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メアリー・スチュアート
とカナダ・ノバスコシアの
脱焼却・脱埋立政策A
青山貞一 
掲載月日:2012年6月6日
 独立系メディア E−wave Tokyo


 2012年6月6日の深夜1時過ぎから3時頃までNHKのBSプライムで「悲劇の女王、メアリースチュワート」を放映していた。

 この歴史ドキュメントは、最後の最後までイギリス(=イングランド)への併合を拒んだスコットランドのメアリーとイングランドのエリザベス一世の骨肉の争いを描いたものである。スコットランドのメアリー側から見ると悲劇の歴史となる。


出典:NHK BSプレミアム

 誰に何と言われようと、独自性を主張してやまない。スコットランドは簡単に長い物に巻かれない。寄らば大樹とならない、元祖、理不尽なことに「ノーと言える国」、それはスコットランドが、敢えてアメリカ大陸に移住しつくった地域であるからだ!
 
 その元祖は、スコットランドに生まれ、育ったメアリー・スチュアートの苦難と悲劇の人生をベースにしているからだ。これは付和雷同、思考停止となっている今の圧倒的多くの日本人には分からないことだ。

 スコットランドは今でこそ、英国(イギリス)の一部となっているが、16世紀までは、いわば独立したスコットランド王国であった。メアリーの孤軍奮闘むなしく、スコットランドはその後、ウェールズとともにイングランドに統合され、今の英国となった。

現在の英国(イギリス)

 イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドから構成される立憲君主制国家。英連邦王国の一国である。また、国際関係について責任を負う地域として、王室属領及び海外領土があるが、これらは厳密には「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」には含まれておらず、これらを含む正式な名称は存在しない。

 1066年にウィリアム征服王 (William the Conqueror) がイングランドを制圧し、大陸の進んだ封建制を導入して、王国の体制を整えていった。人口、経済力に勝るイングランドがウェールズ、スコットランドを圧倒していった。

 1282年にウェールズ地方にもイングランドの州制度がしかれ、1536年には正式に併合した。

 1603年にイングランドとスコットランドが同君連合を形成、1707年、スコットランド合併法(1707年連合法)により、イングランドとスコットランドは合併しグレートブリテン王国となった。

 さらに1801年には、アイルランド合併法(1800年連合法)によりグレートブリテン王国はアイルランド王国と連合し、グレート・ブリテンおよびアイルランド連合王国となった。ウィンザー朝のジョージ5世の1922年に北部6州(北アイルランド; アルスター9州の中の6州)を除く26州が、アイルランド自由国として独立した。1927年に現在の名称へと改名した。

出典:Wikipedia

 そのスコットランドは、最後までイギリスへの統合を拒否し、エジンバラを首都としたスコットランドの独立を死守し、さらに統合する場合でもスコットランドがイギリスの中心となるべきと、自律、自立心が強く、するどい個性と土地柄を持っていると言える。

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 メアリー・スチュアートは、スコットランド王ジェームス5世とフランス貴族のマリ・ド・ギーズの間に生まれた。


左がスコットランド王ジェームス5世、右がフランス貴族のマリ・ド・ギーズ
中央がマリー・スチュアート
出典:NHK BSプレミアム

 イギリスの女王は、今のエリザベス二世を見るまでもなく、気丈でしたたかさが特徴のように思えるが、メアリー・スチュアートはその元祖とでも言える女性であり、したたかさとともにしなやかさを持っていた。

◆メアリー・スチュアート(Mary Stuart)

 スコットランドの女王として生を受け、16歳でフランスの王妃となり、当時、欧州随一の美女といわれ、学問、教養においても、ルネサンス時代の典型的貴婦人として謳われたメアリー女王が、なぜエリザベス女王の手に囚われ、44歳の春に断頭台の露と消えいったのか?
 
