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Memorandom

   4.ティムール朝の文化拠点、ヘラート

Samarkand, Uzbekistan

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

掲載月日:2015年1月19日
独立系メディア E−wave Tokyo


 
サマルカンド市の市章  ウズベキスタンの国章

 ここでは、ティムール朝の文化を極限まで高めた15世紀後半のヘラート政権のフサイン・バイカラ宮廷にも触れておきましょう。

 ヘラートは、アフガニスタン北西部からイラン北東部、トルクメニスタン南部にまたがったホラーサーン地方の東部に位置し、中央アジアとインド亜大陸、西アジアを結ぶ重要な交易路上にあって古来より栄え「ホラーサーンの真珠」とその繁栄を謳われています。

 ペルシア語系タジク人が住民の多数を占めることからもうかがえるように、ヘラートを含むアフガニスタン北西部のハリー・ルード水系地域は、歴史的にはアフガン(パシュトゥーン)よりもイランの文化圏に属していました。

 その歴史の古さは、古代ペルシア帝国の碑文に名が記されているほどで、現在も多くの歴史的建造物に恵まれています。

 もっとも、多くの遺跡が近年の激しい内戦によって損傷を受けています。

 ヘラートからイラン、トルクメニスタン、マザーリシャリーフ、カンダハールに通じる複数の幹線道路は、現在もなお戦略的に重要といえます。


現在のヘラート市街    出典:Wikipedia


現在のヘラートの地理的位置


◆ヘラート

 ティムール朝の時代に栄えた中央アジアの宮廷文化が頂点に達したのが、15世紀後半のヘラート政権のフサイン・バイカラの宮廷です。


へラート政権を確立したスルターン・フサイン・バイカラ  
出典:Wikipedia

 ヘラートの宮廷では、モンゴル時代のイランで中国絵画の影響を受けて発達した細密画(ミニアチュール)の技術が移植され、芸術的にさらに高い水準に達していました。

 フサインや、その乳兄弟で寵臣として宰相を長く務めた有力アミールのアリーシール・ナヴァーイーはいずれも優れた文化人で、彼らの文芸保護によって文学が繁栄しました。

 当時の中央アジアでは文化語はペルシア語でしたが、ナヴァーイーらは当時テュルク語にペルシア語の語彙と修辞法を加えて洗練された「チャガタイ語」を用いた文芸、詩作をも好んで行い、ティムール朝のもとでチャガタイ語をアラビア語やペルシア語と比肩しうるレベルまで文学的な地位を向上させていました。

 チャガタイ語散文文学のひとつの頂点を示すのが、先にも触れたティムール朝の王子バーブルの著書『バーブル・ナーマ』です。


シャー・ルフの子バイスングルのために献呈された
『バイスングル・シャー・ナーメ』の一場面   出典:Wikipedia

 ティムール朝では王朝側による修史事業もまた盛んに行われました。

 シャーミーとヤズディーによってティムールの伝記である二種類の『勝利の書』が著されたのを初めとして、シャー・ルフの時代にはティムール朝はチャガタイ・ウルスの後継国家としての意識が一段と顕著になっていました。

 シャー・ルフは歴史家ハーフェズ・アブルー(英語版)らに『集史』をはじめとするイルハン朝時代からの歴史情報の諸資料の総括を命じ、あわせて『集史』自体もモンゴル帝国におけるバルラス部族とチンギス・ハン家の関係を強調したかたちに再編集させたバージョンを作成させています。

 この過程でモンゴル的な祖先伝承と預言者ムハンマドとの血縁的・宗教的関係を連動させ強調する主張も盛り込まれました。

 この種の主張はイルハン朝時代に萌芽があったがティムール朝ではより鮮明にされるようになりました。この影響は後のオスマン朝やサファヴィー朝、シャイバーニー朝などでも受継がれていくこととなります。


ヘラートの金曜モスク   出典:Wikipedia

 またこれらシャー・ルフ治世下のヘラートでの修史事業の伝統は、フサイン・バイカラの治世にナヴァーイーの保護下で世界的な通史である『清浄園』を著したミールホーンド(英語版)や、その外孫でバーブルに仕えた『伝記の伴侶』の著者ホーンダミールなどを輩出しています。

 これらの高い文化の影響は、ティムール朝の中央アジア領をそのまま引き継いだシャイバーン朝のみならず、西のサファヴィー朝、南のムガル帝国にまで及びました。

 こうしてティムール朝の滅亡後も、東方イスラム世界と呼ばれる一帯の文化圏で優れたイスラム文化が続いてゆきます。

 また、ティムール朝時代の進んだ文学や科学が言語を同じくするアナトリアのトルコ人たちの間にもたらされたことが、当時勃興の途上にあったオスマン帝国の文化に与えた影響は大きいと言えます。

 こうしたティムール帝国で形成され花開いたイスラーム文化を、特にトルコ・イスラーム文化といいます。

 一方、ヘラート政権では40年近くに及んだフサイン・バイカラの治世のもとで安定を実現し、サマルカンド政権や白羊朝との友好関係のもと、首都ヘラートではティムール朝の宮廷文化が絶頂を迎えました。

 しかし、平和の影でヘラート政権は次第に文弱化しており、1506年にフサインが死んだ後にはまったくその力は失われてゆきます。

 翌1507年、ヘラート政権は、サマルカンドから南下してきたシャイバーニー・ハンの前にあっけなく降伏し、こうして中央アジアにおけるティムール朝の政権は消滅したのです。

 1511年、バーブルはイランの新興王朝サファヴィー朝の支援を受けて再びサマルカンドを奪還しますが、サファヴィー朝の援助を受けるためにシーア派に改宗していたために住民の支持を失い、1512年に再びサマルカンドを失いました。

 バーブルはこれ以降、中央アジアの支配奪還を断念し、南下に転じます。アフガニスタンのカーブルを本拠地としていたバーブルが、デリーのローディー朝を破り、インドにおけるティムール朝としてムガル帝国を打ち立てるのは、その晩年の1526年のことです。

つづく