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  シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

鎖陽城1

(中国甘粛省)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2007年1月~2020年2月  更新:2020年4月1日
独立系メディア E-wave Tokyo
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 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次は中国の甘粛省の鎖陽城1です。

鎖陽城1(甘粛省)です。

 鎖陽城(さようじょう) (锁阳城) は、中国北西部、甘粛省瓜州県にあるシルクロードの都市遺跡で、場所は甘粛省敦煌莫高窟の東150kmにあります。 鎖陽城は苦峪城(くよくじょう)とも呼ばれます。


鎖陽城遺跡の位置
出典:グーグルマップ


鎖陽城外城
Source: Wikimedia Commons
Zanhe - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる


概要

 鎖陽城は紀元前111年に漢の武帝によって冥安県の政庁が設置されましたが、295年に西晋の恵帝によって現在地に移されました。唐・西夏の時代には、晋昌郡(後の瓜州)郡都として栄えました。最盛期の人口は5万人と推定され、1000年以上にわたり河西回廊の重要な行政・経済・文化の中心地でしたが、16世紀の明代に、モグーリスタン・ハン国のマンスールによる攻撃を受け、破壊されました。

 鎖陽城遺跡は、内城、外城、そしていくつかの羊馬城で構成されています。城壁の外側には、考古公園(国家考古遺址公園)が広がり、 冥安県時代の遺跡、2,000以上の墓、全長90キロメートル以上の運河がある大規模な灌漑システムの遺跡が残っています。この考古公園には、他にも塔爾寺、東千仏洞石窟、碱泉子石窟、旱峡石窟などの仏教遺跡が含まれています

 鎖陽城は中国の全国重点文物保護単位 (No.4-50) に指定されていおり、、2014年には、 「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」 の一部としてユネスコの世界遺産に登録されています。

位置

 鎖陽城は中国北西部、甘粛省瓜州県の鎖陽城鎮南東にあるゴビ砂漠に位置しています。海抜1,358メートルの河西回廊にある古代オアシス都市でした。

 約1,700年の歴史の中で、シルクロード西域の敦煌と東の酒泉をつなぐ、政治、軍事、経済、文化の中心地でした。

遺跡

 遺跡は、内城、外城、およびその間にあるいくつかの「羊馬城」から構成されている。[2]

内城


内城城壁
Source: Wikimedia Commons
Zanhe - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

 内城は、 面積が285,000平方メートルの不規則な長方形をしています。四方の城壁の長さは、493.6メートル(東)、576メートル(西)、457.3メートル(南)、534メートル(北)です。版築の基礎は幅19メートルで、高さ9~12.5メートルです。

 2本の大通りがそれぞれ西門と北門から伸びており、そこから多くの小さな通りや路地が枝分かれしています。内城は、より広い西地区と狭い東地区に分かれています。西地区では多くの家屋跡や厚い木炭の層が発見されていますが、東地区ではほとんど残っていません。

 東地区には政庁や上級官吏の住居群があり、西地区には一般住民が住んでいた可能性が高いと言えます。城内北西の角には、高さ18メートルの日乾し煉瓦で出来た望楼が残っています。


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