 メアリー・スチュアートは、1542年12月8日、リンリスゴー城でジェームズ5世の第3子として生まれた。


リンリスゴー城
Source: English Wikipedia

リンリスゴー宮殿の口コミ
リンリスゴー宮殿 (トリップアドバイザー提供)

リンリスゴー宮殿の口コミ
リンリスゴー宮殿 (トリップアドバイザー提供)


リンリスゴー城  Source:Google Map


メアリー・スチュアートが生まれたリンリスゴー城のメアリーの居室より
出典:NHK BSプレミアム

 12月14日にジェームズ5世が30歳で急死すると、長男と次男が早世していたため、わずか生後6日で王位を継承した。

 メアリーが生まれ7ヶ月のとき、スターリング城に移り住むことになった。このスターリング城でメアリーは、王冠を頂きスコットランドの女王となった。


メアリーはリンリスゴー城からスターリング城に移された
どことなくエジンバラ城に似ている
Source: English Wikipedia

スターリング城 (Stirling Castle)

 イギリス、スコットランド・スターリングにある城。スコットランド史において歴史的にも建築学的にも重要であるとされる。キャッスル・ヒルと呼ばれる火山性のでこぼこした岩の上に城が建ち、三方をけわしい断崖に囲まれ非常に防御に優れている。このため早い段階から重要な要塞として、戦略上の要所だった。現在城は国の文化財であり、文化財保護団体ヒストリック・スコットランドが管理している。

 摂政には、ジェームズ2世の曾孫の第2代アラン伯ジェームズ・ハミルトンが就任した。それからイングランド国王ヘンリー8世の要求により、メアリーは当時王太子だったエドワード6世と婚約させられた。

 1547年、イングランドの政権を握ったサマセット公エドワード・シーモアの攻撃を受け、迎撃に出たアラン伯が敗れる事態になった。

 1548年、王母マリーの提案でメアリーはフランスのアンリ2世の元に逃れ、以後フランス宮廷で育てられた。


13歳頃のメアリー・スチュアート Young Mary Stuart
Source: English Wikipedia


1553年頃のコイン
Source: English Wikipedia

 1558年4月24日、メアリーはアンリ2世の王太子フランソワと結婚式を挙げた。同年11月17日にジェームズ5世の従妹に当たるエリザベス1世がイングランド女王に即位すると、アンリ2世は「庶子であるエリザベスの王位継承権には疑義があり、メアリーこそ正当なイングランド王位継承権者である」と抗議した。


メアリー(16歳)はアンリ2世の王太子フランソワ(15歳)と結婚式を挙げる
左は王太子のフランソワ、右やメアリー
Source: English Wikipedia


Royal arms of Mary as Queen of Scots and Dauphine of France (1558-1559)
Source: English Wikipedia


Royal Arms of the Kingdom of Scotland (1558-1559)
Source: English Wikipedia

 さらに、1559年9月にはフランスとイングランドの講和条約締結の後に、駐仏イングランド大使を招いた祝宴の席で、メアリーはイングランド王位継承権者であることを示す紋章を発表し、エリザベスを激怒させた。

 7月10日にアンリ2世が亡くなると、王太子がフランソワ2世として即位し、メアリーはフランス王妃となった。

 この年から翌年にかけてスコットランドではプロテスタントの反乱が起こり、これにイングランドが介入して、フランス海軍は大打撃を受けた。

 7月6日、エディンバラ条約が結ばれ、フランスのスコットランドへの軍事介入の禁止と、先の紋章の使用禁止が謳われたが、メアリーは実際にはその後もこの紋章を使用し続けた。


スコットランド女王 メアリースチュアート
出典:Wikipedia


スコットランドの州都、エジンバラにあるエジンバラ城
出典:NHK BSプレミアム


Royal Arms of Mary, Queen of Scots, France & England
Source: English Wikipedia

 イングランド国内においても、エリザベスの王位継承に不当性を唱える大貴族がおり、女王の政権は不安定なものであり、メアリーがエリザベスを「庶子」と主張して自らの王位継承権を言い立てることは、エリザベス個人の不興にとどまらず、政権を揺るがす政治的問題であった。

