所沢ダイオキシン問題の本質について(1) テレビ朝日への最高裁判決に関連して 2003年10月19日、10月26日、11月26日 青山貞一 株式会社環境総合研究所 代表取締役所長 転載禁 |
|
<この間の経緯について> 報道にかかわる名誉毀損裁判では、 『民法上の不法行為たる名誉毀損行為については、その行為が公共の利害に関する事実に係り、もっぱら公益を図る目的に出た場合には、摘示された事実が真実であることが証明されたときは、右行為には違法性がなく、不法行為は成立しないものと解するのが相当であり、もし右事実が真実であることが証明されなくとも、その行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときには、右行為には故意もしくは過失がなく、結局、不法行為は成立しないものと解するのが相当である。』(1961.6.23最高裁第一小法廷判決より) という最高裁判例が重視されてきた。 もし、上記の規定がなく、むやみに司法が報道内容について民法709条にある「故意又は過失による不法行為」を認定し、報道機関に「損害賠償の責」を負わせることになれば、国民の生命や健康に係わる問題についての調査報道は不可能となるからである。 本件では、一審(さいたま地裁)、二審(東京高裁)ともに、被告による原告側の名誉毀損の存在を認めたものの、報道内容が国民の生命や健康に係わる情報を伝えたものであり公益性があること、さらに狭い地域に多数の焼却炉が集中し、そこでつくられる農作物にダイオキシン汚染の実態があったことなどを理由に、被告側(テレビ朝日および環境総合研究所)に勝訴を言い渡した。 すなわち、『二審判決が地域の農作物がダイオキシンに汚染されているか否かを「証明されるべき報道の重要な部分」とみたのは、根本的な責任は汚染物質を垂れ流しにした産廃業者とそれを放置した行政にあり、事実を明らかにしたメディアにあるのではないと考えたからではないか』(NBL編集後記、「テレビ報道が死んだ日」より)。 原告側の上告及び上告受理申し立てにより審議は最高裁に移った。2003年6月26日、最高裁第一小法廷は、原告側の上告及び上告受理申し立てを棄却し、環境総合研究所の勝訴が確定した。 ※ 環境総合研究所勝訴確定については、 「所沢ダイオキシン最高裁判決(環境総合研究所分)について」を参照のこと。 その後、最高裁第一小法廷は、2003年9月にテレビ朝日を対象に口頭弁論を開催した。 さらに2003年10月26日、第一小法廷は、ニュースステーションの報道内容に対して「一般視聴者が映像、効果音、ナレーションなどから得る放送全体の印象を総合的に考慮すべき」とし一般視聴者が当該番組から、3.8ピコ(煎茶)のデータをほうれん草のデータであると総合的に判断している可能性が高いこと、「白菜だけの1つのサンプルだけでは危険とはいえず」、「環境総研と摂南大の調査結果だけでは、地域の農作物全体が高濃度に汚染されているとは言えない」とした。 すなわち第一小法廷は、「報道の重要部分」を多数の産廃等の焼却炉が農地に立地し、その結果農作物がダイオキシンに汚染されていると言う事実ではなく、テレビ視聴者の総合的印象として得た「高濃度な葉物野菜の存在」とし、その真実性の証明が不十分であるとしたのである。そして、一審、二審判決を破棄し事件の審理を東京高裁へ差し戻した。 <「ことの本質」からはずれた最高裁のテレ朝判決> もとより国民の健康や安全に係わる事柄に関連しては、国、自治体、事業者は多くの住民、消費者の不安に対し自ら率先してその安全性を検証すべきである。しかし、国、自治体は焼却炉の立地規制、排ガス規制を行わなわず、住民、消費者の不安をよそに農作物中のダイオキシンについての指針も作らない。すべて不作為を決めこんでいたのである。このような状況のなかで、住民、消費者の依頼に応じ民間研究機関が調査を行いその結果を報道機関が農作物にダイオキシン汚染が存在することを速報したのがこの事件の本質である。これは社会的にみてきわめて重要なことである。 にもかかわらず最高裁第一小法廷は、「報道の重要部分」を葉物野菜からニュースステーションが指摘したような高い汚染数値が検出されたかどうかととらえた。この見方にたてばダイオキシン汚染の構造は視野から外れることになる(NBL編集後記より)のである。 いまさら言うべきもないことだが、司法は本来、この種の民事事件を個別的、具体的に審理すべきである。一般視聴者が番組に抱く総合的な印象を重視し、その印象がもたらす内容の真実性を報道機関に立証させる。もし、それが立証できない場合には損害賠償を被告に負わせると言う法理は、本件のように国民の健康や安全に係わる事柄を問題とする報道や調査報道に対して必要以上の負担を負わせるものとなる。視聴者の印象を総合性を考慮し、地域全体の汚染の事実についてその真実性を報道機関に立証させる。もし、それらを立証できなければ、報道機関に損害賠償を科すことは、司法判断の枠を逸脱する判断であると言わざるを得ない。 司法が国民の健康、安全に係わる事柄を調査報道する側に、一般視聴者の印象の総合性や地域全体の汚染の立証を課すことは、報道するなと言っているのに等しい。その意味で最高裁は一審、二審判決にあるように、報道機関には二審判決の骨子である『地域の農作物がダイオキシンに汚染されているか否かを「証明されるべき報道の重要な部分」』とすべきある。 NBL編集後記は次のように締めくくっている。すなわち、『国民の立場からすると、健康や生命に係わる問題では、「疑わしくは報ずる」が原則であってほしい。報道で生ずる風評被害は、汚染原因者が負担するという社会の合意をつくるべきであろう。もちろん報道に当たっては十分な確認をすることは当然である。最高裁判決はそのような合意づくりのヂャンスを潰したような気がする』と。 つづく |