帝国議会の質問制度 −成立と変容− Question System to the Cabinet in the Imperial Diet: The Process of Institutionalization 第二章 田中 信一郎 TANAKA, Shinichiro 明治大学大学院政治経済学研究科 政治学専攻博士後期課程 元参議院議員政策秘書 初出:『政治学研究論集』第23号 (明治大学大学院政治経済学研究科、2006年) Web掲載年月日:2006年5月27日 |
第二章 質問制度の変容 一、衆議院議院規則の成立と質問条項の追加 臨時帝国議会事務局の作成した議院規則諸案は、1890(明治23)年10月1日に公表された(36) 。既に第一回衆議院議員総選挙を終えて議席を持つことが決まっていた各政党は、衆議院規則に対し修正議論を始めた。 当時の新聞によると、衆議院筆頭勢力の弥生倶楽部(立憲自由党の衆議院議員団)の衆議院規則修正案(37) は、質問制度に関連して、第8章として質問の章を新設し、「内閣に対する質問の手続は議院法第四十八条乃至第五十条の手続に依るべし」「質問者は国務大臣議場に於て答弁するに当り更に其の質問に就き精細の演説を為す事を得」「質問者国務大臣の答弁に対し其の要領を得さるときは更に精細の質疑を為す事を得」「質問の答弁若くは拒絶の理由につき議員二十名以上の建議あるときは其事件を継続討論する事を得」としている。一方、第二勢力で政府寄りの大成会(政府支持を標榜して当選した衆議院議員団)も修正案をまとめたが、これには質問に関連したものは含まれていなかった(38) 。なお、第三勢力の議員集会所(立憲改進党の衆議院議員団)が修正案を作成したか否かについては、当時の新聞記事に見つけることができなかった。 これら衆議院の三大勢力(39) は、同年11月19日から衆議院規則修正についての協議を始めた(40) 。質問については11月21日、第二節速記録の部の第121条を削除する代わりに質問の部を置き、「議員より政府に対する質問に付国務大臣の答弁其要領を得ざるときは出席を求めて更に精細の質問を為すことを得」「質問に対する答弁若くは答弁を為ささる理に付動議を提出するものあり三十名以上の賛成あるときは之れを議題と為すことを得」の2条を設けると合意された(41) 。この条項は、弥生倶楽部案よりは多少後退しているものの、答弁に対する再質問及び議題化を認めており、議院法での想定手続より踏み込んだものとなっている。大成会案に質問条項がないことから、この合意が弥生倶楽部、すなわち民党勢力の主導によることは明らかである。 11月29日に開院した帝国議会は、12月1日に議院規則を審議した。貴族院は、同日のうちに臨時帝国議会事務局案を基本とした貴族院規則を制定した。このとき質問に関する条項が加えられることはなかった。他方、衆議院規則会議も同日に開催されたが、起草委員は弥生倶楽部ら三派勢力の協議作成した議院規則案を字句修正して起草委員案とし(42) 、衆議院規則として制定した。その結果、衆議院規則には、臨時帝国議会事務局案にはなかった質問条項が盛り込まれることになった。衆議院規則の質問条項は次のとおりである。 衆議院規則 第八章 質問(43) 第百四十一条 議員政府ニ対スル質問ニ付国務大臣ノ答弁其要領ヲ得サルトキハ議場ニ出席ヲ求メ更ニ精細ノ質問ヲ為スコトヲ得(44) 第百四十二条 質問ニ対スル答弁若ハ答弁ヲ為サヽル理由ニ付動議ヲ提出スルモノアリ三十人以上ノ賛成アルトキハ之ヲ議題ト為スコトヲ得 これにより、衆議院においては、政府の想定と異なる質問制度となった。つまり、主意書の提出がなくとも口頭による再質問ができ、「答弁に不満があるときは議院でそれを議題として討論できることに改められた」(45) のである。これは、個人質問から問責質問への揺り戻しと言える。 その後、1947(昭和22)年に帝国議会が廃止されるまで、衆議院規則は10次にわたる改正がなされた。そのうち質問条項については、第50回議会中の第10次改正で字句修正が行われたが、内容に変更はなかった(46) 。 二、衆議院先例に見る質問制度 議院法及び衆議院規則は、第一回帝国議会からその廃止まで、質問に関する条項をほとんど変えていないことをこれまで示した。だが、それらの明文規定だけでは、具体的な質問手続が明らかではない。そこで、明文規定及び先例を踏まえて、質問手続を明らかにする。 