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原発事故被害の実像

南相馬ダイアログセミナー

1日目


鷹取敦

掲載月日:2014年5月14日
 独立系メディア E−wave
無断転載禁


 2014年5月10日(土)、11日(日)に福島県南相馬市にある南相馬ゆめはっと多目的ホールで開催された「第8回福島原発委事故による長期影響地域の生活回復のためのダイアログセミナー」に参加しました。副題は「南相馬の現状と挑戦−被災地でともに歩む」です。

 南相馬市は、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故により、原発からの距離(20km圏、30km圏)で南北に分断、放射性物質による汚染のレベルの高い山側と津波被害が甚大で放射性物質汚染レベルが低い海側で東西に分断されており、さらに南北の分断が南相馬市合併前の鹿島区、原町区、小高区にほぼ相当し、原発からの距離と汚染のレベルによって、避難の有無や賠償における対応が異なるなり、また30km圏外でも山側にホットスポットがあるなど、きわめて複雑に地域・社会・人間関係が分断される難しい問題をかかえた自治体です。

 今回のダイアログセミナーでは、これらの分断によって異なる状況におかれた被災者に加え、他県への避難者や避難者の支援活動をされている方も参加され、それぞれの境遇、悩み、取り組みなどをさまざまな立場の方が発表されました。

 2日間にわたり朝から夕方まで長時間の発表と議論が行われました。下記に発表者毎に概要を報告します。(当日の早朝、東京を出て南相馬市入りしたため、最初の発表は途中からの参加です。)

■セッション1:南相馬の現状

●南相馬で起こったこと、そして今

(1)南相馬市の現況と復興に向けた課題
(南相馬市復興企画部企画課 高橋一善氏)

 原発事故による放射能汚染が発生した後、外部からガソリンを含む生活物資が届かなくなり新潟県等の受入体制やバス等の支援を受け、全市避難を行った。

 市内は原発からの距離や汚染により5つに区分され、2013年8月、区分の見直しが行われた。

 津波により市の面積の1割が被災。死者は津波の636人の含めて1088人。家屋の被害は全世帯の約2割。津波被害は福島県内最大。

 市役所は避難せず現地に残したため、インフラが整い汚染レベルも帰還が可能な区域については住民が戻り、2014年3月時点で66%の住民が戻った。ただし、65歳以上の住民はほぼ戻ったが、30〜39歳と0〜9歳、つまり子供のいる若い世帯は放射線リスクを心配して戻る割合が特に少ない。その結果、急速な高齢化が進んでいる。原発に近い地域ほど児童・生徒が戻らない。

 医療体制は病院数、ベッド数、診療所、歯科等、震災発生直後と比較すれば現在はやや回復したものの、震災前と比較してそれぞれ減少している(医師15%減、看護師19%減)。また避難生活の長期化に伴い要支援者、要介護者が増加(2761人→3575人)している。

 除染は放射線量率の高さに合わせて東西方向に4区域。現在一番西の区域が完了し、平成28年3月に全区域完了の計画。除染の効果は60%低減が目標で実際は41%、約半減。汚染レベルが高いところは低減率が大きく、汚染レベルが低いところは低減率が小さい傾向。双葉町等に中間貯蔵施設が出来るまでは、市内の仮置き場を設置するが同意が難しい。当初は大規模の仮置き場数カ所を設置する予定だったが、市民の意見で分散設置に。高い方の2区域は仮置き場が決まり除染が進んでいる。

 事業所は原町(商工会)で80%、鹿島で93%、小高で52%、全体で77%再開。一方、有効求人倍率は3.5倍と非常に高いが、需要と供給のミスマッチで必要な人材は集まらず、希望する職がない。

 国道6号線は今年度、常磐道路は仙台方面平成26年、東京方面平成27年開通予定。常磐線は仙台方面平成29年開通予定だが、東京方面は目処が立っていない。

 沿岸部は高台、内陸移転、防潮堤かさ上げ、防災林、緑の防波堤、太陽光、風力発電など新たな土地利用を計画。

(2)南相馬除染研究所の取り組み
(南相馬除染研究所 箱崎亮三氏)

 「心配だけど、ここに住んでいるから、除染するしかない」が3.11後の課題。放射線の影響は分からない。ここには住めない?何が何でもここに住むと葛藤。本当に除染が可能?

