帝国議会の質問制度 −成立と変容− Question System to the Cabinet in the Imperial Diet: The Process of Institutionalization 第三章 田中 信一郎 TANAKA, Shinichiro 明治大学大学院政治経済学研究科 政治学専攻博士後期課程 元参議院議員政策秘書 初出:『政治学研究論集』第23号 (明治大学大学院政治経済学研究科、2006年) Web掲載年月日:2006年5月27日 |
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第三章 質問制度の運用 一、質問件数の考察 帝国議会の質問件数について、先行研究及び戦後公刊の帝国議会資料では、明らかにされてこなかった。貴族院及び衆議院の一次史料から判明した質問件数(78) は、図表1のとおりである。
この表から、帝国議会開院当初から質問提出が盛んであったこと、大正時代(第29回−第51回)がその頂点だったこと、アジア太平洋戦争期(第78回−第87回)にほとんど質問が提出されていないことが分かる。 また、緊急質問について、第26回議会中1910(明治43)年2月5日の各派協議会決定で緊急質問制度が認められてから、初めての緊急質問(79) が行われるまで約5年の空白があること、その後も散発的にしかなされず、その頂点が政党内閣期であったことも分かる。 一方、この表は、貴族院の質問件数が衆議院に比べて著しく少ないことも示している。これは、平民成年男子による選挙で構成された衆議院の革新性と、皇族、華族、勅選、多額納税者等で構成された貴族院の保守性という、それぞれの性格の違いに由来すると考えられる。 二、質問発議者の考察 帝国議会に在籍した議員は、貴族院1950名、衆議院3823名であった(80) 。そのうち、質問の発議者(81) となった議員は、貴族院72名(全貴族院議員の3.7%)、衆議院702名(全衆議院議員の18.3%)であった。 衆議院の質問発議者数を質問回数別に分けたのが、図表2である。質問回数1回の議員が、325名(質問発議者の46.3%)と、質問発議者の半分近くを占めている。質問回数2回の議員158名(22.5%)を合わせると、質問回数の少ない議員が質問経験議員の約3分の2を占めている。
そこで、これら質問回数1回の議員325名が当選何期目に質問したのかを調べた。すると、当選1期目に質問をしたのは177名(質問1回議員の54.5%)、当選2期目に質問をしたのは77名(質問1回議員の23.7%)であった。このことから、大半(質問1回議員の78.2%)の議員が、当選1期目若しくは2期目に質問を経験していることが分かる。 これらと、発議者が議場で説明演説できる制度であったことを踏まえると、衆議院の質問制度は、若手議員の能力を発揮する機会、あるいは能力を見る機会として、各会派から活用されていた面があったと考えられる。 一方、いわゆるベテランになっても質問を提出し続ける議員も、少数ではあったが存在した。もっとも多かったのは、田中正造議員(90回)であった。田中は、帝国議会開院前から自由民権運動に取り組み、議員になってからは足尾鉱毒事件の問題を中心に活動した。実際、多くの質問が足尾鉱毒事件を追及するものであった。また、第2位の横山勝太郎議員(50回)、第3位の花井卓三議員(37回)、第4位の清瀬一郎議員(26回)は、いずれも弁護士で、東京弁護士会長を務めた点で共通している。 貴族院では、質問発議者72名のうち、1回44名、2回22名、4回4名、5回1名、14回1名であった。発議者に14回なっている谷干城議員は、子爵、大臣経験者でありながら、足尾鉱毒事件などの社会問題にも取り組んだ人物であった。同事件では、質問を2回提出し、住民運動を支援する鉱毒調査有志会にも名前を連ねていた(82) 。 また、全貴族院議員の出身を見ると、皇族議員51名、華族議員761名、勅選議員640名、学士院議員9名、多額納税議員480名、朝鮮・台湾勅選議員9名であった。貴族院の全質問発議者を出身別に分けると、華族議員34名、勅選議員34名、学士院議員2名、多額納税議員2名となる。これらから、政府の藩屏を期待された華族議員の質問が比較的盛んであったことと、平民出身の多額納税議員の質問が不活発であったことが分かる。 