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春の福島歴史・文化短訪

D会津若松市の飯盛山-3

白虎隊関連碑
青山貞一 池田こみち
掲載月日:2012年5月4日
 独立系メディア E−wave Tokyo


 ちなみに、私たちが調査などでよく行く福島県二本松市には、二本松少年隊があった。

 二本松少年隊(にほんまつしょうねんたい)とは、幕末の二本松藩において戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の少年兵部隊のこと。ただし、会津藩の白虎隊と違い当時は隊名がなく、二本松少年隊と名づけられたのは戊辰戦没者五十回忌に刊行された「二本松戊辰少年隊記」からである。

 白虎隊にせよ、少年隊にしても、少年武士の自刃は、非常に痛ましいものであり、単に幕末における日本武士の忠義などとして称えるべきものなのかと思うが、当時、この白虎隊の行動に対してイタリア、ドイツなど海外から碑の寄贈が相次いだ。

 下は、イタリアのローマ市から寄贈された碑である。


イタリアのローマ市から寄贈された碑
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.2


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.2

◆ローマ市寄贈の碑

 白虎隊の精神に深い感銘を受けたローマ市は昭和3年ローマ市民の名をもって、この碑が贈られた。

 この碑の円柱は赤花崗で、ベスビアス火山の噴火で埋没したポンペイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱である。

 基石表面にイタリー語で「文明の母たるローマは、白虎隊勇士の遺烈に、不朽の敬意を捧げんが為め、古代ローマの権威を表すファシスタ党章の鉞を飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」裏面に「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれてあったが第2次世界大戦後占領軍の命により削り取られた。

 下はドイツのフォン・エッツ・ドルフ氏寄贈の碑である。


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.2

フォン・エッツ・ドルフ氏寄贈の碑

 昭和10年6月ドイツ国(現ドイツ連邦共和国)大使館政治担当外交官 Hasso Von Etzdorf氏が白虎隊精神を賛美して贈られた碑文と十字章である。 

 碑文訳「会津の若き少年武士に贈る」

 第2次世界大戦後アメリカ進駐軍の手によって碑面を削り撤去されたものを昭和28年再刻のうえ復元されたものである。

 たまたま会津藩殉難烈婦の碑を見ていると、近くにいたボランティアの女性説明者が私たちの会話に割り込んできて、戊辰戦争時、政府軍の中核にいた薩長土肥軍を激しく非難しはじめた。

 とりわけ土佐の坂本龍馬を厳しく罵倒したので、吉田松陰はどうかというと、龍馬ほどではないが、とやはり激しく罵倒する。さらに薩摩、西郷はと水を向けると、薩摩藩は「頭が悪くて...」ともう止まらなくなった。

 私(青山)が吉田松陰門下でありながら新政府と意見が合わず下野し、1876年(明治9)萩の乱を起し斬罪された前原一誠について聞こうとしたが、もうどうしようもなかった。

 戊辰戦争において会津藩、白虎隊の最大の宿敵は、言うまでもなく薩長土肥軍である。それを末代まで石に刻んでいる彼女の言動に、会津の精神文化をかいま見た次第である。

 
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.2

 私自身(青山)、日本の米国追随、米国盲従の原点は、福沢諭吉、伊藤博文、吉田松陰、坂本龍馬と思っているのだが、戊辰戦争(慶応4年/明治元年 - 明治2年、1868年 - 1869年)終結から140年以上たった今でも、骨の髄まで鬼畜薩長土肥連合としているのは、なかなかのもので感心、感動した次第である。


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.2

◆会津藩殉難烈婦の碑

この碑は、会津戊辰戦役で自刃又は戦死した婦女子二百余名の霊を弔うため昭和3年4月旧藩士山川健次郎氏(男爵、理学博士、帝大総長)等の篤志家によって建てられた顕彰碑である。

 下は、会津藩最後の藩主、松平容保弔歌の碑である。


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.2

◆松平容保公 弔歌の碑

戊辰戦役当時自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し、九代藩主松平容保公が次の弔歌を詠まれたのを現河東町八田野の篤志家八田宗吉氏がこの碑に刻み建てたものである。

  「幾人の涙は石にそそぐともその名は世々に朽しとぞ思う」
      源 容保


◆会津藩

 陸奥国(後の岩代国)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県の一部を治めた藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は陸奥国北会津郡、耶麻郡、河沼郡、大沼郡及び越後国東蒲原郡。

◆戦国時代

 天正18年(1590年)7月に小田原征伐で北条家を滅ぼした豊臣秀吉は、8月9日に会津黒川に入って奥州仕置を行なう。政宗は小田原征伐に参陣していたものの、前年の合戦が秀吉の出した惣無事令違反と見なされて会津地方及び周辺地域は政宗から没収された。

