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ヴェネツィア( Venezia、イタリア)

アントニオ・ヴィヴァルディ2


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年4月20日
独立系メディア E-wave Tokyo
 無断転載禁

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・ヴィヴァルディ1  ヴィヴァルディ2  ヴィヴァルディ3
ヴィヴァルディ4  ガブリエーリ  ガブリエーリ
 
 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

◆アントニオ・ヴィヴァルディ2

生涯

誕生から幼年期と青年期

 1678年3月4日、イタリア・ヴェネツィアのカステッロ区に生まれます。

 誕生日は長らく不明でしたが、20世紀になって、当時の洗礼記録が教区教会で発見されました。 瀕死の状態で生まれたため、助産婦が仮の洗礼を授け、2ヶ月後の5月6日に生家の目と鼻の先にあるサン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ教会で正式な洗礼を受けました。

 このことは、ヴィヴァルディが生まれながら病弱であったことを物語っています。

 父親のジョヴァンニ・バッティスタは、理髪師(当時の理髪師は簡単な外科医(床屋医者)でもあった)として家計を支えていましたが、同時にヴァイオリンの才能に恵まれ、ヴェネツィア旅行案内のパンフレットに名ヴァイオリニストとして紹介されるほどでした。

  同じブレーシャ出身のジョヴァンニ・レグレンツィらとも親交があり、1685年にはサン・マルコ大聖堂のヴァイオリニストに選ばれました。22歳のときに仕立屋の娘カミッラ・カリッキヨと結婚し、長男としてアントニオを授かります。夫妻はアントニオの他に夭逝した子も含めて男の子4人、女の子5人を授かりますが、彼らの中から音楽家は誕生しませんでした。

 幼少時から父親のもとでヴァイオリンに習熟すると共に、父親の幅広い音楽仲間から作曲法などを学びます。レグレンツィを含むこれら音楽仲間のうち、誰がヴィヴァルディの教師となったかについては未だ判然とせず、さまざまに推測されています。

 庶民階級のヴィヴァルディが、やがて世に出て、さまざまな階級の人と引け目なく交わるには、聖職者になるのがもっとも確実な方法でした。

 1688年、10歳で当時サン・マルコ大聖堂とサン・マルコ広場を挟んで向かい合って建っていたサン・ジェミニアーノ教会付属学校に入学しました。1693年、15歳で剃髪し、1699年、21歳で下級叙階を得て、1700年、22歳で助祭となり、翌1703年の3月25日に、25歳で司祭に叙階されます。彼は「赤色」に因むRossi(ロッスィ)の綽名で呼ばれた父親と同じく赤い髪であったために、「赤毛の司祭」Il Prete Rosso(イル・プレーテ・ロッソ)と呼ばれました。

 ところがヴィヴァルディには、生まれつき喘息と思われる持病があり、特に司祭としてミサの説教に立っている時に発作が起こると、ミサの続行が困難と成ることがたびたびありました。 こうしたことから、同年9月にはミサを挙げることを免除され、平服の在俗司祭となりました。

音楽院の教師としての活動(1703年から1713年)

 在俗司祭となった9月、1346年設立という由緒あるピエタ慈善院付属音楽院 でヴァイオリンの教師として教鞭を執り始めました。

  キリスト教会が行う慈善事業の一環として、捨て子の養育を目的に建てられた慈善院は、才能のある女子に対して音楽教育も盛んで、ヴェネツィア共和国にはピエタをはじめ、インクラービリ、メンディカンティ、オスペダレットの4つがあり、附属の音楽院が併設されていました。

 また1704年にはヴィオラ・アッリングレーゼも教えています。1703年以降から1740年にかけて、教師として、また作曲家として器楽曲から声楽にいたる幅広い分野の作品を提供し、そのリハーサルを行なう雇用関係を断続的に持ちました。

 ピエタ音楽院で作曲と合奏の指導を任されたヴィヴァルディは、全12曲からなる『トリオ・ソナタ集』を作曲し、1705年にこれらを「作品1」として出版します。トリオ・ソナタの先駆者として有名なアルカンジェロ・コレッリの影響が色濃く見られるこの作品群は、ヴェネツィアの貴族アンニーバレ=ガンバーラ伯に献呈されています。

 1709年の2月にピエタ音楽院との契約が更新されませんでしたが、その理由のひとつに、当時のピエタの経営状況が思わしくなかったことがあげられます。この年に12曲の『ヴァイオリンソナタ集』を「作品2」として出版します。

 1711年の9月にピエタ音楽院との契約を更新します。「作品3」として『調和の霊感』が出版されます。1713年にピエタ音楽院の合奏長であるフランチェスコ・ガスパリーニ(Francesco Gasparini,1668-1727)が職を辞します。

 後任が決まるまで、音楽院はヴィヴァルディに宗教曲の作曲も依頼します。同年にオペラの処女作『オルランド・フリオーソ(怒りのオルランド)』がヴェネツィアのサンタンジェロ劇場で初演されます。

 この時期、基本的に音楽院の音楽教師という立場にいながら、作曲家としてのヴィヴァルディの名はヨーロッパ中に広がり始めていました。これは、生命力のほとばしりを感じさせる瑞々しい曲想のみならず、合奏協奏曲から更に進んだ独奏協奏曲のスタイルを確立していったためと考えられます。同時代のドイツ人音楽家ヨハン・ゼバスティアン・バッハも少なくとも筆写譜の形でヴィヴァルディの楽譜を入手していました。各地で公演されたオペラも次第に彼の名を高めて行きました。

