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<ヴェスヴィオ総合メニュー> エルコラーノ(コムーネ) ヘルクラネウム遺跡1 ヘルクラネウム遺跡2 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Wikipediaイタリア語版を中心に英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 はじめに ヘルクラネウム(Herculāneum)を背景にした池田こみち 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 南イタリアのヘルクラネウム(Herculāneum)は、古代ローマの町で、その遺跡はイタリアのカンパーニャ州エルコラーノというコムーネ(小さな自治体)の中にあります。 現在、西暦79年のヴェスヴィオ大噴火に関連した遺跡の一部が公開されています。 ポンペイ、スタビアエ、オプロンティスと共に ヘルクラネウムの町は西暦79年8月24日に始まったヴェスヴィオ火山の噴火により失われました。ヘルクラネウムの町は高温の火砕物に埋まり、それは冷えて火山性の凝灰岩となったのです。 1981年に遺骨が発見されて以来、150体あまりの人骨が発見されています。噴火当時ヘルクラネウムはポンペイに比較し小さな町ですが、より富裕な人々が住んでいました。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 位置 写真1のグーグル地図は、エルコラーノ(Ercolano)の位置を示しています。北西にナポリ(Napoli)が、南東にポンペイ(Pompei)があります。エルコラーノの北東には西暦79年に大噴火し、エルコラーノやポンペイを消滅させた大火山があります。 , Source: Google Map エルコラーノは現在の自治体(コムーネ)の地名であり、大噴火当時は、 大被害を受けた地域はヘルクラネウム(Herculāneum)と言っていました。当時、この地域はギリシャ ヘルクラネウムと呼ばれていましたが、理由は当時この地域はギリシャ人によって建設されたからです。 , 私達が過去5回、調査で行っているソレント半島・アマルフィ海岸は、ポンペイの南にあります。また先にご紹介した聖三位一体ベネディクト修道院はポンペイの東側15kmにあるカーヴァ・デ・ティッレーニ市にあります。 , 写真2はヴェスヴィオ山大噴火の影響範囲です。現在エルコラーノの一部となっているヘルクラネウムは、地図中、オプロンティスの隣にありいます。このヘルクラネウムでは、火山灰が何と20mも降り注いでいました。 ヘルクラネウムなどヴェスヴィオ火山の周りの複数の都市が噴火により被害を受けた。黒い雲は灰と噴石の降下の大まかな分布を表している。 Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンクによる 歴史 古い言い伝えによれば、ヘルクラネウム名をギリシアの英雄ヘラクレスに関連付けています。ヘルクラネウムの町がギリシア人により建設されたことが窺われます。紀元前6世紀末頃、イタリアのサムニウム人の先祖がこの場所に最初に文明を築いたとされます。 その後、まもなくして町はギリシアの支配下に入りました。ギリシア人は町をヘルクラネウムと名付けナポリ湾に近いこともあり、町を貿易基地として利用しました。 紀元前4世紀再びサムニウム人がヘルクラネウムを支配し、その支配はヘルクラネウムも参戦した同盟市戦争(ローマに対する同盟軍の戦争)で、将軍スッラの補佐官ティトゥス・ディディウスに敗れて紀元前89年にローマのムニキピウムになるまで続きました。 79年に起きたヴェスヴィオ火山の噴火後、ヘルクラネウムの町を溶岩や土や灰が20メートル程の厚さで覆ってしましたのです。 ヘルクラネウムの町はその後、1709年に井戸を掘っていた労働者に偶然発見されるまで1600年以上、ほぼそのままの姿で地中に眠っていました。 発見以来、発掘作業が進められていますが、まだ終了していません。現在のエルコラーノとポルティチは当初のギリシャの町だったヘルクラネウムがあった場所にほぼ位置しています。 ヘルクラネウムの町は1969年までレシーナと呼ばれていましたが、古代の町を記念してヘルクラネウムを現代イタリア語化したエルコラーノに改名されました。 住民の信仰を一番集めていたのは、町とヴェスヴィオ火山を創造したとされたヘラクレスでした。他に信仰されていた重要な神はヘラクレスの愛人と信じられていたヴィーナスおよびアポロです。 エルコラーノなどヴェスヴィオ火山の周りの複数の都市は噴火により大きな被害を受けました。黒い雲は灰と噴石の降下の大まかな分布を表しています。 ヘルクラネウム遺跡2へつづく |