 マズローの欲求段階。原子力災害で第2段階「安全の欲求」が揺らぐ。第3段階「親和の欲求」、第4段階「承認の欲求」、第5段階「自己実現の欲求」に到達できない。「安全」のために除染、測定、医療環境が必要。

 市民の力で除染することに。除染のモデルはないので、南相馬から発信を。法人を設立していろんな専門家が集まり、2011年8月に保育園の除染。当時の代表理事高橋享平氏(故人)は医者で、「除染は環境の病を治療すること」としてカルテ作りから。500ポイント測定して除染前後で比較。

 現地調査、測定計画、マーキング、測定、除染計画、安全管理、除染後の測定をフィードバックして繰り返す。7回除染し0.4〜0.6μSv/hを0.2μSv/hまで下げ、報告書を書いた。

 除染方法の研究、土地の汚染の測定、食べ物の測定(自分の畑で取れたもの)してアドバイス、市内の線量マップの作成などを行っている。この時「安全」か「危険」か評価はしないで事実としてのデータを示すようにしている。

 原子力災害からの復興が大切で、除染は大事だが除染だけで復興ができるのか。震災前のベース(元々あるいい点と課題)が、原発事故で大きく下がってしまった。新しいビジョンが必要になるのではないか。何年かかっても克服し新しい豊かさを目指す。エネルギーを考える暮らしぶり、自然エネ、コミュニティの再編。植物工場を安く構築。上で太陽光発電、下で畑。エネルギーを原発に頼るこということはどういうことか考える。

●放射線状況とその問題

(3)特定避難勧奨地点で生きる
(馬場地区特定避難勧奨地点住民の会 住民2名)

※「特定避難勧奨地点」いわゆるホットスポット。住居単位で指定し妊婦や子供のいる世帯は避難を促す。

 距離では線引きできないので、線量で対応して欲しい。子供がいじめに会うかも知れない。

 発表者2名は山沿いの近所に居住していた、両方とも子供がいて、双方の50mくらい。荒氏の自宅は特定避難勧奨地点だが小沢氏はそうでない。特定避難勧奨地点は地域全体ではなくて世帯毎の自主避難となるので問題が大きい。

 国の基準3.2μSv/h(地上1m)ではなく、南相馬市独自基準2μSv/h(地上50cm)としたのは評価できるが、地域で指定ではないため不公平感が大きい。地域単位での指定を求めているが実施されていない。

 この地域は居住している地域の中では最も高い線量だったが、線量マップの発表が遅かったので住民は気がつかなかった。注意喚起を行っていない。いい加減な測定(測定結果の取り違い、場所のいつわり、恣意的な低減)をされて指定されなかった家は、自主避難した。

(4)放射線地域に住まいして
(馬場地区 住民)

 震災後1ヶ月県外避難し4月末に戻る。戻ったときの線量は20μSv/h。何を信じて良いか分からず線量計(Radi)を購入し、1日2回の定点測定を続けてきた。田は高く、自宅のまわりは低かった。除染したところは大幅に低下した。田は荒れ放題となり、農家を続けられるとは思っていない。現在でも3μSv/h。

 県外の人と結婚するつもりだが、相手のご両親の反応が心配。知人で何人か破談になった人、地域から離れた人達がいる。子供が生まれて、将来、なにかあった時には、被ばくと関連づけてしまうかもしれない。子供が差別されてしまうかもしれないと心配。祖母が土いじりできなくてストレスがたまっている。安全な場所で土いじりをさせてあげたい。県外で家を探している。