先例とは、議会における事案処理の際、参考とされる過去の同種事案処理例のことである。先例には、単なる参考例にすぎないものもあるが、処理の積み重ねが慣行となって、事実上の規範として機能しているものも多数ある(47) 。 帝国議会最初期の「衆議院先例集纂」には、質問手続について「質問ハ法律ニ依リ必ス文書ヲ以テシ議長之ヲ内閣総理大臣ニ転送ス而シテ之ニ対スル政府ノ答弁ハ質問事項ノ主務大臣議場ニ於テ之ヲ演説シ又ハ文書ヲ以テス其ノ文書ヲ以テシタルモノハ書記官長議長ノ命ニ依リ議場ニ於テ之ヲ朗読ス」(48) と示されている。この例は、第一回帝国議会の例だけで編集された先例集であることから規範とまでは言えないが、以後の質問手続の基本となっている。 他方、先例を見ると、帝国議会の衆議院の質問制度には、議院法及び衆議院規則と異なった点がある。また、明治期と大正・昭和期で比べても大きく異なった点がある。それを明らかにするために、明治期と大正・昭和期の質問手続をそれぞれ整理する。 〈明治期の質問手続(49) 〉 @ 議員は質問する際、30名以上の賛成議員の連署のある主意書を議長に提出する。提出後に質問事項を追加する際も主意書が必要となる。 A 議長は、提出された質問を直ちに政府へ転送する。議院に対しては、主意書の題名を議場で報告し、主意書の全文を速記録に掲載する(50) 。 B 提出議員は、議長による提出報告の当日、会議の冒頭で質問趣旨の説明演説(趣旨弁明)を行う。また、説明演説に対する質疑はできない。なお、第10回議会以降は、報告当日以外でも説明演説をできるようになり、議事進行上の都合で会議の冒頭でない例もある(51) 。 C 政府は、質問に対して答弁する場合、答弁日時を議院に通知する。 D 口頭答弁の場合は、主務大臣が議場で行う(52) 。書面答弁の場合は、書記官長が答弁書を朗読する。但し、文章の長い場合や答弁書数の多い場合は、朗読が省略されることもある。 E 提出報告の当日、提出議員の説明演説に続き、国務大臣がその場で口頭答弁をする例が、第22回議会中1906(明治39)年3月6日から始まり、答弁方法として定着した。 F 政府委員は、国務大臣の代理としてのみ、口頭で答弁できる(53) 。 G 提出議員は、口頭答弁に対し、議場で意見を述べることができる。 H 提出議員は、口頭答弁に対し、質疑をすることができる(54) 。また、口頭答弁に関連する内容であれば、提出議員以外の議員も質疑することができる。 質問制度が議院法で規定した明治政府の想定から、変容していることが分かる。特に、第一回議会から慣例として定着した提出議員による質問趣旨の説明演説(A)と、口頭答弁に対する意見演説・質疑(GH)は、先例として重要である。これら2点は、第一章の四で示した議院法規定の整理と比較すると、「提出時に質問朗読、演説、討論のいずれもしてはならない」(A)こと、及び「答弁に対してその場で再質問すること、討論を行うこと、賛否を採決することは認めない」(D)ことに反している。 そして、質問制度は大正・昭和期、さらに変容していく。その芽が、第22回議会(1905年12月28日〜1906年3月27日)からの「提出報告の当日、提出議員の趣旨弁明に続き、国務大臣がその場で口頭答弁をする例」であった。 この例を発展させる形で、衆議院各派協議会は1910(明治43)年2月5日、質問手続について次の決定を行い、変容の一大契機とした。なお、本論文ではこれ以前を明治期の質問手続、以後を大正・昭和期の質問手続としている。 質問ニ関スル規程(明治四十三年二月五日 各派協議会決定)(55) 第一条 質問主意書ノ趣旨ヲ弁明セムトスル者ハ火曜日ノ会議ニ於テスヘシ但シ緊急ノ議事アルトキハ議長ハ質問ヲ議事日程ノ後ニ掲載シ又ハ次ノ火曜日ニ延期スルコトヲ得第二条 質問提出者質問日ニ於テ其ノ趣旨ヲ弁明スルコト能ハサルトキハ其ノ旨ヲ議長ニ申出テ次ノ火曜日ニ延期スルコトヲ得第三条 質問緊急ヲ要スルトキハ提出者ハ議院ノ許可ヲ経テ何時ニテモ其ノ趣旨ヲ弁明スルコトヲ得 この決定が変容の一大契機である理由は、質問日の設定にある。つまり、この決定が、先例に過ぎなかった質問趣旨の説明演説と口頭答弁について、開催を定例化するとともに、議院規則に準じたものとした。これは、口頭質問の実質的な導入を意味していた。