エントランスへはここをクリック   


上山市の蟹仙洞博物館
山形の製糸業

青山貞一
環境総合研究所顧問、東京都市大学名誉教授
掲載月日:2013年4月20日
独立系メディア E−wave Tokyo
無断転載禁


 私が4月13日、14日にでかけた山形県の上山市は、実は養蚕、織物でも日本有数の地域であった。

 4月14日、里山やめがね橋を視察した後、武田・結城夫妻に案内され、山形県上山市矢来4丁目にある蟹仙洞博物館(かいせんどう)を訪問した。



 蟹仙洞博物館は、山形県の上山で製糸業を営んできた長谷川兼三氏の個人的なコレクションを展示している公益財団法人の博物館である。

 蟹仙洞博物館の創立者、長谷川謙三氏は明治19年生まれ、早稲田大学を中退し実家の命で長谷川合名会社の上山長谷川製糸所を継ぐとともに「蟹仙洞」を創立したという。

 長谷川謙三氏は美術品の収集とともに写真撮影にも興味をもち、自分で写真を撮りDPEをしたとのこと。その長谷川謙三氏は、昭和32年5月に亡くなっている。享年72歳。

◆関連リンク・中国の漆工芸と日本刀の博物館 蟹仙洞


通りから見た蟹仙洞博物館(かいせんどう)
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8


蔵を利用し文物を展示している
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8

 この博物館では、主に中国の明及び清時代の堆朱などの漆工芸品や刀剣類、武具類や美術品などが数多く収蔵されている。


蟹仙洞博物館内の中国の明及び清時代の展示
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8

 中国の明時代初期の代表的作品といわれる填漆の箪笥は国指定文化財である。

 国指定の重要文化財や重要美術品の刀剣など約4,000点が展示されていることから見ても、展示物は全国屈指のものと言える。

 当日は、公益財団法人の代表理事を務められている長谷川浩一氏がひとつひとつ文物について懇切な説明をしてくださった。


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8


ひな人形について説明する代表理事の長谷川浩一氏(左)
右は結城玲子氏  蟹仙洞博物館にて
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8

 実は、代表理事の長谷川さんの先代は、山形県で民営の製糸工場を大規模に営んできた会社を設立、運営してきた方である。生糸の織物工場は、群馬県の富岡製糸工場が有名だが、長谷川さんの先代は、山形県内で民営で大規模な工場を営んできたという。その後、工場を山形県内の高畠とここ上山に分社したそうだ。

 下の写真は、その民営の製糸工場で従業員が体操をしているところの写真である。


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8

 下の図面は、長谷川製糸工場家屋の平面図である。往事はいかに大規模な工場であったかが分かる。


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8

 帰京後、グーグルを検索したら讀賣新聞と山形新聞の記事が出てきた。

大正の製糸工場復元へ…山形
 2012年12月23日 讀賣新聞 

  大正から昭和にかけて山形県内の養蚕業を支えた「旧長谷川製糸上山工場」(上山市矢来)が、外観を復元して当時の生産工程の写真を展示する資料館に生まれ変わろうとしている。

 計画を進める美術館「蟹仙洞かいせんどう」(同)の長谷川浩一館長(74)は「大正期の製糸工場の建物がそのまま残っているのは全国でも珍しい。将来的には観光や地域振興に活用していきたい」と意気込んでいる。

 上山工場は1925年に完成。35年頃には約280人の従業員が働く県内有数の製糸工場だった。蟹仙洞の建物は、当時の経営者の自宅として工場の隣に建てられ、51年からは経営者が収集していた日本刀や漆工芸品などを展示する美術館として営業している。

 昭和初期は市内に養蚕工場が5軒あり、「当時は山形より上山のほうが景気が良かったと聞いていた」(長谷川館長)が、昭和中期以降は化学繊維に押されて衰退。工場は71年に閉鎖し、食品加工会社「丸松物産」(東京都)が購入。今年9月まで同社の工場として利用されていた。

 長谷川館長は同社の工場移転を知り、「山形の近代化を支え、今も残っている貴重な遺産。美術品と同じ文化財の一つとして残さなければ」と購入を決意。富岡製糸場(群馬県)が世界遺産に推薦されるなど、日本の近代化を支えた産業遺産が注目されていることから、建設当時の姿を復元しようと、11月13日に引き渡しを終えた。

 約1万平方メートルの敷地に工場5棟や繭の保管や検査のための蔵などの建物計8棟、約4300平方メートルが残る。窓がアルミ枠になったり板張りの床がコンクリート敷きになったりするなどの改装はあったが、保存状態は良く柱や倉庫内部はほぼ大正時代のままという。

