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Memorandom

   5.ティムール朝の学術拠点、サマルカンド

Samarkand, Uzbekistan

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

掲載月日:2015年1月19日
独立系メディア E−wave Tokyo


 
サマルカンド市の市章  ウズベキスタンの国章

 先に中央アジアの文化拠点としてのウズベキスタン・サマルカンドについて触れましたが、ここでは、中央アジアの学術研究の拠点としてのウズベキスタン・サマルカンドについて触れたいと思います。

  ティムール朝は元来が遊牧政権でありながら都市の優れた文化を理解していたので、首都サマルカンドを始め王族たちが駐留した各都市では盛んな通商活動に支えられて学問、芸術などが花開いたのです。


◆ウルグ・ベク天文台

 とくに、自身が数学、医学、天文学などに通じた学者でもあったティムールの孫ウルグ・ベクがサマルカンド知事時代に行った文化事業は名高く、彼がサマルカンド郊外に建設したウルグ・ベク天文台では当時世界最高水準の天文表が作成されていました。


ウルグ・ベク天文台    出典:Wikipedia


ウルグ・ベク天文台    出典:Wikipedia

ウルグ・ベク天文台 (英語: Ulugh Beg Observatory)

 ウズベキスタンのサマルカンドにある天文台である。ウルグ・ベク天文台はティムール朝の君主であり、天文学者でもあったウルグ・ベクにより1420年代に建設され、中世イスラム世界において有数の天文台とされています。

 ウルグ・ベク天文台にはジャムシード・カーシーやアリー・クシュズィー(英語版)、そしてウルグ・ベク本人といった、中世イスラム世界の有名な天文学者が多数勤務していました。ウルグ・ベク天文台はウルグ・ベクの死後1449年に大部分が破壊され、約450年後の1908年に地下部分が発見されることとなりました。

 出典:Wikipedia


中央アジアにおいて天文学研究の中心地であったウルグ・ベク・マドラサ
出典:Wikipedia


ウルグ・ベク天文台の位置  20.にあります。

 また、都市には優れた宗教・教育施設が建設され、サマルカンドのグーリ・アミール廟、ビビハヌム・モスク(以上すでに解説)や現在のカザフスタン南部テュルキスタンのホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟なども名高いものとなっています。

 以下はホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟の写真です。


現在のカザフスタン南部テュルキスタンのホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟
 出典:Wikipedia

 他方、サマルカンドを中心にウズベキスタンには、古くからマドラサ(イスラム学院)が交流しました。

 以下はサマルカンドにあるウルグ・ベク・マドラサ(イスラム学院)の写真です。


サマルカンドにあるウルグ・ベク・マドラサ(イスラム学院)   出典:Wikipedia

ウルグ・ベク・マドラサ

 ティムール朝第4代君主ウルグ・ベク(1394年 - 1449年)によって現在のウズベキスタンのサマルカンドに建てられたのがマドラサ(神学校)です。

 1417年、ウルグ・ベクは古都サマルカンドの中心、現在のレギスタン広場にマドラサの建設を開始しました。それがウルグ・ベク・マドラサです。

 このマドラサは1420年に完成しました。レギスタン広場は、14世紀後半には商業地でしたが、15世紀前半にウルグ・ベクがマドラサやモスクを建てたことにより、様相がかわったといわれています。

 現在、レギスタン広場には3つのマドラサが建っています。

 ウルグ・ベクはまた、1420年にはサマルカンド郊外の小丘にウルグ・ベク天文台を建設しています。ウルグ・ベク・マドラサで学んだ人物としてはジャーミーがいます。ティムール朝を代表する15世紀の著名な詩人であり、ペルシャ語で著作活動をおこなっています。


レギスタン広場 (トリップアドバイザー提供)

◆ウルグ・ベク 
 ティムール朝第4代君主ウルグ・ベク(1394年 - 1449年)

  ソビエト連邦時代に発行されたティムール朝第4代君主ウルグ・ベク(1394年 - 1449年)の切手
右下に天文台の側面図が描かれています。
  


 サマルカンド総督となったウルグ・ベクは37年にわたってマーワラーアンナフル地方を統治し、平和な時代が続きました。

 ウルグ・ベクは原則的にはヘラートのシャー・ルフからの指示に従っていましたが、シャー・ルフの指示に現れていない独自の政策も実施されていました。

 ....ウルグ・ベクの治世には新しい貨幣が鋳造され、商業の発達が促進されました。ウルグ・ベク時代のサマルカンドにはティムール時代と同様の自由で享楽的な空気が流れ、美と人生の楽しみを好む性格と学術上の事績からルネサンス的な君主にも例えられています。

 ウルグ・ベクの統治下ではマドラサ(神学校)などの公共施設が多く建築され、それらの施設には土地がワクフ(寄進財産)として寄進され、ワクフからあがる収益によって施設の維持と管理が行われていました。

 ウルグ・ベクの建造物の中には後世に崩壊したものもありますが、サマルカンド、ブハラには彼の建てたマドラサが残っています(ウルグ・ベク・マドラサ、ウルグ・ベク・マドラサ (ブハラ))。

 また、ティムールの治世に建設が開始されたグーリ・アミール廟は、ウルグ・ベクの時代に完成しています。

 ウルグ・ベクはサマルカンド総督時代から中国の明に対してたびたび使節を派遣しています。

 1439年にウルグ・ベクが贈った良馬は明の英宗に気に入られ、英宗は馬の姿を描かせて縁起のいい名前を付けています。

 1449年にウルグ・ベクの派遣した使節が明の宮廷を訪れましたが、この年にウルグ・ベクは殺害されたために彼が派遣した最後の使者となり、英宗は土木の変でオイラトの捕虜とされました。ウルグ・ベクがサマルカンドに建てた絵画館は、中国の影響を色濃く受けた壁画で装飾されていたといわれています。

.......

 なお、ウルグ・ベク天文台で行われたこれらの発見や研究は当時の天文学者にとって日食を予測し、日の出や天体の推移の時刻を計算する上で極めて重要なものであり、彼らは恒星年 (一年の長さに相当) を365日6時間10分8秒と計算しています。

 これは約600年後の現代の計算によって得られる数値である365日6時間10分9.6秒と約2秒しか違わないという精確さであったそうです。1449年に天文台は破壊されましたが、その後も約75年間に渡ってサマルカンドで天文学の研究が続けられました。

出典:Wikipedia

 レギスタン広場の位置は下の地図の4.です。
 


サマルカンドのグーリ・アミール廟の位置、8.にあります。

 このように都市文化や学術・芸術に親しみ都市の建築に力を注いだティムール朝の君主たちも、一方では遊牧民の末裔であり、都市の中の窮屈な宮殿よりも都市の周辺に設けた広大な庭園の中でくつろぐことを好んだようです。

 こうして大小さまざまな庭園が建設されたが、サマルカンドのそれはこの町で生まれ育ったバーブルの自伝『バーブル・ナーマ』において詳細に描かれ、その見事なさまが今日に伝えられています。

つづく