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第1~5回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2003~2020
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune


プリニウス 
Gaius Plinius Secundus
 

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2020年11月30日 独立系メディア E-wave Tokyo
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プリニウス1(人名)   小プリニウス1(人名)
アタナシウス・キルヒャー  マイウリ・アメデオ

 本稿の解説文は、現地調査に基づく解説、写真撮影に加え、Wikipediaのイタリア語版を中心に英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

◆プリニウス(大プリニウスあるいはプリニウス長老とも)

 Source::Gaius Plinius Secundus, Wikipedia

 以下は聖母マリア・マッジョーレ大聖堂のファサードの玄関の扉の左にあるのがガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス像です。


ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス
(Gaius Plinius Caecilius Secundus, 61年 - 112年)
Source:Wikimedia Commons
CC 表示-継承 3.0, リンクによる



聖母マリア・マッジョーレ大聖堂のファサード
玄関の扉の左にあるのがガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス像
Source: Roman Rybalchenko, Google Map Street View



聖母マリア・マッジョーレ大聖堂のファサード
玄関の扉の左にあるのがガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス像
Source: Ziggy Martin, Google Map Street View



聖母マリア・マッジョーレ大聖堂のファサード
玄関の扉の左にあるのがガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス像
Source:Wikimedia Commons
CC BY-SA 3.0, Link


◆概要

 ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus、23年 - 79年8月または10月25日頃(推定)は、古代ローマの博物学者、政治家、軍人です。

 ローマ帝国の属州総督を歴任する傍ら、自然界を網羅する百科全書『博物誌』を著しました。一般には大プリニウス(Plinius Maior)と呼ばれています。

 甥に、文人で政治家のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(通称、小プリニウス)がおり、養子としています。


プリニウス(ガイウスプリニウスセクンディス)長老(西暦23〜79年)ローマの歴史家、学者、作家のプリニウス長老は、自然科学の包括的な37巻の百科事典を含む、多くの歴史的および科学的作品を書きました。慢性喘息に悩まされ、彼は山の噴火の硫黄ガスへの暴露から窒息死した。
Source:Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる

生涯

 プリニウスは北イタリアのコム(現在のコモ)生まれです。

 プリニウスは思想的にはストア派で、論理と自然哲学と倫理学を信奉していました。ストア派の第一の目的は、自然法則にしたがって徳の高い生き方をすることであり、自然界の理解が必要でした。甥の小プリニウスによると、プリニウスは夜明け前から仕事をはじめ、勉強している時間以外はすべて無駄な時間と考え、読書をやめるのは浴槽に入っている時間だけだったといいます。

 23歳のころ、軍隊にはいり、ゲルマニア遠征に従軍しました。50年代にローマにもどり法学を学びましたが、弁論家としては成功せず、学問研究と著作に専念しました。70年ごろから72年にかけて、ヒスパニア・タラコネンシス(スペイン北部)に皇帝代官として赴任しました。

 このときに、現在では世界遺産にもなっているラス・メドゥラスの採鉱作業にも接しています。最後はイタリアに戻り、直接ウェスパシアヌス帝に仕える要職に就きました。この仕事は一日の大半を自由に使えたため、プリニウスは精力的に筆をふるい、ローマ史31巻をまとめ、ネロ帝の時代から材料をまとめ続けていた『博物誌』37巻の大半を書き上げました。

 79年にウェスウィウス山(ヴェスヴィオ山)の大噴火でヘルクラネウムとポンペイの町が壊滅したとき、プリニウスはナポリの近くのミセヌムでローマ西部艦隊の司令長官の任についていました。火山現象をくわしく調査したいとの熱意と友人らを救出しなければという思いから、彼はナポリ湾をわたってスタビアエに上陸しましたが死亡した。


プリニーの死。「MeteorStories」のイラスト、p。419
Source:Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる


 養子の小プリニウスの伝えるところによれば、プリニウスはスタビアエの町で休息していましたが、火山性地震が激しくなったため、建物の倒壊を恐れて海岸へ避難しました。するとにわかに海岸に濃い煙と硫黄の臭いが立ち込めたため、人々は散り散りになって逃げ出しましたが、プリニウスは動けずその場で倒れ、打ち捨てられました。噴火が始まって三日目に収容された彼の遺体は眠るがごとくであったといいます。

 プリニウスの死因について小プリニウスは、喘息持ちであったため、煙で気管支がふさがれ窒息死したのだと記述しています。「煙」=火砕サージに含まれた火山灰による窒息死は、セント・ヘレンズ山大噴火の際にも見られた被害であり、ありうる死因です。


ベスビオ山の炎によって彼の体が灰になってしまった
プリニウスの驚異的な死。
Source:Wikimedia Commons
CC 表示 4.0, リンクによる


 一方で硫黄臭に関する記述は火砕サージに含まれた火山ガスが死因となった可能性も示唆しています(プリニウスが瞬時に昏倒した描写は、硫化水素の急性中毒をも彷彿とさせます)。また、火砕サージはしばしば灼熱をともなうため、サージを吸い込んだことによる気管支の熱傷の可能性もあります。

 プリニウスは、歴史や科学に関する多数の著作をあらわしました。プリニウスの著作は全部で102にもおよびますが、現存するのは77年に完成した『博物誌』のみです。騎兵による投げ槍の使用についての論著、甥である小プリニウスのために書いたと思われます、

 弁論家養成の3巻本、語形変化と活用について論じた8巻本、ゲルマニアでの戦争を記述した20巻の歴史書、そして41 - 71年のローマ史31巻などがありますが、いずれも現在では失われています。

 プリニウスの著作で唯一現存しているのが、自然と芸術についての百科全書的な37巻の大著『博物誌』です。自然界の歴史を網羅する史上初の刊行物でした。

 ローマ皇帝ティトゥスへの献辞の中で彼自身がのべているように、この書物には、100人の著者によるおよそ2000巻の本(その大半は現在に伝わっていない)を参照し、そこからピックアップした2万の重要な事項が収録されています。

 メモや調査の記録は160冊にもなろうかという分量でした。最初の10巻は77年に発表され、残りは彼の死後おそらく小プリニウスによって公刊されました。この百科全書は、膨大な参考文献表から始まり、天文学、地理学、民族学、人類学、人体生理学、動物学、植物学、園芸、医学と医薬、鉱物学と冶金、美術にまでおよび、余談にも美術史上、貴重な話がふくまれています。

 直接見聞きしたものはほとんどなく、受け売りの論評と迷信がないまぜになった風変わりな書物です。約200枚の手書き原稿が現存しています。

 プリニウスの名前は8 - 9世紀の文献にも登場し、中世には『博物誌』が重視されました。怪しげな情報を採用したり、科学の素養がないため間違いを犯している点もありますが、よく整理された知識が記載されており、古代研究の分野ではルネサンスまで『博物誌』が唯一の情報源でした。

『馬上からの投げ槍について』(De iaculatione equestri)
『ポンポニウス・セクンドゥスの生涯』(De vita Pomponi Secundi)
『博物誌』(Naturalis historia)、77年[5]。

日本語文献

・小プリニウス 『プリニウス書簡集 ローマ帝国一貴紳の生活と信条』 
・ヴェスヴィオ火山噴火と大プリニウスの死の記述がある。国原吉之助訳注、講談社学術文庫
・中野里美 『ローマのプリニウス』 光陽出版社、2008年
・澁澤龍彦 『私のプリニウス』 青土社、1986年
・ロバート・ハクスリー 著、植松靖夫 訳 『西洋博物学者列伝 アリストテレスからダーウィンまで』 悠書館、2009年
・大プリニウスを描いた作品


小プリニウス1(人名)につづく