(5)帰還に向けた小高区での取り組み
(小高区 和田智行氏)

 小高は避難指示解除準備区域。川俣町、福島市、東京都、埼玉県を経て現在は会津若松で避難生活をしている。6歳と4歳の子供がいる。家族で小高地区に戻ると意見はまとまっている。小高地区は0.2〜0.5μSv/hで会津若松と大差なく「自分たちの基準」では問題ない。

 2016年4月が解除目標となっていて、現在は自由に立ち入りでき、事業も再開出来て、生活のインフラを整える段階。

 市の調査によると住民の帰還寄稿は30代は戻らない人が多く、50代はもどる人が多い。もどる人は元の持ち家、同じ場所に建て替えなどとなるが、2016年までには事故から5年間空き家となってしまう。泥棒が壊した窓から野生動物、ネズミが入り家は荒れている。修理、清掃、消毒、家具の買い換え等が必要になる。

 自分は早めに大工さんに頼んだので、今月くらいに修理完了予定だが、修理に2年くらいかかっている。需要が沢山あるので大工さんで30軒待ち、ハウスメーカーで2年待ち。とりあえずプレハブで建て替えた人も電気工事に2年待ちと言われている。

 帰還を決めている市民の4割以上が60歳代以上で、32%が現在無職で職を探していない(リタイヤ世代)。自宅の修繕も間に合わないまま、避難解除されて賠償や家賃補助が打ち切られて暮らしていけるのか。小高地区では放射線も不安要素の1つだが、自分はこういう問題の方が大きいと思う。

 解除までの2年間で安心してふつうの暮らしを再開できる仕組み作りが必要。様々な課題をビジネス化して持続可能な仕組みを。避難地区の100の課題から100の仕事を作り出すため、小高ワーカーズベースを開設し、お茶を飲むところ、インターネット環境、会議をするところ、事業再開・創業の支援をする。

 いま取り組んでいるのがお蚕様・織り姫プロジェクト。以前に養蚕、手織りの織物が盛んだったのをもう1度。まゆからは放射性物質は検出されなかった。食べ物が敬遠されるなら食べないもので。

 なぜ戻るのか。避難先の会津若松の教育環境はすばらしい。一方でふるさとを子供達にきちんと渡したいという気持ち。子供をまきこむのかという意見はあるが、子供を根無し草にしたくない。

(6)小高で生きる
(小高区 住民)

 原町市出身で小高に嫁いで20年。小高区で事業者をやっていた。3人息子がいて、長男は関東に就職、次男は中学卒業したところ、3男は小5。

 原発から15kmのところに住んでいた。一族12名で福島市避難していたが、4月に会社を整理するため(従業員の生活のために)に戻ったが、自分たちの生活の目処は立たない。子供の学校の問題があり(原町の仮設で再開)避難先の福島市から原町に移動した。

 関東に就職した長男はどうやって甲状腺検査を受けたらいいか困っている。会社が理解してくれない。

 原町での学校はプレハブの仮設校舎だが環境は劣悪。風が強いと砂だらけになる。

 自分は学習支援授業をしている。大学生が手伝ってくれているが関西からも来る。大人ができる役割を果たしていきたい。

 一方、小高にある自宅の建物の修理はこれから2年では無理そう。生活再建は2年では難しい。また、学校の生徒数が今後どうなっていくか。二足のわらじをはいてでも生活を支えるために、去年ヘルパーの資格を取った。

●避難の現状

(7)京都での避難生活
(南相馬からの避難者)

 事故は娘の中学校の卒業式の時だった。事故後、避難先を10箇所転々とし、ラジオで京都府が受け入れてくれると聞き、京都の府営住宅へ。避難したのは娘を被ばくから護るため。最初は不安で外へ出られなかったが、娘の進学がきっかけでまわりの方によくしていただき、市役所の臨時職員に。今は福祉施設で契約社員をしている。

