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空理空論で八ッ場ダム連戦連敗の
総括をすることはできない
~八ッ場ダム反対集会に参加して~

高杉晋吾
掲載月日:2011年7月2日
 独立系メディア E-wave


 「基本高水って何?」、2011年6月28日午後三時、衆議院第二議員会館第七会議室の集まりに出席しました。集まりは四十数名ほどでした。その集まりに配布された弁護団の資料には『八ッ場ダム住民訴訟6年目の決算書』と銘打たれていました。

 私は結論的な感想を述べれば、このような集まりがダム被害に遭った人々や大地震、大津波に遭った人々の前で行われたら、その集まりは住民の怒りと不満によって空中分解したり、惨憺たる結果を招いただろうと思いました。

 この『戦いの総括』によれば八斗島毎秒2万2千㎥の虚構の追及と虚構の証明暴露こそが「八ッ場ダム裁判の決算だ」ということになるらしいのです。

 だが、八斗島二万二千㎥/秒についての争いを、すでに長い間裁判でやり続けた結果が、八ッ場ダム裁判の全敗になっているのではありませんか?いまさら同じ高水論の土俵で、同じ戦いを今後も続けるという総括を出されても敗北の積み重ねになるだけです。説得性は皆無ですね。

「難解語克服」の集会は難解語のオンパレード

 この集まりで関良基拓殖大学準教授の講演が行われました。関さんの話は「基本高水」「パラメーター」「飽和雨量」「ハイドログラフ」「貯留関数法」などという言葉をふんだんに使ってダム被害住民が聞いていてもさっぱり分からないだろうなと思われる話でした。

 講演の趣旨は、私なりにうんとかみ砕いていえば、
「国交省が八ッ場ダムを作る根拠としている昭和22年9月のカスリーン台風からの想定では、群馬県伊勢崎市の『利根川の基準点である八斗島』ではダムが無いと毎秒2万2千㎥の大洪水が襲うという想定になっている。しかしこの想定は嘘だ。実際の台風の流量はもっと少ない。実績の流量は1万7千㎥/秒である。」
「しかも、1万7千㎥と云う洪水量は戦中戦後の山林皆伐の時代に山の森林の保水量が極端に減少した時代の異常に多い洪水量である。したがって山がすっかり緑に覆われ、森林が比較にならないくらい増え、山の保水量が大きくなった現在では1万7千㎥という台風による洪水実績さえも過剰な洪水量である」
「こういう洪水量による推測数値を元に八ッ場ダムを作り、河川に洪水を溜めこもうと云うのが国交省のダム計画だが、国交省の想定は過剰であり嘘だ。八ッ場ダムは要らない」
というのです。

 「国交省の嘘は『貯留関数法』という計算法でやった。この誤りを自分は自分のやり方で証明した」と。八ッ場ダムに反対するのは当然です。しかし貯留関数法で計算した結果出した国交省の数値が誤りで、自分が計算してその誤りを糺した、という災害問題を数字で証明し、争うと云う主張を八ッ場ダム反対の論理とすることは間違っているのです。

 噴火、洪水、津波、土砂災害、等地球が起こす現象を人工の巨大施設(ダムや防波堤など)で造る政治家、財界、官界等の巨大箱物政策は、財界の利権のためのもので、住民の命や地域の安全を守るものではありません。

 その誤りの基本は「高水」という洪水予測の基本数量が「洪水を防ぐための数字」ではなく、「国交省や建設業など事業者が巨大施設を河川等に作るための利権の事業費を設定するための数字」でしかない。

 住民の安全からいえば、「治水と利権」は正しさを争う論争の対象になるべきものではありません。治水の立場からいえば利権は否定すべきものです。

 『間違っている数値を糺せば正しい数値が現れる』。

 洪水から住民を守るための治水を、河川に巨大施設・ダムを作るための詐術に満ちた数値を、「正しい数値」などに直せば、「正しいダム作りの数値」が現れるだけです。

 この話を「論理対論理」の空中戦にしてはならないから、私は具体例で話します。私は今から30余年前の1980年当時「日本のダム」という本を三省堂選書で出しました。1979年頃から取材しました。その当時、数十のダムを取材しました。まだ一般書でダムをとり上げた人はいなかった時代です。

