エントランスへはここをクリック   


真夏の上信州
歴史的拠点を行く

Bぶどう峠と十石峠

青山貞一 池田こみち
掲載月日:2013年8月31日
 独立系メディア E−wave Tokyo

 
◆ぶどう峠と十石峠(群馬県と長野県の県境にある峠)

 ところで、過去、何度か上野村に来ていますが、そのときはいわゆる秩父事件に関連し、東京鎮台(旧陸軍)に追われ秩父から長野の小海地域に転戦した農民らが通ったという武州街道、現在の国道299号線が長野に入るところにある十石峠が、冬期や春に通行止めとなっていました。


長野・群馬県境と十石峠、ぶどう峠
出典:グーグルマップ

◆ぶどう峠

 またその代替道路となっている国道124号線のぶどう峠(武道峠)も通行止めとなっていました。これらの峠は1500m級の標高にあります。

 今回、8月27日、ぶどう峠は何とか開通していました。そこで8月27日、県道124号線をぶどう峠まで進みました。

 標高1500m級の峠からは、好天もあり御巣鷹山、高天原山それにJAL123便 日航機墜落現場が遠くからではありますがよく見えました。

 ちなみに激突した尾根は、標高で1979mの高天原山の尾根のスゲノ沢一帯です。当初、激突した高さは1565mです。一方いわゆる御巣鷹山は1639mあります。以下の図は2013年8月27日、現地調査した範囲を地図化したものです。


2013年8月27日、現地調査した範囲を地図化したものです。
出典:青山貞一作成

 下の写真は、ぶどう峠(武道峠)から御巣鷹の尾根、墜落現場、高天原山方面を見たものです。


ぶどう峠にて  群馬県上野村と長野県佐久市の県境
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-27


ぶどう峠にて  群馬県上野村と長野県佐久市の県境
前方、御巣鷹山とあります
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-27


ぶどう峠にて  群馬県上野村と長野県佐久市の県境
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-27


ぶどう峠にて  群馬県上野村と長野県佐久市の県境
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-27


ぶどう峠から見た御巣鷹山、JAL墜落現場、高天原山
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-27

 下の写真は激突現場部分を拡大したものです。今なお、激突部分の植生は十分にもどっておらず、写真でも縦に白い線が見えます。写真中、真ん中が墜落現場、手前が御巣鷹山、背後が高天原山です。


ぶどう峠から見た御巣鷹山、JAL墜落現場、高天原山
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-27

 ぶどう峠の標高が1500m級もあるので、ほぼ同じ高さに見えました。


◆十石峠

 一方、過去何度も不通となっていた十石峠は、今回も不通でした。

 しかし、今回はその迂回道路が開通していました。そこで、8月28日、この迂回路にチャレンジしました。この十石峠は、秩父事件で東京鎮台(陸軍)に抗戦した農民らが埼玉県の秩父から長野県の小海地域に転戦しながら通った峠として歴史的に有名な峠です。


出典:最後まで戦った菊池貫平ハイビジョンドキュメンタリー

  

●秩父事件の詳細経過

 秩父地方では、自由民権思想に接していた自由党員らが中心となり、増税や借金苦に喘ぐ農民とともに「困民党(秩父困民党。秩父借金党・負債党とも)」を組織し、1884年(明治17年)8月には2度の山林集会を開催していた。

 そこでの決議をもとに、井上伝蔵をはじめとした請願活動や高利貸との交渉を行うも不調に終わり、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起が提案され、大宮郷(埼玉県秩父市)で代々名主を務める家の出身である田代栄助が総理(代表)として推挙された。

 蜂起の目的は、暴力行為を行わず(下記「軍律」参照)、高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願することであった。


 早くも翌11月1日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所等の書類を破棄した(なお一部には、指導部の意に反して暴力行為や焼き討ち等を行った者もいた)。


出典:映画「草の乱」荒川渡渉の図より
映画、草の乱より
龍勢会館にて
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 しかし、当時既に開設されていた電信によりいち早く彼らの蜂起とその規模を知った政府は、一部汽車をも利用して警察隊・憲兵隊等を送り込むが苦戦し、最終的には東京鎮台の鎮台兵を送り郡境を抑えたため、11月4日に秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧された。

