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第1~5回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2003~2020
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune


ヘルクラネウム遺跡 現地視察

カミリオ・パデルニ 1 Camillo Paderni 1

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda

2020年11月30日 独立系メディア E-wave Tokyo
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カミリオ・パデルニ1   カミリオ・パデルニ2
カミリオ・パデルニ3
  カミリオ・パデルニ4


 本稿の解説文は、現地調査に基づく解説、写真撮影に加え、Wikipediaのイタリア語版を中心に英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 
カミリオ・パデルニの作品(フレスコ画)1

<概要>


カミリオ・パデルニ(Camillo Paderni) 西暦1715~1781
Source:Wjikimedia Commons
Public Domain, Link


 カミリオ・パデルニ(Camillo Paderni)、またはカミラス・パデルニ(Camillus Paderni)は、西暦1715~1781に生きた人です。

 彼は、ポルティチのナポリ王宮の王チャールズ7世に仕えたローマ人で、ヘルクラネウム博物館のイラストレーターであり、発掘作業員であり、学芸員でもありました。

 パデルニはおそらく、ヘルクラネウムのパピルスのヴィラで得られたヘルクラネウム・パピルスを書き写す仕事を引き受けた最初の人でした。

 パデルニは、パピルスの重なり合った層を一枚ずつ剥がし、巻紙を半分に切って、読み取り可能なテキストをコピーする方法を採用しました。この転写手順は何百もの巻物に使用されましたが、結果的にその過程でパピルスを破壊することとなりました。

 いくつかの書簡に記載があります。

 1752年のリチャード・ミードに宛てたパデルニの手紙には次のように書かれていました。

 パピルスが大量に発見されてから1か月前も経っていませんが、炭のようになっていて非常にもろく、触るとすぐに灰になってしまいます。それにも拘わらず、陛下の支持によってなんとかそれを開けようとしましたが、すべてうまくいきませんでした。なんか言葉があると期待して全体をみてみたところ、様々な(言葉の)断片があり、(読み解けば)全体として何が書かれているかがわかると思います。

 炭の闇を上回るような、非常に黒い色で描かれた人物の絵です。私はここで、2つの短い線(見本を参照して下さい)で模写して差し上げます。私がこれ以上貴方に送ることを許可しないのは(これだけしか渡さないのは)、皇帝への私の忠誠心からです。

 1752年からリチャードミードへの手紙の中で、パデルニは次のように書いています。

 これらの建物の1つで、複数巻からなるエジプトのパピルスの図書館全体が見つかりました。そのうちの約250が取り出されましたが、その場所はまだはっきりしておらず、中はまだ空にされていません。

 その上の地面の土がその上に落ちないようにするために、最初に支柱を建てる必要があると考えられていました。 これらのパピルスの図書類はラテン語とギリシャ語の写本で構成されていますが、炎と時間の経過によって生じた脆弱性から、それらを広げることはできず、現在は腐敗して腐っています。しかし、皇帝は、それらの図書を開けることを望み、ローマから、バチカン図書館に所属していた特定の僧侶(修道院長ピアッジョ)を派遣し、その役割を果たそうとしましたが、結局無駄でした。



カミリオ・パデルの作品1


カミリオ・パデルニ(Camillo Paderni)
Source:Wikimedia Commons

CC BY-SA 4.0, Link



カミリオ・パデルニ(Camillo Paderni) 1757年
Source:Wikimedia Commons
Public Domain, Link


カミリオ・パデルニ2へつづく