 また、ローマ法王を含む多くのカトリックは実際にメアリがイングランド女王であると考えていた。

 1560年12月5日、フランソワ2世が16歳で病死した。子供ができなかったメアリーは、翌1561年8月20日にスコットランドに帰国した。


Royal Arms of the Kingdom of Scotland (1559-1560)
Source: English Wikipedia

 当時のスコットランドは宗教改革が進み、多くの貴族がプロテスタントに改宗していたが、カトリックの貴族も相当数残っていた。マリ伯とメイトランドはともにプロテスタントであったが、メアリーは宗教の選択には寛容で臨むと宣言し、両派の融和を図った。


出典:NHK BSプレミアム


出典:NHK BSプレミアム

◆ジョン・ノックス(英: John Knox、1510年 - 1572年11月24日)

 スコットランドの牧師、スコットランド宗教改革の指導者、長老派教会の創立者である。スコットランドのセント・アンドルーズ大学で教育を受ける。


ジョン・ノックス

 ノックスはジョージ・ウィシャートなどの初期改革者の影響を受けて、スコットランド教会の改革に着手した。

 彼は、1546年の教会と政治に関わる事件に巻き込まれる。キャンドル・ビートンの殺人事件と、スコットランド摂政の介入である。翌年フランス軍に捕えられ、19ヶ月間フランスの軍艦で奴隷として働かされるが、1549年に捕虜交換で釈放され、イングランドに追放された。

 ノックスはそこで、イングランド国教会の牧師として、エドワード6世に仕えて、王室付属牧師となる。ここでイングランド国教会祈祷書の作成に影響を与えた。また彼はイングランドで最初の妻と出会い、結婚した。だがメアリー・スチュアートが王位に就いてローマ・カトリックを再建したため、ノックスは大陸に亡命することになった。

 ノックスは、最初ジュネーヴに滞在し、それからフランクフルトに移った。ジュネーヴでジャン・カルヴァンに学び、改革派神学と長老制の体験と知識を得た。また彼は新しい礼拝式文も作成した。

 それはスコットランド宗教改革の教会において採用された。彼はジュネーヴを去ってフランクフルトのイギリス亡命者教会に向かうが、結局、礼拝観に関する相違のためにイングランド国教会と袂を別つ事になる。

 ノックスはスコットランドに帰還し、スコットランド宗教改革を導いた。彼は、スコットランドのプロテスタント貴族と協力関係にあった。この宗教改革運動は、革命とも言い得る。

出典:Wikipedia

 1562年の夏には、カトリック貴族では最有力のゴードン家がメアリーに反乱を起こした。これはマリ伯により鎮圧された。

 メアリーは再婚相手について検討を始めた。やがてメアリーは、1565年2月18日に出会ったステュアート家傍系の従弟ダーンリー卿ヘンリーとの結婚を考えるようになるが、これにもマリ伯やエリザベス1世が強硬に反対した。

 特にエリザベス1世は、メアリーと同じくヘンリー8世の姉マーガレット・テューダーの孫で、イングランドの有力な王位継承権を持つダーンリー卿との結婚によって、メアリーの王位継承権が強化されることを恐れた。


Royal Arms of the Kingdom of Scotland (1560-1565)
Source: English Wikipedia

 そこでダーンリーにすぐさまイングランドに戻るよう命令し、従わないと反逆罪と見なすとして、ダーンリー卿の母マーガレット・ダグラス(マーガレット・テューダーの娘でジェームズ5世の異父妹、エリザベスの従姉)をロンドン塔に幽閉したが、ダーンリー卿は従わなかった。

 1565年7月29日、メアリーはダーンリー卿と再婚した。メアリーはヘンリーに対し、王族にしか与えられなかったロス伯、オールバニ公の位を与え、また王位継承もあらためて与えるなどして、多くの貴族の反感を買った。