 宇治市には福島からの避難者が沢山いる。京都のNPOあいんしゅたいんが、放射線について何日もかけて教えてくれた。内部被ばくを測りたいと言ったら、ホールボディーカウンター(WBC)検査を受けさせてくれて2回受けた。

 低線量被ばくで大丈夫かと今でも心配。今でも作付け禁止(※今年解除された)、時間をかけて測ると野菜からも出ると聞く。南相馬に戻っておそれながら生活するのは不安で、今でも避難生活を続けている。

 南相馬市の現状が分からない。除染が適切か疑問。測定方法に問題があると聞く。学校に近いところに除染の仮置き場があって除染の意味があるのだろうか。WBC検査でND(不検出)と言われるとどれだけあるか分からないので不安。甲状腺検査で嚢胞の経過観察と言われ大丈夫だろうか。南相馬に戻っても収入がない、仕事は得られない。

 科学者の間でもいろいろな意見があり、何が正しいか分からない。避難の時、情報にどれだけ振り回されてきたか。原発の安全神話を信じていたが、事故後、SPEEDIを見て驚いた。汚染された飯舘に向かって逃げていたことが分かった。

 賠償金を当てにせず、地域で自立した暮らしができるような支援が必要。来年の3月に避難先での住宅支援が打ち切りになるが、経緯を考えると戻る決意ができない。京都に暮らしている避難者にも目を向けて欲しい。

(8)避難者の支援
(NPOあいんしゅたいん 一瀬昌嗣氏)

 京都への避難者のホールボディーカウンター(WBC)検査を支援した。詳細はウェブ(http://jein.jp/fon/activity-report/1028-wfp-report3.html)に載っている。

 日本物理学会の元会長の板東昌子先生と免疫学の宇野賀津子先生が福島で講演を活発に行っていた。親子理科実験教室などをやっている。事故後は低線量被ばくの講演会を何度もやった。

 京都への避難者から内部被ばくの検査(WBC)を受けたいと希望があった。当時のWBCは椅子型で遮蔽が無しで使っており、誤差と検出された数値が一緒に記載されていて説明無しだったので、NDなのに検出されたと思い込む人がいた。

 そこで京大に要望し熊取の原子力実験所に受け入れてもらい、ていねいにレクチャーした後、WBCのパイロット検査として行った(11名)。その後、関西電力の美浜発電所で18名、1年後には福島からWBCを派遣してもらい2013年12月に300名の検査を行った。測定の意味が分かるよう最初にていねいに説明した。同時によってみてカフェという相談会をやって、放射線だけでなく生活全般の相談に対応した。SSH(スーパーサイエンスハイスクール)・高校生の協力、避難者による紙芝居等もやった。

 このWBC検査の限界は、機器がレンタルでキャリブレーション、解析の方法が荒かったことと更衣(衣服についたわずかな放射性物質も検出されないように検査時に着替える)を行わなかったこと。(元々身体に含まれる放射性物質)カリウム40をみるとエネルギーがずれていたり、ひとりだけNDでない人がいたので解析したら、どうやらビスマス214(降雨時の自然起源の放射性物質)の影響だと分かった。

 支援者と避難者で、低線量被ばくのリスクへの考えの違いが大きい。避難者は測定への不信感が強い。支援してみて分かったのは、放射線への知識が欲しいというニーズはあまりない、ということ。どうしていいか分からなかった。まず信頼関係を作ることが、情報を伝えるのに重要だった。

(9)南相馬に育って
(南相馬出身 東京大学 高山あかり氏)

 原町高校出身、福島大学、東北大学、現在 東京大学。震災の時には外の地域に出ていた子供世代。父親の実家が20km圏線上ぎりぎりで住めないところにある。震災の時は仙台の東北大にいた。実家に戻れないことが分かって、仙台、福島の知人宅、千葉の妹宅と移動。親は体育館、相馬の知人、千葉の妹宅で合流した。