 年明けから、屋根を青から当時の黒に塗り替えるなど、外観の復元作業を始める。内部は、創業者が趣味で撮影したという100枚以上の写真を飾り、当時の生糸の生産工程が分かるような展示にする。来年中に復元された外観は見られるようになるが、資料館として内部を公開するのは数年先になるという。

 
上山市の旧製糸工場、博物館として一般開放へ
2012年11月22日山形新聞

歴史博物館としてリニューアルする旧長谷川製糸上山工場=上山市矢来4丁目
(クリックで拡大表示します)
 大正時代に建てられた上山市矢来4丁目の旧長谷川製糸上山工場が、歴史博物館としてリニューアルする。本県の近代化を支えた木造の産業遺産で、隣接する美術館「蟹仙洞」(長谷川浩一館長)が整備。来年中に改修工事を済ませ、一般公開する方針だ。

 上山工場は高畠町の長谷川製糸工場の分工場として1925(大正14)年に完成、翌26年5月に開業した。昭和初期のピーク時は約280人が勤務。製糸産業の衰退により1971(昭和46)年の閉鎖後は、食品製造の丸松物産(東京)が山形工場として活用していた。蟹仙洞は当時製糸工場を経営していた故長谷川謙三氏の住宅で、現在は同氏が収集した漆工芸品や日本刀の美術品を紹介する公開施設となっている。

 2011年に蟹仙洞が文化審議会の登録有形文化財の答申を受けた際、旧製糸工場の価値があらためて高まったことから、蟹仙洞は以前から検討していた保存活用について丸松物産と交渉。ことし11月13日に引き渡しを終えた。約1万平方メートルの敷地に倉庫2棟、工場5棟があり、延べ床面積は計約4300平方メートル。ことし9月まで食品加工工場として使用されてきたが、基本構造体は当時のままと保存状態は良好で、「製糸工場としてそのままの姿を残しているのは全国的にも珍しい」(長谷川館長)という。

 防雪などの安全対策工事が完了次第公開する計画で、当面は外観のみ見学可能とする。長谷川館長は「(旧製糸工場は)近代的産業遺産の木造建築物。どうしても残さなければならない」と語り、「将来的には内部も開放し、音楽ホールや市民の作品展示場など、コミュニティーセンターとしての機能も持たせた“芸術村”にしたい」と構想を練っている。

 私達は、ここ数年間、秩父事件や福島事件など、明治から大正にかけ栄えた養蚕が、その後、輸出先のフランス、アメリカなどで価格が暴落し、多くの養蚕農家が経営難に陥り、政府に反乱、一揆を起こした事件について、現地視察をしてきた。

 その観点からすると、今まで養蚕、製糸、織物は、主に埼玉県の秩父〜皆野〜桐生、栃木県の足利、長野県の上田〜小海、福島県の西会津、南会津、喜多方などが本拠地と思ってきたが、山形県の南部や南東地域でも盛んに行われていたことを知った。

 なお、「杉本 星子著、日本の近代製糸業とキリスト教精神・国立民族学博物館調査報告 62:71?91(2006)」によると、 「日本の絹織業は,16世紀半ばから17世紀初頭にかけて明の技術を導入し,西陣を中心に飛躍的に発展した。江戸時代,西陣の高級織物の原糸は,オランダ船や中国船によってもたらされる舶来糸に依存していた。やがて,幕府の銅貿易の衰退と1685年から実施された外国貿易制限令(貞享令),中国における生糸価格の上昇と輸出制限・禁止などによって,舶来生糸の輸入は減少した。 1713年,幕府は諸国に養蚕勧奨の触書をまわした。しかし,1717年頃まで,西陣に持ち込まれていた和糸(日本製生糸)は,美濃・近江・上州から少量あるのみであった。1720年(享保5)に丹後で縮緬生産が始まり,続いて1738年(元文3)に上州で紗綾生産が起きた。米沢藩をはじめ諸藩が,藩政改革の一環として養蚕業の振興政策をすすめた。こうして次第に地方の絹機業が盛んとなり,製糸業が各地に発達していった。」とあり、米沢藩を中心に山形もその源流のひとつとなっていたことが分かる。

青山貞一:温故知新・秩父事件〜事件の概要と背景・原因
青山貞一:温故知新・秩父事件〜自由民権運動と農民蜂起
◆青山貞一・池田こみち:真夏の上信州、歴史探訪〜官製富岡製糸場

 長谷川館長によると、山形の場合には、秩父、福島のような農民一揆、反乱は無かったとのことである。