この決定以後の質問手続について、明治期の質問手続と追加あるいは変更となった事項を整理すると次のとおり。 〈大正・昭和期の質問手続(56) 〉 @ 主意書は日本語とする。やむを得ない場合は外国語に注釈を付すこと。 A 主意書の撤回は議院の許可を必要としない。また、秘密会の内容に触れる主意書を院議で撤回させることができる。 B 議長に対する主意書は受理しない。 C 主意書は全文を全議員に印刷配布する。 D 停会中は主意書を政府に転送しない。 E 質問趣旨の説明演説は火曜日に行う。但し、緊急を要するときは、議院の許可を得て何時でも質問できる。但し、答弁書の届いた後に説明演説はできない。 F 説明演説の時間を原則として20分以内とし、議長の認めた場合に限り30分以内とする例が、第65回議会中1934(昭和9)年3月13日より始まり、定着した(57) 。 G 説明演説の順序は、適宜議長が前後でき、また提出者の協議で決めることができる。 H 説明演説に際して、院議で国務大臣の出席を要求することができる。また、提出議員が国務大臣の出席を希望することもできる。国務大臣の出席がない場合は、説明演説を延期することができる。 I 説明演説を省略する場合は、答弁書とともに速記録に記載する。また、特別の理由があるときは、主意書若しくは参考書を速記録に記載しない。 J 以前は、書面答弁の場合、書記官長が答弁書を朗読していたが、第40回議会前後から、報告のみで、朗読を省略する例が増え、定着した。但し、院議で朗読させることもできた。 K 政府は、口頭答弁をした後に、書面答弁をすることができる。 L 政府の口頭答弁に対する再質問は、3回までとする(58) 。 M 以前は、政府委員が口頭答弁する場合、国務大臣の代理でなければならなかったが、第26回議会から、代理でなくとも口頭答弁する例が始まり、定着した。 大正・昭和期における質問手続の追加・変更から、先例の積み重ねにより、議院法とは異なる形で質問制度が確立したことが分かる。また、明治期の先例は質問制度を発展させる方向に作用したが、大正・昭和期の先例は、発展に作用したものと抑制に作用したものとに分けられる。発展に作用した先例の中では、質問日の設定、緊急質問の導入、国務大臣の出席要求が重要である。また、1936(昭和11)年3月版の「衆議院先例集纂」から、質問趣旨の説明演説のことを指す「趣旨弁明」という語が、すべて「口頭質問」に改められている点も興味深い。 他方、抑制に作用した先例には、説明演説時間の制限、再質問の制限が該当する。いずれも軍部の台頭著しい1935(昭和10)年前後に先例となっていることから、議会低位となっていた当時の対政府関係が伺われる。 そして、「質問ハ口頭ヲ以テ火曜日ニ之ヲ為シ政府ニ於テモ成ルヘク口頭ヲ以テ答弁スル様政府ト打合ヲ為スコト」「近来政府ハ書面ヲ以テ答弁スルヲ例トシ口頭質問ノ機会甚タ少キヲ以テ質問前答弁書ヲ提出セス成ルヘク口頭答弁ヲ為スヤウ政府ト交渉スルコト」とする1933(昭和8)年12月20日の各派協議会決定(59) で明らかなように、主として先例に依拠してきた質問手続には致命的な欠陥があった。すなわち、口頭質問の実施には、政府の口頭答弁が前提となる。ところが、答弁の方法及び有無は、政府に委ねられていた。そのため、質問を受ける政府が議会に非協力的であった場合、議会は口頭質問を実施できなかったのである。 三、貴族院の質問制度 貴族院規則は、第1回議会の冒頭で質問条項を含まないまま成立した後、貴族院が廃止されるまで、12回にわたる改正がなされた。質問に関する条項は、第44回議会中1921(大正10)年3月26日の第10次改正で初めて盛り込まれ、以後の改正はなかった。この第10次改正は全面改正であったが、根本的な見直しではなく、「慣例を明文化し、その不備を補い運用上の疑義を解決する」(60) ことが目的であった。 つまり、貴族院では、この規則制定前から質問提出の際に、衆議院と同様の質問趣旨の説明演説が行われており(61) 、その「慣例を明文化」したに過ぎない。だが、質問制度としての意義は大きい。なぜならば、第一章の四で見たとおり「提出時に質問朗読、演説、討論のいずれもしてはならない」というのが、議院法制定者の立法趣旨だったからである。 貴族院第十次改正規則 第七節 質問(62) 第百二十八条 議員質問主意書ヲ提出シタルトキハ議院ニ於テ質問ノ趣旨ヲ説明スルコトヲ得 前項ノ説明ニ対シ他ノ議員ハ意見ヲ述フルコトヲ得ス さて、本論文では先例から貴族院の質問手続を明らかにしていくことはできなかった。