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温故知新:秩父事件
南相木村と北相木村

青山貞一・池田こみち
掲載日: 2012年12月25日
独立系メディア「今日のコラム」
無断転載禁

温故知新・秩父事件 2012.12.20-22
@長野から参戦した人々 C長野から参戦ルート
A佐久における困民軍と政府軍の衝突 D第3のルートで群馬から長野へ
B小海町「東馬流」の古戦場 E南相木村と北相木村

 かくしてやっとのことで、埼玉県皆野町を出発し、秩父市、小鹿野町そして群馬県神流町、上野村、南牧村を経由し長野県の佐久に入った。

 下の標識は、長野県佐久郡佐久穂町のものである。

 佐久穂町の標高は何と728mもある。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

長野県(信州)
出典:マピオン

 佐久郡で最初に行ったのは、南相木村と北相木村である。

 理由は、これらの地から秩父まで困民党の戦士として菊池や井出が参加したこともさることながら、私が2003年から数年、長野県に非常勤の特別公務員(長野県環境保全研究所長、長野県知事政策顧問)として赴任していたころ、ぜひ、一度、これらふたつの相木村を訪問してみたいと思っていたからである。

 ただし、南相木村には知人の色平医師が赴任してた際に、一度、池田さんとでかけお会いしたことがある。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8




秩父事件関係略図。出典:椋神社境内の看板
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S

 
 巻頭論考に記したが、長野県の佐久から秩父事件に関与し、軍隊・警察に検挙された者は、総数558人に及んでいるが、その内訳を見ると海瀬10人、高野町44人、穂積2人、小海32人、南相木200人、北相木184人、宿岩15便、その他となっており、佐久郡の南相木村、北相木村の者が圧倒的に多い。

 そこで、到着後、まずは南相木村、北相木村を視察した。とはいえ、群馬県から長野県に入るのに時間がかかったこともあり、昼食を抜きにしても秩父に夕暮れに帰るとすると、あまり佐久に多くの時間が取れない。

 さらに肝心な長野での秩父事件の主戦場となった佐久郡小海町の東馬流はぜひとも視察しなければならない。

 ということで、南相木村、北相木村併せて30分ほどの滞在となった。



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 以下は現在の南相木村である。

都道府県 長野県
南佐久郡
面積 66.03km2
総人口 1,075
推計人口、2012年10月1日)
人口密度 16.3人/km2
隣接自治体 長野県:小海町北相木村南牧村川上村
群馬県:上野村
村の木 赤松
村の花 山桜
他のシンボル
  出典:Wikipedia


南相木村の位置  出典:南相木村公式Webより

1970年 2,009人
1975年 1,800人
1980年 1,604人
1985年 1,453人
1990年 1,368人
1995年 1,334人
2000年 1,584人
2005年 1,151人
2010年 1,122人
南相木村の人口推移。現在の人口は1075人である。
 出典:Wikipedia


南相木村町役場
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

◆南相木村の沿革

1565年(永禄8年)信濃国佐久郡相木村が南北に分立し信濃国
      佐久郡南相木村となる。
1871年(明治4年)11月 廃藩置県により長野県佐久郡南相木村となる。
1879年(明治12年)1月14日 南佐久郡制施行により長野県
      南佐久郡南相木村となる。
1889年(明治22年)4月1日 市町村制施行も合併を伴わずに発足。
2005年(平成17年)440年目を迎える。
2006年(平成18年)4月:南相木ダムの完成による固定資産税増加分
      を受けて、平成18年度以降地方交付税の不交付自治体となっている。

 国道141号線を左折し、北相木村から南相木村に入ってすぐに、以下の「不戦の像」がある。


南相木村の入り口にある不戦の像
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


南相木村の入り口にある不戦の像建立の説明
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

◆『不戦の像』の建立について 〜 平和への誓い新たに 〜

 ここ村境の「別れの松」は、過ぎし戦いの日、大命を受けた若者たちが、一言の抗弁も許されずに、村民総出の歓呼の声に送られて、愛する人々と、最後の言葉を交わした、まさに戦争の悲劇が凝縮した場所であります。

