エントランスへはここをクリック   中央アジア・シルクロード  【世界紀行】
  
シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

五丈原諸葛亮博物館

(宝鶏市、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
総合メニュー

五丈原  周公廟1  周公廟2  崋山  展示1

 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

◆五丈原 (中国宝鶏市)

宝鶏市 

 法門寺の比較的近くに五丈原があり、五丈原諸葛亮博物館があります。


出典:グーグルマップ


出典:グーグルマップ


出典:Xin cui グーグルマップストリートビュー

 この地を有名にしたのは、三国志です。


出典:五丈原|中国国家観光局 駐大阪代表処


出典:五丈原|中国国家観光局 駐大阪代表処


出典:五丈原|中国国家観光局 駐大阪代表処


出典:五丈原|中国国家観光局 駐大阪代表処

 五丈原の戦い(ごじょうげんのたたかい、中国語: 五丈原之戰)は、中国三国時代に、蜀(蜀漢)と魏が五丈原(現在の陝西省宝鶏市岐山県)で対陣した戦いです。五丈原には、五丈原の戦いに関連した

五丈原諸葛亮博物館

 五丈原(諸葛亮廟博物館)の開館時間は8~18時、入場料35元(65歳以上免除)です。五丈原は三国時代の蜀の丞相諸葛亮(字孔明)の第5次北伐で軍陣を構えて死去した地です。

 以下は五丈原の戦い(出典:Wikipedia)です。

経緯

 231年の第四次北伐において、蜀の諸葛亮は魏の司馬懿と対戦し勝利しました。しかし、大雨により李厳が食糧輸送に失敗して食糧が尽きたため、撤退せざるをえなくなりました。

 撤退時に魏の車騎将軍の張郃を射殺しています。これまで蜀は第一次北伐から連年数万規模の軍を出撃させていましたが、これ以後は遠征を休止させました。

 『晋書』宣帝紀によると、司馬懿は諸葛亮が常に兵糧不足に悩まされていることから、三年間は糧食の蓄積に専念しなければならないだろうと推測しています。

戦いの経緯

 234年春2月、蜀の諸葛亮は魏への遠征を再開し、褒斜道を通って長安をめざす構えを見せました。『晋書』宣帝紀では、この時動員された蜀軍は十余万とされています。

 司馬懿も諸葛亮を迎え撃つために、自ら指揮を執り出撃し、人口が集中している渭水の南に砦を築き、防備を固めた。『晋書』宣帝紀によると司馬懿は諸将に対し、「諸葛亮が勇者なら武功に出て東進するであろうが、五丈原に布陣するなら問題ない」と語っていました。

 一方、陳寿は『三国志』諸葛亮伝に諸葛亮は武功に拠り五丈原に布陣したと正反対の見解を記しています。果たして諸葛亮は渭水南岸の五丈原に布陣しました。

 また『三国志』張翼伝によると諸葛亮は武功に出て、張翼を先鋒の前軍都督とし、扶風太守に任命したとあります。諸葛亮は渭水の沿岸で兵士に屯田を行わせましたが、軍規は厳正で当地の民は安堵したといいます。魏の皇帝の曹叡は征蜀護軍秦朗に2万の兵を与えて、司馬懿の援軍として派遣しました。また、曹叡は「砦の防備を固め、守備に徹するべしと考えました。敵の食料がつきて撤退したとき、追撃するのが、遠来の敵を迎え撃って勝利を得る方法である」と司馬懿に勅令を下したのです。

 注)三国志
  『三国志』(さんごくし)は、中国・西晋代の陳寿の撰による、三国時代について
  書かれた歴史書です。後漢の混乱期から、西晋による三国統一までの時代を扱
  っています。二十四史の一つです。

 司馬懿が指揮を執る魏の大軍は、渭水を背にして五丈原を望む形で対陣し、柵を築いて砦の防備を固めました。諸葛亮は陽動作戦を用いて魏軍を攻撃しましたが、郭淮に作戦を見破られて防がれました。さらに諸葛亮はさまざまな手を使って司馬懿を挑発して魏軍の出陣を誘いました。

 魏の諸将の間には撃って出るべきという気運が高まっていましたが、皇帝の曹叡から出陣を禁じられていることを理由に司馬懿は挑発に乗りませんでした。それでも司馬懿が出撃許可を求める上奏を行うと、辛毗が曹叡の命令を携えて陣を訪問し、出撃してはならないと命じました。

 習鑿歯の『漢晋春秋』および『晋書』宣帝紀では、辛毗が現れたことを聞いた姜維は、司馬懿がもはや絶対に出撃してこないであろうと諸葛亮に語りましたが、これに対し諸葛亮は、司馬懿が出撃の姿勢を示して上奏したこと自体、諸将の不満を和らげるための策略に過ぎないと語っています。

 5月、呉の皇帝孫権が蜀に呼応し、自ら大軍の指揮を執り複数方面から魏への親征を開始しました。魏は国土の東西に大規模な戦線を抱え込むこととなっりましたが、合肥を守備していた張穎が堅守して耐え、満寵が奇襲攻撃で孫権を苦しめ、さらに曹叡自らが救援に赴くと聞くと、孫権は曹叡の寿春到着を待たずに全軍を撤退させました。

 蜀軍と魏軍の対陣は百日余りに及びましたが、234年8月、諸葛亮は病死し蜀軍は撤退しました。魏軍は撤退した蜀軍を追撃しようとしましたが、蜀軍は反撃の形勢を示し、司馬懿は慌てて軍を退ぞかせました。人々はこれを揶揄して諺を作り「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言いました。

 司馬懿は人伝にこのことを聞き、「私は生者を相手にする事は得意だが、死者を相手にするのは不得手だ」(『論語』の「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん」に基づいたと見られる)と答えたといいます。司馬懿は撤退後の諸葛亮の陣営を視察し、「天下の奇才」という感想を漏らしました。

戦後

 撤退直後の蜀軍では、魏延が諸葛亮の後継を巡って楊儀と争い敗死しました。しかし楊儀もまた蒋琬、費禕に実権を掌握され失脚しました。蜀の実権を掌握した蒋琬も諸葛亮の遺志を継ぎ、魏の討伐を計画していましたが、自身の病気と他の重臣たちの反対により計画は実行されませんでした。

 蜀の侵攻を退けた司馬懿は、238年には遼東の公孫淵を討伐し、野戦から籠城へと誘い込む巧みな軍略によってこれを滅ぼしました。東西の外患を除いた大功から、司馬懿は魏の朝廷内で揺るぎない地位を確立しました。更に皇帝の曹叡は239年に若くして崩御しました。養子の曹芳が皇帝となったが幼少であり、司馬懿の権威は帝室の曹氏をも凌駕していくことになります。


周公廟1つづく