 一部の急進派は
長野県北相木村出身の菊池貫平を筆頭とし、さらに農民を駆り出して十石峠経由で信州方面に進出したが、その一隊も11月9日には佐久郡東馬流(現小海町)で鎮台兵の攻撃を受け壊滅した。その後、おもだった指導者・参加者は各地で次々と捕縛された。


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 事件後、約14000名が処罰され、首謀者とされた田代栄助・加藤織平・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作・菊池貫平・井上伝蔵の7名には死刑判決が下された。

 ただし、井上・菊池は欠席裁判での判決。井上は北海道に逃走し、1918年にそこで死去した。菊池はのち甲府で逮捕されたが、終身刑に減刑され、1905年出獄し、1914年に死去した。



●長野から秩父事件の蜂起に参加した人々

菊池貫平 (1847・弘化4年生まれ) 
信州南佐久郡北相木村 自由党員 困民党軍参謀長


菊池寛平

 村内屈指の養蚕家であり、代言人でもあった。三沢村の萩原勘次郎から要請を受け、蜂起直前の10月27日に同郷の井出為吉とともに来秩。蜂起に際して「軍律5カ条」を起草し自ら参謀長に就く。「今日を期して全国ことごとく蜂起し、現在の政府を転覆して国会を開く革命の乱」であると秩父事件を捉えているのが特徴。

 11月4日の皆野本陣解体後、自ら新たに総理となって坂本宗作・伊奈野文次郎・島崎嘉四郎らとともに東馬流まで転戦。行方知れずのまま欠席裁判で死刑。 明治19年に甲府で逮捕。憲法恩赦で死刑を免れ北海道で無期徒刑。明治38年に出獄し郷里に帰った。大正3年没。


五ヵ条の軍律 この軍律をつくったのが菊池寛平
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 
秩父事件の指導者の一人。信濃国南佐久郡北牧村に生まれ,同郡北相木村菊池家に婿養子となる。

 一時岩村田町で代言人となったが,1884年,秩父事件に同村の井出為吉と参加し,困民軍の参謀長となり軍律5ヵ条を起草した。11月3日,皆野において憲兵隊との銃撃戦を指揮し,翌日本陣が解体すると坂本宗作らと山中谷を長駆して信州に入り,600名の農民を集めたが,9日未明東馬流の一戦に敗れ,困民軍は野辺山原で解体した。欠席裁判で死刑。

 出典:コトバンク

井出為吉 (1859・安政6年生まれ)
信州南佐久郡北相木村 自由党員 困民党軍軍用金集方


菊池寛平と井出為吉の像
出典:秩父事件、最後まで戦った菊池貫平(ハイビジョンドキュメンタリー)

 村内屈指の豪農で明治12年に21歳にして村会議員、明治16-17年にかけて戸長と学務委員をつとめた。井出の自宅などからは『仏国革命史』『広議世論』『民権自由演説規範』『欧米政党沿革史』などの膨大な蔵書が発見されており、相当のインテリで積極的な自由民権家であった事がわかる。

 明治17年10月下旬、菊池貫平とともに秩父へゆき秩父困民党に参加。蜂起に際しては軍用金集方となる。商人から軍用金を借りした際、証文に「革命本部」と書いた事は有名。事件後軽懲役8年の判決を受けるが憲法発布の恩赦で出獄し、そののちは教員や役場吏員をつとめた。明治38年死去。

出典:http://www.chichibujiken.org/folder/post-5.html


 下の図は国道299号線とその迂回路(矢弓沢線)の路線図です。迂回路は上野村の白井地区を起点とし、国道299号線のヘアピン部分を終点としています。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-27

 下は迂回路の途中で撮影した写真です。背景はV字の谷の奧に高天原山、日航機墜落現場、御巣鷹山が見えます。ぶどう峠よりかなり北側にあるので、小さく見えます。


迂回路途中から日航機墜落現場をのぞむ
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-28

 下は迂回路の終点です。


迂回路の入り口
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-28


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-28

 十石峠の長野県側(佐久市)には、下の写真のような展望台がありました。


十石峠の長野県側にある展望台
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-28


十石峠の長野県側にある展望台
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-28
 下は展望台で写真を撮る池田。


十石峠の長野県側にある展望台
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-8-28

 こうして、私達は、8月27日(ぶどう峠)、8月28日(十石峠)と、歴史的に著名な2つの峠を通り長野県の小海経由で北相木村、南相木村に行きました。

つづく