三、小括 本章では、これまで明らかにされてこなかった、帝国議会における質問の運用実態の一端を明らかにした。特に、会期別の質問件数は、公式の議会資料集である『議会制度七十年史』及び『議会制度百年史』にも掲載されていないもので、資料価値も高いと考える。 また、衆議院の質問発議者には、しばしば当選1期目若しくは2期目の若手議員がなっていることも明らかにした。そのことから、質問制度には、若手議員の能力発揮あるいは試験としての側面があったと考えられる。貴族院を見ると、質問発議者に華族議員が一定程度占めていることと、平民出身の多額納税議員がほとんどいないことを明らかにした。 一方、質問制度には、社会問題に関心の高い議員や法制に通じている議員が、積極的に活用するという側面もあった。その典型例が90回の質問を発議した田中であった。だが、田中がどのように質問制度を活用したのかについては、示すことができなかった。これは今後の研究課題である。 結論 本論文は、帝国議会の質問制度における成立過程、変容過程、運用実態を明らかにすることを目的としていた。 第一章では、帝国議会の質問制度の成立過程を明らかにした。帝国憲法の制定過程では議院の権利として質問制度を位置づけることが検討されたものの、結局は議院法で議事手続として質問制度を位置づける結果となった。この成立過程から、明治政府が、諸外国の議会との比較から質問制度の必要性は認めていたものの、政府批判の手段とされないようその役割を局限しようとし、議院法に定めたものを手続のすべてと考えていたことを明らかにした。 第二章では、主に衆議院における質問制度の変容過程を明らかにした。質問制度は、帝国議会開院と同時に、議員の手によって機能を拡大する方向で変容し始めた。この変容で重要な役割を果たしたのが、民党勢力の主導で策定された衆議院規則の質問条項、議員の活動結果である先例を根拠とする説明演説と口頭答弁に対する意見演説・質疑、並びに本格的な口頭質問の導入を決めた1910(明治43)年の衆議院各派協議会決定であった。一方で、質問制度には政府の協力姿勢を前提とする致命的な欠陥があった。 第三章では、帝国議会における質問の運用実態を明らかにした。特に、会期別の質問件数は、戦後の公刊史料や先行研究では明らかにされてこなかったものである。また、衆議院において若手議員がしばしば質問発議者になっていることから、質問制度が若手議員の活動機会となっていたことも示した。その一方、質問制度には、社会問題に関心の高い議員や法制に通じている議員が、積極的に活用する側面があることも示した。 以上のことから、本論文では、帝国議会の質問制度が、民党勢力及び議員が自らの力で発展させた政府監視の手段だったことを、明らかにした。戦前におけるデモクラシーの一つの結実であったともいえる。このことは、政党内閣の崩壊とともに質問を抑制する先例が生まれたことや、アジア太平洋戦争期にほとんど質問がなかったことからも明らかである。 また、これまで明らかにされてこなかった質問制度の変容過程及び各会期の質問件数を明らかにできたことは、本論文の大きな成果である。 他方、帝国議会の質問制度には、先行研究及び資料の乏しいことから、今後の研究課題も多く残された。まず、質問制度を活用した議員の具体例を示すことができなかった。次に、貴族院の質問制度について、変容過程を明らかにすることができなかった。また、衆議院の質問制度についても、各派協議会決定のなされた理由を明らかにできなかった。この他、質問制度に対して、同時代の政府や政党、議員、法学者からの評価も示すことができなかった。そして、帝国議会の質問制度がどのようにして国会の質問制度に変容したのかということが、もっとも大きな研究課題として残っている。 最後となるが、冒頭で示した映画『らんる襤褸の旗』は、田中正造が質問制度を重視していたことを的確に表していたことになる。質問趣旨を説明演説できる点が、田中には必要だったのであろう。また、田中の「亡国に至るを知らざればこれすなわち亡国」という有名な言葉(83) も、元々は第14回議会中に提出した「亡国ニ至ルヲ知ラサルハ之レ即亡国ノ儀ニ関スル件」という質問のタイトルであった。実に、田中の憤激が痛いほどに伝わってくる。田中が亡くなったのは、1913(大正2)年であった。約100年後に生きる私たちは、はたして「亡国に至る」を知っているのだろうか。 |