 報道のあり方に疑問があった。聞き慣れない単語が飛び交ったが、ふつうの人は聞き慣れない単語があるとシャットアウトして聞いてくれない。いろいろな人が思っていることをそれぞれ言っていて、総合的な説明をしてくれる人がいない。科学的な根拠がない説が広まってしまった。

 悪い情報は鵜呑みにして、大丈夫という情報を疑いたくなる人は多い。難しい話を分かりやすく伝えるのが大切。

 20〜30代は南相馬を離れている人が多い。今は南相馬に行くだけで大変だし、旧友が集まろうとしても戻れる実家がなく帰れない人が多い。みんなで話をする機会がつくれればと思う。

 原町高校吹奏楽部のOB会を作った。自分の時が最盛期で、今は生徒が減ってOBも参加している状態。6月1日に原町高で定期演奏会をやるので是非来てください。

■セッション2:ノルウェーのコミュニティーでの経験

(10)放射線影響を受けた地域での経験
(サーミ人・トナカイ農家 ナジラ・ジョマ氏)

※サーミ:スカンジナビア半島北部ラップランド及びロシア北部コラ半島に居住する先住民族http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%9F%E4%BA%BA

 1984年生まれと1991年うまれの子供がいる。

 南サーミはノルウェー中部に居住。2000〜300人。多くはトナカイの牧畜で生計。トナカイ牧畜文化は、ノルウェーからベーリング海峡まで、ユーラシア大陸を貫いている。170万頭の家畜とナカイがユーラシア大陸に。全世界では、5万人のトナカイ牧畜農家がいる。

 大気中核実験でソ連の北側が汚染された。1960年代から北サーミは測定され、一般の人より多く内部被ばくしていることが分かっていた。核実験場に近いほど高い。冬のトナカイのエサは主にコケ。コケは3〜5cmになるのに空気中から養分を摂取し15〜20年かかる。コケに取り込まれた放射性物質がトナカイに移行、人間が食べるために内部被ばくが高くなる。

 1986年のチェルノブイリ事故の後に、日常的に「ベクレル」「チェルノブイリ」という言葉が使われるようになった。1986年春にトナカイで3万Bq/kg、コケで18万Bq/kgが検出された。味も匂いもしないので、機械で測定しないと分からない。

 深刻なことが起きた。放射性降下物の影響。政府は放射能でサーミに健康影響はないと言った。5年後には元に戻ると言われた。当時、全て元に戻るのには20〜30年かかると言われた。がんの確率は上がるが、1日1本のタバコ程度だと言われた。

 当時、自分たちに未来があるのかと疑問に思い、トナカイの牧畜をやめるべきかとも思ったが、何をして生計を立てればいいのか、なにを食べればいいのか分からなかった。どれくらい健康影響があるのか、時間が経てば深刻な影響があるのではないか。政府は本当のこことを発表しているのか疑った。

 政府はチェルノブイリ事故後に食事に関する相談を受け付けた。トナカイの肉は600Bq/kg以下とすべき、魚やベリーは濃度が高いので、野生のものを食べないように言われた。

 いろいろな測定が行われ、600Bq/kg以上の肉は全て処分されたが、そのための施設のコストには補償がなかった。トナカイの補償について政府と交渉した。スウェーデンとノルウェーでは基準や対策が異なっていた。

 チェルノブイリ事故の前から冷凍されていたトナカイの肉からも検出され、チェルノブイリ事故前から汚染されたトナカイを食べていたことが分かった。政府は1970年代から入っていたとやっと認めた。

 政府はがんの発生は増えていないと言っているが、自分のまわりでは多くの人が癌と闘っているように見える。

 トナカイの汚染は個体によって違うが、専門家でも予測はできないが、全てを調査はできない。汚染度によって調理方法を変えなければならないが、その手間に対する補償はない。

 現在、(最大??)3000Bq/kgを下回るかどうかくらい。いくつかの疑問の答えは見えてきた。トナカイの牧畜は今でもやめていない。

(11)破局から成功へ
(チーズ農家 セヴェン・ハープネス氏)