 当時、出征するということは、死を決意することであり、肉親に対する断ちがたい愛情と、国に対する忠誠のはざ間に苦悩しつつ、征途についたのでした。

 送る者、送られる者「達者で帰って」という切なる願いも空しく、多くの若者が再び 「別れの松」の下に姿を見せることなく、その尊い生命を国に捧げたものです。

 見送る母親の表情には、当時軍国の妻、軍国の母の名のもとに、万斛の思いを秘めて、透徹した諦観の相を感じます。母親の手にすがる男の子は、「お父さん早く帰って」と必死に叫んでおります。そして、母親の背中に無心に眠る幼子は、二度と父親の顔を見ることはできません。何という非情の世界でありましょう。

 さらに、残された家族のたどった戦後の苦難の歴史を思う時、この悲劇は断じて繰り返してはなりません。戦後四十年、往時を回顧し、村民相はかつて戦没者に対する鎮魂と、平和への悲願をこめて、ここに 「不戦の像」 を建立いたしました。

               昭和62年9月23日   南相木村

 南相木村をさらに東に行くと沿道沿いに諏訪神社があった。


南相木村の諏訪神社
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


南相木村の諏訪神社
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


南相木村の諏訪神社
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 南相木村の総面積の92%を山林原野が占めていること、それに人口規模だけで見ると、南相木村は限界集落に見えるが、現地でみた村の家々は、いずれもどうしてどうして立派なものばかり、現在の生活の質から見ると、医療サービスなど福祉分野以外の質は非常に高いのではないかと感じた。

 村の主力産業は農業分野では、新規就農される人々への積極的な受け入れ、支援があり、新品目や農産加工品の開発にも力を入れているようだ。

 人口わずか1000人ちょっとのまちだが、町の財政はどうなっているのか? なぜ、人口わずか1000人の南相木村が財政面で存立するのか不思議に思った。そこで帰京後調べてみたら、南相木村の最上部(1,532m)に東京電力が建設管理する発電用の大規模ダム「南相木ダム」があった。

 このダムに関連し、最終的に世界最大規模の280万kwの水力発電が行われるというから、おそらくいわゆる電源立地に伴う各種税収、収入で現在の村の財政は結構、豊かなのかも知れない。

 実際、沿革にあるように、平成18年4月、南相木ダムの完成による固定資産税増加分を受け平成18年度以降地方交付税の不交付自治体となっている。

 再生可能エネの水力は良いとして、事業者が東京電力であることに不安があるが!

南相木ダム

 長野県南佐久郡南相木村、信濃川水系南相木川に建設されたダム。高さ136メートルのロックフィルダムで、東京電力の発電用ダム。同社の揚水式水力発電所・神流川発電所の上池を形成。下池・上野ダムのと間で水を往来させ、最大282万キロワットの電力を発生する計画である。

 ダム湖の名は奥三川湖(おくみかわこ)。神流川発電所は南相木ダム湖(奥三川湖)を上池、上野ダム湖(奥神流湖)を下池として利用する揚水発電所である。

 南相木ダムは、その上池として1995年(平成7年)より建設開始、2005年(平成17年)に完成した。現在1・2号機(各470,000kW)が稼動しているが、最終的には6台の水車発電機により揚水発電所としては世界最大となる2,820,000kWの発電を行う予定である。

出典:Wikipedia


南相木ダム 出典:南相木村公式Web

 次に北相木村を訪問した。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 北相木村は南相木村より人口は少なく、人口密度も低い。

都道府県 長野県
南佐久郡
面積 56.26km2
総人口 854人 
推計人口、2012年10月1日)
人口密度 15.2人/km2
隣接自治体 小海町佐久穂町南相木村
群馬県上野村
村の木 唐松
村の花 石楠花
他のシンボル 山鳥

1970年 2,009人
1975年 1,800人
1980年 1,604人
1985年 1,453人
1990年 1,368人
1995年 1,334人
2000年 1,584人
2005年 1,151人
2010年 1,122人
北相木村の人口推移
 出典:Wikipedia


北相木村の町役場

◆北相木村の沿革

1565年(永禄8年) 信濃国佐久郡相木村が南北に分立し信濃国
       佐久郡北相木村となる。
1871年(明治4年)11月 廃藩置県により長野県佐久郡北相木村となる。
1879年(明治12年)1月14日 南佐久郡制施行により長野県
       南佐久郡北相木村となる。
1889年(明治22年)4月1日 市町村制施行も合併を伴わず発足。
2005年(平成17年) 440年目を迎える。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 北相木村の公式Webには、以下の秩父事件についての説明があった。

