エントランスへはここをクリック   総合メニュー へ

日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

日本人の筆による
「旅順大虐殺
(1)
文芸春秋 2004年第5期より抜粋 2009-07-20
一个日本人笔下的“旅顺大屠杀”
来源:网易历史举报

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2022年1月2日
 

中国旅順大虐殺祈念館/中国百度百科

総合メニュー へ
 
(1) → (2) → (3)

日本人の筆による「旅順大虐殺」(1)

本文


 10年前、井上春樹という日本の作家が中国に遊びに来た。 大連の街角の露天で偶然、『旅順大虐殺』という小冊子を見つけたのだ。 その表紙を見ると、「日本の獣兵衛」「最大の虐殺」「最高度の残虐行為」という荒々しい文章と写真に驚かされた。

 早稲田大学文学部出身で歴史好きの井上は、1894年の日清戦争についてはよく知っているつもりだったが、日清戦争中に中国の旅順で「南京大虐殺を連想させる」事件があったことは、50代にもなって初めて知ったのである。

 「南京大虐殺」は悲惨な事件だった。 しかも、井上の知る限り、「旅順虐殺」は「現在の日本史の教科書には載っていないばかりか、多くの歴史教師にも知られていない」のである。 では、100年前に日本軍が行った「人類文明史上最も暗く野蛮で血なまぐさい光景」とは何だったのだろうか。

 1894年10月、かねてから中国の東北部を狙っていた日本の侵略軍は、黄海海戦に続いて陸路で清国軍に奇襲をかけた。

 11月21日、第二軍第一師団は清国の防衛を妨害し、旅順周辺のすべての砦を占領し、市街を襲撃した。 旅順に入った途端、他国の領土を堂々と踏みにじった「勝者」たちは大暴れし、市内外で罪もない無防備な市民(抵抗を諦めた清国の兵士数名を含む)を鬼のように殺戮しまくったのだ。

 「彼らは通りや荒野に至るまで、出会った生きているものはすべて追いかけ、撃ち、銃剣で刺した」、「男、女、子供、老いも若きも、犬、猫、彷徨うラバや馬、すべてが切り刻まれ刺されて殺された」と。 「ひざまずいて乞う者も、隠れる者も、逃げる者も、皆遅かれ早かれ殺された」、「街道の入り口から波止場まで、死体の山があり、家の前の至る所に死体が転がっていて、汚い風が鼻孔を通り、ブーツから血が流れ、多くの場所で死者の上を通るしかないほどだった」。

 「旅順から海路で脱出しようとする者は、魚雷艇に追われ、海岸から銃撃を受け、沈没するか岩にぶつかり、旅順港に多くの魚群がいるように、海には死体の山が浮いていた」と。 ..

 .そんな血生臭い大虐殺が、4日も5日も「一晩中」続いたのである。 中国遼東省の南端にある「渤海の玄関口」旅順の街が、空っぽの街、血の街、死の街、恐怖の街へと変貌を遂げた。

  日本兵の刀や銃で、少なくとも1万8000人の命が失われたのだ。 結局、「生き残った中国人は市内でわずか36人、しかも死んだ同胞の埋葬に必要だからということで助かった」と言われている。 それぞれ目印になる短冊(または布切れ)を帽子(服)に貼り、日本語で『この人は殺されない』と書いてあった」・・・・・。

 井上春樹は非常にショックを受けた。 最初は、手にした薄気味悪いパンフレットを伝聞文学に過ぎないと思っていた。 しかし、この本は、外国特派員によって旅順事件がついに暴露され、世界が衝撃を受けたこと、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツの世論が極東における日本軍の暴虐な行為を強く非難したことが明記されていることはもちろん、捏造であるはずがないほど情報豊富で具体的であることにすぐに気がついたのだ。

  井上は、訪中した際の「大連での本との出会い」は、ほとんど偶然の産物であったと感じている。

  帰国後、良心と正義感に駆られた日本人作家は、「刺激されたように」他の一切の仕事を中断し、直ちに困難で粘り強い探索と調査に取り掛かった--彼は、中国全土を探し回って、「旅順事件を覆い隠している過去の雲を取り払う」ために、全国をくまなく探し回り、過去に「一方的に犠牲者を出した」「軍国主義の本質」を明らかにする史実を明らかにしようと決心したのだ。

 その後、井上は、現代日本の歴史学界全体でも、「旅順虐殺事件」の存在を1980年頃にようやく発見し始めたところであることを知った。 そのため、歴史家でもない彼は「遅すぎた」と嘆いた。

 幸い、外務省外交史料館、防衛省防衛研究所戦史室、国立国会図書館憲法課など、日本の一部の官庁では、近年、長い間秘匿されていた文書や資料の「凍結解除」が徐々に進んでいるようである。

 そのため、井上の深堀りがやや有利になった。 その結果、井上は、現地調査で得た生の史料をもとに、「旅順大虐殺」の真相を中国や世界の人々にさらに明らかにしていこうと、ますます決意を固めた。 これが、彼の研究の最大の特徴であり、今後の研究において最も歴史的価値のある部分となったのである。


(2)へつづく