 ノルウェー中部でヤギ乳チーズを作っている。1981年に農家相続、1984年長女誕生。農場と畑の管理者としての責任を感じた。朝晩125頭の山羊を搾乳してチーズを作っていた。農場は北の山の奥の方にある。生産性低く、山での生活は大変。利益はあまり出ない。チェルノブイリ事故前は安全で美しい場所と思っていた。

 1986年にチェルノブイリ事故が起こり、何千キロも離れているのに運悪く風向きのせいで汚染された。住むのに安全な場所を失うことに、政府は何も備えも覚悟もなかった。放射能汚染事故の影響から、ノルウェーは原発を作らないという方針がある。

 新しいリスクに対する知識は無く、短期間に多くのことを学ぶ必要があった。自分は半減期やがんのリスクについて知っていたが、父親として本当に心配した。山の魚にも高い放射能があった。母乳も測り、将来を心配した。

 政府は毛皮は利益をもたらすし、食料ではないので放射能の影響を受けないからと、毛皮の事業に転換を勧め、研修を補償した。しかし毛皮ではあまり利益が出ないと思い、またエサの購入代が必要になる。まわりの人は政府に従い事業を変えたが自分は変えなかった。

 もう1つの選択肢は農場をやめて引っ越すことだったが母は住み続けたいと言い、規制もあって現実的な選択肢ではなかった。

 ヤギの茶色いチーズは長時間加熱すると乳糖がキャラメル化されて茶色になる。チーズの甘みが強い。ノルウェーの食卓には欠かせないチーズ。煮詰まる過程で放射性物質が濃縮されるため、生産中止となった。

 大変な苦労をすることは分かっていたが農業での生活を続けることに決めた。汚染されているヤギ乳のチーズは粗末に扱われ動物のエサにされた。頑張って美味しいものを作ろうという気になれなかった。

 1989年、家族で話し合ってチーズ工場を建てた。小さいながらも母と祖母とヤギチーズを作った。放射能対策に大変苦労した。この事業に賛成した人はいなかったし裏切り者とも言われたが、若く自信過剰だったかもしれないが自分を信じ、世界一のチーズをつくる決心をした。1991年と1993年に娘が生まれた。起業は大変なのでお勧めはしないが、つまらない日は無い。仕事というよりライフスタイル。2014年5月には日本にまで来ることが出来た。

 放射能の高い食材は販売できない。畑を全部掘り返した。エサは別に購入しなければならなかった。

 チーズの製造技術はヨーロッパで研修を受けた。自分でも試行錯誤した。フランス人のチーズメーカーの仲間豚を一頭飼えば、チーズを捨てなければならない場合でもおいしいベーコンを作ることが出来ると言われた。食品を作ることよりも大切なのは、市場で消費者と会うこと。直接会うことで売れるだけでなく、お互いに学ぶことがあるのが大切。

 ヤギ乳チーズを買ってくれるようになり、レストランを作り、美しい自然もあるので、完璧な観光地になる。ぜひいらしてください。

(12)チェルノブイリ後におけるノルウェー山岳地域での生活と畜産
(ヤギ農家母娘 カリ・ハガセス氏、マリット・エデガーデン氏)

 1986年、チェルノブイリ原発事故が起きた。深刻なことがだが自分には関係ないと思っていた。バルドレ地方で牧場をやっている。ノルウェーで最も放射能汚染が広がった地域。

 毎秋、子羊、を食肉にしてソーセージを作っている。自家消費向けだが少しは販売もしている。ヤギ乳を取るために毎年子供を馬競っている。昔は一般的にヤギ肉を食べていた。海抜1300mの放牧場に羊を連れて行って3ヶ月過ごす。放牧場で1年の3分の2のエサを食べる。