 私はその取材で、ダムを作るために国や建設業界、御用学者らによってあらゆる詐術が行われていることに愕然としました。その詐術の中心が『高水』という数字でした。
川辺川ダム、荒瀬ダム、天竜川水系の諸ダム、首都圏の多くのダムでもダムを作るため、
日本珍百景、分からん言葉を連発する高水論争

 国交省は測定していない高水、測定しても数字の詐術で、現実にはあり得ない数字、無かった洪水を有ったと称して造った高水等で洪水予測を出したりしています。

 なぜそんな詐術をするのかと言えば、巨大施設を国民の税金で大企業に作らせるための詐術です。その「詐術の数字が正しいかどうか」を論争するうなどということは「日本珍百景」ともいうべき光景なのです。

 私は四国の高知県と徳島県の県境、吉野川源流に作った早明浦(さめうら)ダムの取材をしたことがあります。あのダムは当時としては最新のコンピュータ操作による最新鋭ダムと建設省はうたっていました。

 早明浦ダムは1973年に建設され「80年に一回の洪水でも大丈夫」という数量を条件にして許可されました。建設省が県議会などで説明していたこのダムが、建設して僅か二年後の1975年と76年に台風によって、目も当てられないすさまじい大被害を上流下流に発生させました。『80年に一回の大洪水にも大丈夫』と住民に宣伝されたお役人の『予測』『想定』が妄想であったことが証明されてしまったのです。

 早明浦ダムについては、水資源公団のパンフレットには、「洪水調節は早明浦ダムに流れ込む最大流入量は毎秒四七〇〇トンだ。ダムより下流に放流する量は最大でも毎秒二千トンにする。それによって毎秒二千七百トンをダムに溜めて洪水を押さえる」と書いてありました。それで80年に一度の洪水でも大丈夫と宣伝した。それが建設省と公団の高水論であり、巨大ダム建設計画だったんです。

 ところが二年後に実際に起こった豪雨が、この定量的な計画を完全にインチキだったことを完膚なきまでに証明してしまったんです。

現地の住民は私に語りました。
「その恐怖は数字で言っても分かりません。私の家も周辺の家も一気に押し流されるんじゃないと思いました。腹の底からえぐられるような轟音と震動です。川岸はどんどん崩れてきました。水の中を這いずって逃げました。地獄でした。皆公民館に避難しました。その後清流吉野川はミルクチョコレートのようにものすごく濁り、漁業はほろび、ダムの上の大川村は激しい崩落にさいなまれ、村は壊滅的に人口が激減したんです。」と。

 確かに彼に「貯留関数法が間違っている。」などと言っても『ふざけたことを言っているな』と相手にされないでしょう。

川辺川などダム裁判の勝利は高水論の否定から始まった

 私はこの誤りが全国のダムに共通するものだということを、その時、『日本のダム』(三省堂選書、1980年)に取材した熊本の川辺川ダム、荒瀬ダム、天竜水系の泰埠(やすおか)ダム、平岡ダム、松川ダム、佐久間ダム、秋葉ダム、船明(ふなぎら)ダム、関東利根川源流の諸ダム、足尾鉱山周辺の鉱滓ダム、などの取材を通じて理解しました。

 早明浦ダムのケースでの国交省(建設省)の「予測」が飛んでもないものであったことは、どこのダムのケースをとってみても同じように言えることです。

 でも国はどのダムでも同じように「洪水予測」とやらをやって見せて『このダムなら何百年に一度の洪水でも防ぐことができる』と太鼓判を押して許可します。

 今回、東日本大震災は、国、国交省や事業者が国民を嘘によって騙し、公共事業と称する利権術を展開してきたことが証明されました。

 東日本大震災での大津波でも、釜石湾口防波堤が『100年でも大丈夫』と豪語していたのに完成後わずかに二年で、めちゃめちゃに津波で粉砕されてしまい釜石市中心部を全滅させ、釜石市の人々約1000人が死に、行方不明も数百人出しました。

 ではこの湾口防波堤を許可した国や推進した自治体、建設業者は罰せられたのでしょうか?湾口防波堤を推進した中心人物は民主党政権の『日本復興構想会議』で中心メンバーとして役割を担って平然としています。

 国や御用学者の予測数字というものはそういうものだったではありませんか?巨大施設を海や河川に作ることで地球の動きに対抗しようという基本的な考え方に問題があるのであって、「造るための数字が正しいかの否か」という論議は根本的に間違っています。