 しかし、両親から甘やかされてきたヘンリーの傲慢な性格がわかるにつれて、メアリーの愛情も冷めていった。やがてピエモンテ人の音楽家で、有能で細やかな気づかいをする秘書のダヴィッド・リッチオを寵愛し、重用するようになった。


South Leith Church Tollbooth arms 1565
Source: English Wikipedia

 1565年8月1日、マリ伯がエリザベス1世からの援助を取り付け、1200人の兵力を集めてメアリーに反乱を起こした。メアリーはこの反乱を鎮圧するため、ゴードン家にも恩赦を与えて地位を回復させた。マリ伯の期待していたイングランドからの援軍は現われず、スコットランド南部でボスウェル伯率いるスコットランド軍に敗北し、彼はイングランドに亡命した。

 1566年3月9日、ホリールード宮殿で食事をとっているとき、武器を手にしたルースベン・モートンなどの数人の貴族達がリッチオを拉致し、ダーンリー卿の部屋に近い謁見室、しかもメアリーの目前で殺害するという事件が起きた。

 メアリーは流産の危機を迎えたが、6月19日無事に息子ジェームズ(後のイングランド王兼スコットランド王ジェームズ1世(6世))を出産した。

 リッチオの子だと噂する者がいたため、メアリーは床についたまま、ダーンリーの子であることを誓い、ダーンリーにも認めるよう迫った。

 子どもは生まれたが、しかしダーンリー卿との仲は冷え切ったままだった。当時のスペイン大使によれば、メアリーにダーンリー卿暗殺を提案した者さえもいたが、メアリーは受け入れなかったという。

 その後、メアリーはボスウェル伯に心を寄せるようになった。1567年2月10日、エディンバラのカーク・オ・フィールド教会(現在のエディンバラ大学構内)でダーンリー卿が殺害されているのが発見された。ボスウェル伯はメアリーに結婚を申し込み、その数日後ダンバー城にメアリーを連行し、結婚に踏み切らせ、5月15日に2人は結婚式を挙げた。


エジンバラ大学
Source:Google Map


ボスウェル伯
Source: English Wikipedia

 当時、ダーンリー卿殺害の首謀者はボスウェル伯、共謀者はメアリーであると見られており(実際の証拠はなかったが)、カトリック・プロテスタント双方がこの結婚に反対した。間もなく、反ボスウェル派の貴族たちが軍を起こした。

 6月15日にメアリーはエディンバラの東のカーバリー・ヒルで反乱軍に投降した。メアリーはロッホリーヴン城に移され、7月26日に廃位された。

 1568年5月、ロッホリーヴン城を脱走したメアリーは6千人の兵を集めて軍を起こすが、マリ伯の軍に敗れ、イングランドのエリザベス1世の元に逃れた。

 メアリーはイングランド各地を転々としたが、軟禁状態とは思えないほど自由に近い、引退した老婦人のような静かな生活を送ることを許された。しかし、たびたびイングランド王位継承権者であることを主張し、またエリザベス廃位の陰謀に関係した。

 1570年にはリドルフィ事件(ロベルト・ディ・リドルフィがたくらんだ事件)、1586年のバビントン事件(カトリックのアンソニー・バビントンがエリザベスの暗殺を狙った事件)などである。


Mary Queen of Scots by Nicholas Hilliard 1578
Source: English Wikipedia

 バビントン事件の裁判ではメアリーが関与した証拠が提示され、有罪・死刑を言い渡された。エリザベス1世は死刑執行書への署名を渋る様子を見せたが、結局1587年2月8日、フォザリンゲイ城のホールでメアリーは処刑された。この事態を受けて、スペイン王フェリペ2世は無敵艦隊をイングランドへ派遣し、アルマダの海戦(1588年)に繋がった。

出典:Wikipedia

つづく