オペラ作曲家としての活動(1713年から1723年)

 ヴィヴァルディは1716年から1718年までは、「協奏曲長」としてピエタ音楽院に奉職しながら、サンタンジェロ劇場をホームベースにオペラの作曲に精力的に取り組み始めます。

 1718年から1720年までの2年間はヴェネツィアを去り、ハプスブルク家領となったマントヴァの支配者、ヘッセン=ダルムシュタット方伯に宮廷楽長として奉職します。 同地で3作ものオペラを上演します。

 1723年7月にピエタの理事会はヴィヴァルディに対してピエタ音楽院のために協奏曲を月に2曲提供すること、旅行中は楽譜を郵送すること、リハーサルを2回ないし3回ほど指導する契約を交わしました。音楽院にとってヴィヴァルディは大切な人材であり、必要不可欠な人物でもありました。

 この間における作品群は、1714年に作曲したオラトリオ『ファラオの神モイゼ』(RV.643,紛失)が同年に初演され、この頃までに『ストラヴァガンツァ』と題する12曲のヴァイオリン協奏曲集が「作品4」として出版されます。また1716年に現存する唯一のオラトリオ『勝利のユディータ』が初演されます。

 また1716年から1717年に、ザクセン公のヴァイオリニストとして活躍していたピゼンデルが師事しており、彼のためのヴァイオリン協奏曲やソナタをいくつか作曲します。

人気と円熟期(1723年から1740年)

 ヴィヴァルディは書簡の中で、ヨーロッパの各都市を旅行したことを述べており、この書簡で窺えるように、この時期はほとんど旅行に費やしています。

 1723年から1724年にかけてローマを訪れ、同地で3曲のオペラを上演しました。なおローマ教皇の御前で演奏したとも述べています。1725年に再びサンタンジェロ劇場の作曲家兼興行主となり、1739年まで断続的に務めます。

 1728年にトリエステで神聖ローマ皇帝のカール6世に謁見する機会ができ、手書きの協奏曲集『チェートラ』を献呈します。1730年と1731年に、ヴィヴァルディはオペラを上演するためプラハに向かいました。1732年から1737年まで、イタリアの各都市でオペラの上演と興行活動を行いました。

 この時期の作品群では、1725年に『四季』を含むヴァイオリン協奏曲集『和声と創意への試み』が「作品8」として出版されます。

 1727年に『チェートラ』と題する12曲からなるヴァイオリン協奏曲集が出版されます。1729年には、音楽史上初めてのソロのフラウト・トラヴェルソ(フルートの前身)のための協奏曲集が「作品10」として出版されます。

 また生前出版された楽譜としては最後となる「作品11」と「作品12」のヴァイオリン協奏曲集が出版されます。なお、作品13はシェドヴィルがヴィヴァルディの名前を騙って出版した曲集にパリの出版社が勝手に振った作品番号です。

 1740年のチェロ・ソナタ集「作品14」はヴィヴァルディの真作であるが、パリでおそらくヴィヴァルディの関知しない間に出版されたと思われ、作品番号も作品13にそのまま続けて作品14としています。

キャリアの晩年

 オペラ作曲家としてイタリア本土や外国の諸都市では人気が高まりつつありましたが、本国ヴェネツィアではナポリ派のオペラがヴェネツィア派のオペラを駆逐し、ヴィヴァルディのオペラ作品に対する評価に翳りが見え始めます。

 また、1737年から翌1738年にかけて、教皇領のフェッラーラでの興行に次々とトラブルが起きます。1738年には「協奏曲長」の職を辞すも、ピエタ音楽院の求めにより作品の供給は1740年のウィーン行の直前まで続きました。

 「ヴィオラ・ダモーレとリュートのための二重協奏曲」の完成後、1740年に予てから抱いていたウィーンでのオペラ興業を決心します。

 グラーツで自作の公演を行ったあとの足取りは現在までわかっていませんが、ウィーンを目指す中でさらに不運がのしかかりました。一番のよき理解者でありもっとも力のあるパトロンだったカール6世が逝去し、オーストリア国内は1年間喪に服すことになったのです。

 服喪期間中はすべての興業が禁止されたため、予定していたオペラ『メッセニアの神託』が上演できなくなりました。当時は出演者から大道具に至るまで興行主が後で清算する形でオペラの準備が行われていたので、おそらく大変な借財を抱え込むことになったと思われます。さらに、カール6世の娘マリア・テレジアが帝位を継いだためにオーストリア継承戦争が勃発し、国内の雰囲気も戦争一色となり、老大家に一瞥を与えるゆとりも関心も貴族たちにはなかったのです。

 失意のうちに体調を崩したと思われるヴィヴァルディは、ヴェネツィアに帰国することもかなわず、1741年7月28日にケルントナートーア劇場が用意していた作曲家用の宿舎にて、63歳で死去しました。

 死因は内臓疾患であるといわれていますが詳細は不明です。夏季であったこともあり、旅行者のための簡素な葬礼の後、遺体は翌日、病院付属の貧民墓地に埋葬されました。

 この墓地は後年取り壊され、現在はウィーン工科大学の構内になっています。オペラのほうは、ウィーンの新聞の広告欄に「故ヴィヴァルディ氏作曲」と張り出されて、翌1742年に当初の予定通りにケルントナートーア劇場で上演されました。


アントニオ・ヴィヴァルディ3つづく