 災害の現実の中では、その嘘によって進められてきた事業によって、自然災害は人災となり、災害が取り返しのつかないほど巨大なものに増大し、国民が命を失い、財産を喪失し、果てしなく逃げ惑い、恐怖と不安の人生を強要されること。このことを証明したのは地球が大地震、大津波という現実によって証明したのであって、難解語による空理空論が証明したのではありません。

 こういう現実から遊離した思想で展開された八ッ場ダム裁判が連戦連敗するのは当たり前ですね。加害者である巨大企業や国家は東電などの株主総会を見れば分かるように、現場では土下座までして見せて、総会では一切の責任を拒否するのが現実です。

水害「予測」の正体を考えよう

 では「予測」というものの正体は何かということを私なりに解明しましょう。

 予測という数値は、治水事業を利権として関わる企業のための数値です。ダムや防波堤を作るのは企業です。企業はどんな商品を作るにも、材料、購入、設計、製造、検査、納品、融資、すべてが定量化していなければ動けません。ダムも防波堤も同じです。ダムを作る場合でも、企業は発注者に「どんなダム計画か、そのダムはどんな規模か」と聞きます。

 ダムの規模は建設費を支払う国や自治体の税金による建設費によって決まります。その建設費を予定価格として建前上は秘密にしておき、参加する建設業界の建設能力や建設費用によって「よしじゃあ、お前が一番予定価格に近いからお前が落札する」

 これがダム建設に参加する際の入札の本質です。

 「おれの会社では、これだけの技術で、これだけの費用で、これだけの納期でこの仕事をやれるぞ」と。建設業界は次に落札する会社を談合して決めておいて役人から落札できる価格を聞いておきます。その際に賄賂を使います。そうしないと建設業界は戦国時代の乱世を再現しなければなりません。それはくたびれる話ですから、日本人特有の「和をもって貴しなす」という美徳を発揮し、談合をやって次に落札できる順番を待つ待合室が談合です。これが治水プロジェクトに関わる企業の絶対条件です。

 ダムの規模、高水の数字は、国や企業の建設費用から決められます。この数字に合わせて過去の洪水が毎秒数千万トンだった、と高水の数字を作りだし、今後ありうるだろう洪水量も『予測』して「高水」は決められます。

 だからこうして建設業界などのおねだりによって作り上げられた架空の高水の数字で、地域の命や安全を守ることができると宣伝され、電源三法などで地域自治体には高額の建設費が賄賂として支出され、ダムや巨大施設が建設されます。住民はスズメの涙の補償金で住み慣れた住まいを追い出されます。

 これが高水の正体です。図ることのできない未来の洪水や津波を『予測』『想定』したかの如くもっともらしい数字を出すたらめの詐術の数字です。

 高水論争はこの詐術の数字をめぐって『正しさ』を争おうと云うものです。この『誤りを正す』ことなどできるはずもありません。この誤りを正すとしたら「誤った詐術」「正しい詐術」という言葉が成り立ちます。こういうあり得ない論争を挑んで裁判をやっても、建設業界と国がつるんでいる巨大建設事業の謀議の一員である裁判所の判決を動かすことはできず、裁判が連戦連敗になるのは当然です。

国家治水は建前上『住民の命を守る』が治水の原則。しかし実態は「企業のいう通り」定量治水が治水の国家原則。

 地球が起こす諸事象《人間社会では災害と呼ぶ》を定量的予測することは不可能。
1) その反面、治水施設を企業が造る場合には、定量化しなければ治水施設を作ることはできません。
2) 予測できない洪水や津波に対する治水施設の建設許可をする行政は、水害の規模を予測し、治水施設の規模などを定量化して許可しています。
3) 政治家はこの定量化を含めて一切を法律的にも政治・社会的にも積極的に推進し、膨大な政治資金を獲得します。
4) この許可と業界の建設の動機は住民の命を守るという建前であるが、真の動機は企業の利益を守ることにあります。企業は自分が造った治水施設が全く治水の役に立たなくても一切その責任を負いません。
5) 行政は「想定外の天災だった」と責任を回避します。
6) こうした結果、被害住民は果てしない苦しみに突き落とされています。
7) この事態を国交省と反対運動が定量化の枠の中での争い、裁判の中で高水論の「過大である」「いや、過大ではない。もっと大きな洪水対策こそが必要なのに反対者は過小な治水対策を主張している」などと数字の緻密さ正確さなどの空中戦を机上の空論で行っているのは間違っています。
8) 何が間違いかといえばどちらも定量化治水と変わりない「定量化」仲間同士の争いになっているということが間違いなのではないでしょうか?

