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日本降伏の全過程のレビュー 1
 (原題:Zhijiang surrender) 北京日報(北京晩報) 
NorthEveningNewVision.com
/百度
2021年8月24日

中国語題:一文回顾日本投降全过程!
北晚新视觉网 2021年8月24日

中国語→日本語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
 独立系メディア E-wave Tokyo 2021年8月30日
 

鎮江での降伏式の様子

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本文

 1945年9月9日、9月9日の9時になると、戦争で大きな被害を受けた南京の街には旗が飾られた。 侵攻してきた日本軍の総司令官である岡村寧次が、中央陸軍士官学校の講堂で降伏文書に署名したのである。

 中国はついに日本との戦争に勝利したのである。

 署名の時間はわずか20分。 日本の降伏、そして中国戦域の降伏の詳細は、その十数日前に湖南省の芝罘(しふそ)で完了していた。

 1945年8月15日、日本は無条件降伏を表明し、8月21日には日本の降伏特使である今井武男が湖南省芝罘(しふそ)に赴いて降伏を乞い、侵攻してきた日本軍の配置図を手渡し、日本軍の降伏を命じる詳細な規定が書かれた「中国覚書第一号」を受け取ったのだった。

 中国が戦勝国として、日本が降伏したのは、近代では志江の降伏が初めてだった。 湖南省の西端に位置する小都市「志江」は、中国の戦地が日本で初めての降伏地となり、中国の対日戦史に輝かしい1ページを記した。


志江空港の建設に使われた巨大な石臼


1937年10月から1938年10月まで、1万9千人の民間人労働者が志江飛行場の建設に携わった。


志江にある中米空軍航空団の第5旅団の一部。

1945年4月、志江防衛戦でランデブーの配置を検討する中国とアメリカの軍人。


枝江の降伏式で、日本人は日本の侵略者の配備計画を手渡した。


席に着いて汗をぬぐう羽島義勇氏


日本の降伏特使である今井武男が「受理証明書」にスタンプを押す。


1945年8月21日、日本の降伏特使は白旗を掲げたジープで空港を出発し、指定された住居に向かった。


(2)へつづく

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