「規則の不備な点あるいは運用上疑義を生じた点は、すべて慣例によって補われてきた」(63) ことから、貴族院においても衆議院と同様に先例集が整備されたと考えられるが、国立国会図書館に所蔵されている先例集は、大正末期以後に刊行された3冊しかない(64) 。 それらに記されている質問関係の先例はいずれも共通しており、「質問ノ趣旨説明ヲ許可スル時機ニ関スル例」「質問者議長ヲ経テ政府ニ答弁ヲ督促セシ例」「質問者又ハ賛成者ニ非サレハ政府ニ対シ答弁ヲ督促スルコトヲ得ス」の3例のみで、貴族院の質問手続の全容を明らかにするには不十分である。衆議院よりも先に実施された緊急質問(65) についても、それら3冊の先例集には記述がない。貴族院先例については、資料や先行研究が不十分であり、今後の研究課題である。 四、議院法改正論議と質問制度 実施された議院法改正の中で、質問条項に関する改正がなかったことは、すでに述べたとおりである。しかし、質問条項の改正が議論にならなかったわけではない。議院の権限を拡大する視点から、衆議院においてしばしば議院法改正案が議員提出された(66) 。 それらの中で、初期帝国議会に高田早苗議員が数度にわたって提出した議院法改正案(第1回議会(67) 、第8回議会(68) 、第10回議会(69) )は、質問提出の賛成議員要件を30人から20人に下げることを求めていた。この理由について、法案発議の賛成議員要件20人と比べ、質問提出要件が30人であることは不合理と、高田は説明している(70) 。また、第8回議会の高田案を修正した衆議院可決案は、賛成議員要件の引き下げに加え、「国務大臣ノ答弁其ノ要領ヲ得サルトキハ議員ハ二十名以上ノ賛成者ト共ニ其ノ出席ヲ要求スルコトヲ得」「此ノ場合ニ於テ国務大臣ハ時日ヲ期シ議院ニ出席シテ答弁ヲ為スヘシ」(71) と、国務大臣の口頭答弁を義務づけていた。 質問制度の強化に焦点を当てた議院法改正案も提出された。菅野善右衛門議員が第16回議会に提出したもの(72) で、賛成議員要件の引き下げは伴わないものの、十分な答弁がなされないとき、国務大臣に口頭答弁を義務づける内容であった。この理由について、要領を得ない答弁や答弁拒否の横行を改めるためと、菅野は趣旨説明している。この改正案審議から、政府答弁に対して議員たちが強い不満を持っていたことが分かる。 その後、質問制度に関する議院法改正案は、第64回議会の久原房之助案(73) まで提出されなかった。これは、議院法の根幹に関わる改正案がほとんど提出されなかった期間とも符合する(74) 。 1932(昭和7)年5月15日の五・一五事件後、「帝国議会の審議システムを見直し、それによって帝国議会をより権威あるものに改めていこうという動き」(75) が政党の中から生まれ、各派代表による議会振粛要綱及び久原提出の議院法改正案に結実した。それらの中に、上奏案や建議案の提出とともに質問提出時の賛成議員要件を、法案提出に合わせて20名に引き下げることも含まれていた(76) 。久原案の不成立後、ほぼ同内容の議院法改正案が2度提出された(77) が、成立することはなく、やがて議会強化の機運も失われていった。 五、小括 本章では、規則と先例から、主に衆議院における質問制度の変容過程を明らかにした。すなわち、議院法によって限定的に定められた質問制度は、帝国議会が始まると同時に、議員の手によって機能を拡大する方向で変容し始めた。その第一歩が、民党勢力の主導で策定された衆議院規則の質問条項であった。また、質問制度が拡大する上で、決定的な役割を果たしたのが先例であった。質問趣旨の説明演説と口頭答弁に対する意見演説・質疑は、先例を根拠としていた。 更なる変容の契機が、1910(明治43)年2月5日の衆議院各派協議会決定であった。これにより、質問日と緊急質問が決められ、本格的な口頭質問の導入となった。だが、時局が厳しくなると、説明演説時間の制限や再質問の制限のように、質問制度を抑制する先例も生まれた。また、先例に基づき発展してきた質問制度には、政府の協力姿勢を前提とする致命的な欠陥もあった。 衆議院では、こうした質問制度の欠陥が早くから認識され、賛成議員要件の緩和や政府答弁の義務づけを定める議院法改正案も提出されたが、いずれも成立には至らなかった。 |