 1986年にチェルノブイリ事故による汚染が夏から秋に明らかになった。植物や動物で高い汚染が見つかった。15000Bq/kgになっていた。14週間、清浄なエサを食べさせて体内の汚染を減らした。ヤギ肉にも高い放射能が含まれていた。ヤギは羊より3〜5倍のセシウム。600Bq/kgがヤギ肉の基準。

 プルシアンブルー入りの岩塩を与えた。生きた状態のまま測定できるようにした。ベクレル(Cs-137?)が半分になるまで30年かかる。非常に長い。放牧シーズンの前に薬物(プルシアンブルー?)を与えて高くならないようにした。

 1989年ににはプルシアンブルー入りのエサを与えた(今でも続いている)。酪農をやめる人もいたが自分たちはやめようと思わなかった。政府が誰も経済的に困らないようにする、と約束したのがとても印象的だった。

 余分に必要となった労働に対する補償を請求するか話し合いがあった。

■セッション3:南相馬の状況に関する共通のビジョンを構築するためのダイアログ(ステップ1)−何が問題か

 セッション3では、発表者を中心としたパネリストが円形に並べた席につき、それぞれが考える問題点について2回ずつ意見を述べました。参加者が多く長いので、印象的だった問題の指摘を以下に関連する内容毎に並び替えて紹介します。

分断:

・南相馬市は複雑に分断されている。道路、区域、放射線量、人の心、補償の有無、避難するかとどまるか。共通のビジョンを構築するのは難しい。
・小高のように全く人が住んでいない地域と、なんとかして住んでいる地域では共通ビジョンを持ちにくい。
・複雑にからみあった影響は時間が経つにつれてひもとくのが難しい。
・地域性、個人の事情も違う中、共通のビジョンを持つのは難しいが、同じ方向を向くことはできるのでは。
・分断されているので共通のビジョンを持ちにくい。「南相馬をよくしたい」を共有できれば。
・いわき市は久之浜末続での対策はほとんどしない。冷たい。騒いで他の地域に影響があったら、どうするのだと言わんばかり。末続は行政に見捨てられ、住民は最初は私たちに不満をぶつけた。先生に聞きたければ先生につなぐ、測りたければ測れるようにする、聞きたい時に話しかけられる存在にはなった。

放射線に関する知識・情報:

・情報が玉石混交で正しい情報の入手が難しい。自分と同じ考えを探してしまい、間違った考えに確信を持ってしまう。
・無知すぎた。子供達の教育に力を入れては?
・子供に接していて、正しい正しくない、ではなくて自信を取り戻して欲しいと思う。
・納得して行動しないと後悔する。納得しないと自分を苦しめ健康被害起こりがち。
・何知れば納得するか、それぞれ違い、マスを対象とする報道は難しい。

健康:

・多くの人が感情を出しにくい。ネガティブは感情を引き起こしやすい。感情を押さえすぎても健康被害につながりやすい。クローズドな場所で気持ちを出せる場所があれば。
・北海道がんセンターでWBCを受けた。3ヶ月で半分になった。病気や身体に不具合がいろいろ出ていたが、原町に帰って身体を動かしたらよくなった。
・健康でいることが難しい状況。今まで意識しなかったことをしないと。医療側で対応できる人数には限界がある。
・健康でいることに主体性を持たなければならない変な状況。

放射線以外の問題:

・放射線の影響だけではなく、放射能災害の影響としてみれば、被害の全体像が見えてくる。
・放射線も放射線以外もリスクが増えたことは間違いない。その中で比較的リスクの小さいものを選ぶにはどうしたらいいか。
・帰る帰らないは放射能だけの問題ではないと私も思う。放射能以外の問題もきめ細やかに対応していかないと。

行政と民間:

・行政の動きが遅かったので住民自らが民間として除染をはじめた。
・問題が行政に上がってから解決するまでの動きが遅い。行政だけでだめなら民間に任せてはどうか。

人間関係:

・放射線は安全と南相馬が言い始める風潮を感じる。こわいと言えない状況はおかしい。
・人間関係を壊すのがこわくて、このような場に来られない人がいる。
・小さなお子さんを抱えた人は、こういうところに出てこられない。
・放射線が原因のようで、実は放射線の問題ではなかったと自分で気づくことがある(たとえば嫁姑の人間関係だったとか)。問題の所在が分かれば対策が立てられる場合もある。
・気軽に聞いて答えてくれる人間関係、隣にいて話を聞いてくれる人がいることが解決につながることも。
・不安を持っている同士だと不安が感染することがある。類型化された不安が蓄積されている気がする。
・相談出来る人、話が出来る人を再構築するのは大変だろう。

行政・専門家・検査等への不信:

・専門家、政府への不信が共通している。簡単に「安全です」「大丈夫です」と結論を押しつけられるのが問題。何を不安に思っているか知ること。お互いの意見を聞くことで信頼関係を築くこと。
・人為的におきた問題なのでいろんなリスクの中で生きていく、という考えを持つことが難しい。
・行政の信頼が地に落ちている。0か1かで答えにくい話ばかり。「説明」ではダメで「対話」でないと。
・クレーマーと思われがちだが除染対策は評価している。丸め込まれないよう徹底的に戦う。
・避難するかとどまるか自己選択させられている。日々変わる考えを吐露できない。2012年12月にチェルノブイリに視察に行ったことをきっかけに南相馬に戻ったが、ぬぐえないものはぬぐえない。
・説明ではなくて対話(ダイアログ)に賛成。

検査への不信:

・県立医大の検査は受けさせたくないが、学校での甲状腺検診が始まったのでやめさせるのが難しい。
・当初はWBC予約が埋まっていたのが、100人にひとりくらい子供が産めないのではと心配する女の子がいる状況が変わらないのに、WBCほとんど受けに来ない。
・WBCの結果をどう伝えるか。自分の選択に活かせるようにしたい。
・WBCで「NDです」と言い続けることに何の意味があるのだろうと思うことがある。丸め込まれないようにと思う気持ちは分かる。
・医療の仕事と放射線リスクの話は相容れない。
・WBCの受診率、県民健康調査の受診率が上がらないことが疑問。不信なのか受ける必要がないと思っているのか。無関心になることに懸念。

データの評価:

・データ、情報、事実を共有して考える。
・情報は出す側が(安全だ危険だと)評価するのではなくて、受ける側が評価する。
・いわき市の末続は避難区域解除された時、線量データが無かった。不安なら測りましょうということで個人線量や内部被ばくを測った。「測っては話す」を小規模に2年間続けて、とりあえず話ができるようになった。「安全だ」と言いたいわけではない。
・説明する側と受け取る側で感じ方が違う。

事故の不安:

・最近心配なのが、道半ばの廃炉作業。事故が起こったらどうしたらいいか、絶対起こらないとは言えない。
・廃炉時の避難のマニュアルが必要。
・3.11と同じ地震が今おきたらと買い物中も運転中もいつも考えている。原発大丈夫か完全に廃炉になるまで心配。

尊厳・プライド:

・ノルウェーに視察に行った時の印象。自分の地域だけが汚染され自信を無くしていると思ってがそれはなかった。WBCは日本人より今でも高いくらいなのに。
・ノルウェーの人の話が「私のチーズは安全です」ではなくて「私のチーズはおいしいです」で始まったのが印象的。米の全量検査も「福島のお米はおいしい」に出来るようになればと思う。マイナスをゼロにするのが今やっていること。マイナスをプラスにするのはイノベーションだからみんな一斉に出来ることではない。
・強い不安があり、心や価値観がばらばらになるとストレスフルでつらい。原発事故までのプライドに、安全神話の偽りのプライド。自分の体験をポジティブに捉え直せれば。
・ノルウェー人も健康を重視している。家族にどういう影響があるか情報収集した。一般的にノルウェー人は問題が起きたらまず行動を取る。自分のために行動する。一緒に行動する。協働する。早期にアクションを取る。

つづく(2日目へ)