 北相木村の秩父との交流は、村内を通る街道(武州街道)によって頻繁な交易が江戸時代以前からあった。事件に参加した何人かは、事件の通路となった十石峠を越え、街道を物資輸送してきたという。

 北相木の若者達に秩父方面に友人ができ、武川商人が村の民家の軒さきに腰をおろし種物や雑貨を商うのは何も珍しいことではなかった。秩父事件について連絡がされ、参加要請が党員にもたらされたのは事件前の夏頃からであったとされる。

◆秩父事件

 秩父事件は秩父騒動ともいわれる。明治17年11月1日埼玉県秩父地方に蜂起した地域住民中心の世直し騒動であった。
 
自由民権運動とも絡み合い、特異な激化形態を展開したものとして注目される。参加した民衆は8千とも1万ともいわれ、秩父郡内の公権を3日間も停止させた。

 秩父での蜂起の原因は、金融逼迫に加えて繭価・生糸価の急落などによる経済的破局などにあった。高利貸に借金し急場をしのいできた極貧、細民層のゆきずまりは借金返済延期の哀訴となった。ところが当然の拒絶にあった。彼等は「負債据置年賦償却説論ノ義」の嘆願書を郡役所へ提出哀訴したが却下された。

 役人も警察官も彼等の見方ではなかった。そこで、坂本宗作・落合虎市らや、自由党の井上伝蔵らによって、圧制官吏を敵として、世直しのため困民の先頭に立った。

 秩父との交流は、村内を通る街道によって頻繁な交易が江戸時代以前からあった。事件に参加した何人かは、事件の通路となった十石峠を越え、街道を物資輸送してきた。

 北相木の若者達に秩父方面に友人ができ、武川商人が村の民家の軒さきに腰をおろし種物や雑貨を商うのは何も珍しいことではなかった。秩父事件について連絡がされ、参加要請が党員にもたらされたのは事件前の夏頃からであった。

北相木村の公式Web

 ところで、東京に帰ってから、南相木村と北相木村について調べてみた。というのも、人口規模で1000人前後とほぼ同じ南北相木村だが、どうみても南相木村の社会資本整備、各種ハコモノ、さらに村民の住宅に至るまで、外見上大きく異なったからだ。

 以下は、南相木村と北相木村の各種財政指数の比較である。

 一目すれば分かるように、南相木の方が起債制限比率以外全てにわたってかなり上位にあった。

南相木村の各種財政指数
財政項目 全国ランク 長野県内ランク
財政力指数(2010) 116位 2位
経常収支比率(2010) 160位 25位
実質公債費比率(2010) 393位 9位
起債制限比率(2007) 745位 33位
将来負担比率(2010) 1位 1位
ラスパイレス指数(2010) 1699位 75位
出典:総務省

北相木村の各種財政指数
財政項目 全国ランク 長野県内ランク
財政力指数(2010) 1343位 53位
経常収支比率(2010) 204位 32位
実質公債費比率(2010) 706位 28位
起債制限比率(2007) 399位 17位
将来負担比率(2010) 1位 1位
ラスパイレス指数(2010) 1023位 30位
出典:総務省

 これについては、別途論考を書くが、東京電力が福島第一原発事故を起こした後、たとえどれだけ再生可能エネルギー開発が重視されようが、以下のいわゆる電源三法による各種交付税や固定資産税による税収があろうと、果たして南相木村の財政がいつまでもつか、またこの種の巨大ダムによる巨大水力発電が今後どうなるのか、また自然生態系への影響や立地自治体の経営などにも注目してゆきたい。

・電源開発促進税法
・特別会計に関する法律(旧 電源開発促進対策特別会計法)
・発電用施設周辺地域整備法

 ところで、北相木村で上野小海線のぶどう峠ルートについて調べてみた。すると下の写真にあるように、長野側からもぶどう峠ルートは、やはり冬期は通行止めであることが分かった。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 本題(秩父事件)から脇にそれたが、次に本題に入る!