 秀吉は仕置において検地や刀狩、寺社政策など諸事を定めて帰洛し、会津には蒲生氏郷が42万石で入封することとなった。後に検地と加増で氏郷は92万石を領有することになる。


会津の基礎を作った蒲生氏郷

 氏郷は織田信長にその非凡な才能を評価されて信長の次女冬姫を正室に迎える事を許され、信長没後は秀吉に従い伊勢松坂に12万石の所領を得ていた人物である。

 秀吉も氏郷の才能を認め、東北の伊達政宗や関東の徳川家康を抑える枢要の地に大領を与えて入封させたのである。

 氏郷は黒川を若松と改め、故郷の近江日野から商人や職人を呼び寄せ、城下町の建設、武家屋敷を分離させた町割、黒川城を新たに7層の天守閣を持つ城を築いて現在の会津若松の基盤を築いた。

 ....上杉家の時代


上杉景勝


上杉家家老の直江兼続

 ....蒲生家の時代

 ....加藤家の時代


加藤嘉明



 ....会津松平家の時代

◆幕末

 第8代容敬は養子藩主であったが、英明な藩主で自ら親政して改革を行ない、幕末における会津藩の基礎を築き上げている。

 容敬は嘉永5年(1852年)2月に死去し、容保が第9代藩主を継いで幕末の動乱期を迎えた。

 安政6年(1859年)、北方警備のため幕府から根室・紋別を譲渡される。文久2年(1862年)閏8月に容保は京都守護職となり、更に新撰組を麾下に置いて(新撰組は、その後会津戦争まで会津藩の隷下にあった)会津藩士ともども尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担った。


松平容保

 そして禁門の変では、孝明天皇を奪取しようとした長州藩勢から御所を守り抜いた。後に容保は、会津藩を頼りとしている旨が記された「御宸翰(ごしんかん)」を孝明天皇より賜った。

 慶応2年12月(1867年1月)に孝明天皇が崩御すると、既に薩長同盟を締結していた薩摩藩、長州藩との対立が激化した。

 大政奉還、王政復古を経て慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。

 この戦いで、明治天皇を奉じる新政府軍により、会津藩には孝明天皇よりの御宸翰があったにもかかわらず朝敵とされたのである。会津藩は奥羽越列藩同盟の支援を受け、庄内藩と会庄同盟を結ぶなどして新政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦い(会津戦争)に敗北して降伏した。

 近年では、列藩同盟総裁中将の役職に松平容保が就いていたとする説もある。なお、戊辰戦争直前には、庄内藩とともに、当時のプロイセンとの提携を模索していことが分かった。

 降伏により、会津藩領は会津松平氏から没収された。藩主の容保は鳥取藩預かりの禁錮刑となった。明治2年(1869年)に容保の嫡男容大は家名存続が許され、陸奥国斗南(青森県むつ市)に斗南藩を立てた。

 一方、会津地方は廃藩置県を前に、明治政府民政局による直轄地となった。その後若松県となったものの、明治9年(1876年)には福島県に合併された。

歴代の会津松平(保科)家

代  氏名  よみ  官位・官職  在任期間  前藩主との続柄・備考

1 保科正之 まさゆき 正四位下 肥後守 寛永20年 - 寛文9年
 1643年 - 1669年

2 保科正経 まさつね 従四位下 筑前守 寛文9年 - 天和元年
 1669年 - 1681年 先代の四男

3 松平正容 まさかた 正四位下 肥後守 天和元年 - 享保16年
 1681年 - 1731年 先代の弟、初代正之の六男、松平に改姓

4 松平容貞 かたさだ 従四位下 肥後守 享保16年 - 寛延3年
 1731年 - 1750年 先代の三男

5 松平容頌 かたのぶ 正四位下 肥後守 寛延3年 - 文化2年(享保元年)
 1750年 - 1805年 先代の長男

6 松平容住 かたおき 従四位下 肥後守 文化2年 
 1805年 松平容詮の長男

7 松平容衆 かたひろ 従四位下 肥後守 文化3年 - 文政5年
 1806年 - 1822年 先代の次男

8 松平容敬 かたたか 正四位下 肥後守 文政5年 - 嘉永5年
 1822年 - 1852年 美濃高須藩主松平義和の三男

9 松平容保 かたもり 正三位 参議 嘉永5年 - 慶応4年
 1852年 - 1868年 先代の甥 美濃高須藩主松平義建の六男


松平容保

10 松平喜徳 のぶのり 従四位下 若狭守 慶応4年
  1868年 水戸藩主・徳川斉昭の十五男、徳川慶喜の実弟

出典:Wikipedia
 

つづく