平成20年8月25日から10月10日にかけて、全国8箇所において環境省主催、社団法人土壌環境センター後援で「指定調査機関」向けの講習会が開催されている。筆者は8月25日に東京・九段会館で開催された講習会に参加した。
土壌汚染対策法自体に問題があることは、以前より繰り返し指摘してきたとおりであるものの、講習会の実務的、技術的な内容自体は大変勉強になった。
ところでこの講習会は、環境省 水・大気環境局土壌環境課長の笠井俊彦氏による「演題:指定調査機関の役割と信頼性確保について」から始まった。ここで、笠井俊彦土壌環境課長は土壌汚染対策法の概要、および施行状況(実績)等について話された。
この中で笠井課長は、あくまでも個人的な意見であるが、と断りを入れながら、何度も同じ趣旨のことを繰り返し強調して話された。それは「土壌汚染は大気汚染、水質汚染と違い、そもそも容器の中に汚染があるようなもので、直接摂取するものではないから、環境基準の何万倍の濃度があったとしても騒ぎになるのが不思議。一般の方の理解不足ではないか。完全撤去は他のところに汚染を移動するだけで、汚染がどこに行ったか分からなくなり問題がある。リスクの遮断、封じ込めの方が優れている。汚染対策の費用は汚染者ではなく、その土地をきれいにして使いたい人が負担すべきだ。」という主旨の内容である。
当日、笠井課長がパワーポイントで示したデータによると、土壌汚染の調査は法律に基づいて行われるものが全体の2〜3%(環境省の調査と土壌環境センターの調査で異なる)、自治体の条例・要綱によって行われるものが9〜11%に過ぎず、全体の9割が自主調査である。これらのうち「汚染あり」とされた調査結果の内訳は、法律による調査が3%、条例・要綱が12%、残りの85%が自主調査であり、対策が行われたケースの内訳もほぼ同様の割合である。
つまり法律で見つからなかった汚染が全体の97%を占めていることになり、法律が汚染の発見にほとんど役に立っていないことが分かる。
同じく笠井課長が示したデータによると、「対策」の実施内容(法律対象以外を含む)467件のうち、「土壌汚染の除去」(浄化、掘削除去の合計)が443件を占めるが、笠井課長は、これは過剰な対策で、リスク回避のためというよりも、土地を高く売りたいからだろう、と考えているそうである。
これらのデータが意味することは、法律では汚染が十分に発見されず、法律が求めている対策だけでは土地の買い手も近隣住民も安心出来ないということ、つまり法律が不備であること、と考えるのが自然である。
また、笠井課長の考えるように「汚染対策の費用は汚染者ではなく、その土地をきれいにして使いたい人が負担すべき」なのであれば、汚染が残った土地の価格が安いのは当たり前のことであり、それを回避するために法律が求めていないにも関わらず、汚染の除去を行おうとするのは経済的にも合理的な判断である。
そもそも笠井課長は「汚染者負担の原則(polluter-pays principle)」の本来の意味を理解されているのだろうか。「汚染者負担の原則」は「道徳的」に汚染者が負担すべき、ということではない。汚染者が負担するということになれば、未然に汚染を防ぐ経済的なインセンティブ(誘導)が機能し、結果として経済的・社会的な負担を少なくし、汚染を未然に回避できるからであろう。汚染者負担とは結局は価格に反映されることになるであろうから、最終的には企業が負担するということではなく、負担の「前払い」を意味する。リサイクル費用について前払いの方が後払いよりも優れているのと同じことである。
土壌汚染問題を所管する環境省の責任者である土壌環境課長が(個人的に?)このような「汚染者負担の原則」や土壌汚染問題の実態について誤った認識を持ち、広言し、法律がこのように不備なまま放置されていれば、全国で土壌汚染に関わる問題・紛争が一向に解決しないのは当然であろう。
そもそも土壌汚染、不法投棄、不適切な処分場の実態を放置し、自治体が漫然と形式だけの「行政指導」しかしてこなかった結果として、また国が不備な法律を放置してきた結果として、実際の汚染、将来のリスク、紛争等が生じている実態に目をつぶり、他人事にような発言を「個人的な意見」と前置きしながら定員1000名を超える九段会館大ホールに集まった指定調査機関の関係者に、繰り返し強調することは許されるのだろうか。
笠井課長によると、今後の方針は、指定調査機関の「信頼性」を高めることに重点を置かれているそうである。そのために「資格制度」の導入、「指定調査機関」の更新制度の導入を検討しているそうだ。これらを導入しても、現状の問題点はなんら解決しないばかりか、環境省の外郭団体の「仕事」を増やすことにしかならないだろう。
まずは土壌汚染に関わる問題の幹をなんとかしなければ、枝葉ばかり「改正」したところで、なんら解決に近づくどころか、むしろ百害あって一利無しというべきではないだろうか。
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