使用することを強制しましたが、チャモロ人がアメリカに対して抱き続けていた忠誠心から、日本語が使えたチャモロ人はほんのひと握りだったと言われています。またチャモロ人の住居の自由は保証され、住みたい場所に住むことができました。

アメリカ時代への回帰

 アメリカ軍がマリアナ諸島に向かって反撃を強めるに従い、チャモロ人に対する日本人の態度は日毎に厳しくなっていきました。島民たちは強制労働をさせられ、島の東部にあるキャンプに集められます。

 数千人ものチャモロ人、米兵、日本兵の命を奪った3週間に及ぶ激戦の末、グアム島は平静を取り戻し、再びアメリ カの統治下に入りました。
 1950年にアメリカの自治属領(準州)となり、今日までアメリカ軍の太平洋戦略上の基地として活用されています。

近年

 1967年、パンアメリカン航空が日本から航空路の運航を開始し、これによりグアムに近代的な観光産業がもたらされました、以来、グアムでは経済の 多様化と拡大が続いています。

 軍需、観光、および関連産業(建設、小売、銀行、金融サービスなど)の拡大に加え、経済改革もまた島民の雇用に重要な役割を 果たすとともに、グアムという世界市民的な社会が期待するビジネスの選択肢も広がりつつあります。

 グアムの豊かな歴史的遺産こそが、グアム島の今後の発展の拠り所とすべき枠組みとなっているのです。


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