定量化治水論の誤り、非定量化治水の提唱

 京都大学土木工学の、今本博健名誉教授は「非定量治水」という治水方法を提唱しておられます。地球が起こす現象については、逆らえない現実として素直に受け入れること。そして安全な場所にわき目もふらずに逃げること。その中で被害を最小限に少なくすること。逆に地球が起こす現象は、肥沃な土砂を田畑にあたえ、後に豊かな田畑を育んでくれます。このように不利な側面を素直に認め、不利を減少し、有利な側面を拡大する政策が必要です。それを一言でいえば「『定量治水の否定』と、『非定量治水』への転換」です。

 私も、こうした非定量治水の知恵を先人達が霞堤や野越堤等で教訓として残してくれていること、地球に逆らって巨大構築物で押さえつけよう等というごう慢さを投げ捨てて、地球と共存し、その力を発展させてゆく現代的知恵を発展させるべき時ではないかと思います。

 普通社会では全く使われず、なじみのない言葉が、生で講演者によって語られるのです。中身のある難解か、中身がなく、ただ難しく思えるだけの空疎な難解性なのか?中身とは当面する事実と事実が生まれる社会性、歴史性、現実性等によるものです。災害を考える場合は当然、現実の被害あるいは被害を増大させる要因の把握であって、言葉の解釈や、作り上げられた推測による解釈の相違の争いではありません。

 問題は『高水って何?』という集会を主催したまさのあつこさんがこの集会の趣旨を「高水論が国や官界の主導で難解な言葉を使って国民には分からない闇の中でダム推進が行われているからその打破のためにこの集会を持った」と言っていることです。その趣旨は結構です。全く賛成ですが、高水論争をやっている限り、こんな迷路から抜けですことはできません。自縄自縛とはこのことであり、そのことをこの集会が証明しました。

分からない言葉を使う人は偉い人か?

 エリートだと自分で思っている専門家等が普通の言葉で語れば分かることをエリートの自己身分保障語としてチンプンカンプンに話すものだから、日本人の誰にもわからない。

 分からないことを話すと「偉い人だから難しいことを言っているのだ」と尊敬してしまう人が多いのでエリートたちはますます難解語の効用を感じて難しくする。

 代表例として法律用語があります。裁判官、検事、警察、弁護士にしか分からない用語が使われるので普通の人たちは法曹の世界には参加できない。そのことで法曹の世界は、エリートの特権生活圏を作りだしているようです。住民のものであるはずの反対運動の集会が、このような難解な言葉が飛び交うような場になったのでは誰でも反対運動への参加は嫌になってしまいます。

 災害の問題は自分の命を守ることです。エリートの難解語を尊敬することではないことは、今回の東日本大震災と巨大津波が証明しています。あんな巨大地震と津波を難解な用語で語った巨大治水施設推進の大学教授がいますが、彼の推進した巨大施設、ギネスブックに載ったほど巨大な湾口防波堤は、一瞬のうちに津波で破壊されてしまい釜石市は二千人におよぶ死者、行方不明者、都市部全滅と云う大被害を出しました。巨大施設で災害を防ごうという考えは地球の一瞬の動きで吹き飛びます。そんな方法では駄目だ等という反対論や論争は『百日の説法、屁一つ』で噴きとばされます。

東日本大震災の現実の下で戦いの焦点は何か?

 この現実の前で、貯留関数法が誤りだ等という矮小な空理空論は消し飛んでしまいます。

 この集会は8回も続けられるそうです。集会を企画したまさのあつ子さんは、高水論が理解されるようにと企画したそうですが、高水論を理解させようという視点が高いところから国民を見る視点です。教えてもらう方が迷惑するでしょう。しかも、この最初の集まりを見れば、ますます難解な理論が展開されて市民、農民、漁民などが目を白黒させて嫌がるでしょう。

 あまり果てしのない迷路に人びとを誘い込む誤りを進行させるべきではないでしょう。