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長期連載
Democratic Vista

第一章 百年戦争

 佐藤清文
Seibun Satow

2007年12月8日

Copy Right and Credit 佐藤清文著 石橋湛山
初出:独立系メディア E-wave Tokyo、2007年10月16日
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第一章 百年戦争

第五節 20世紀の百年戦争

 百年戦争という問題系に即せば、第一次世界大戦がナポレオン戦争、国際連盟がウィーン体制に相当する。
 第一次世界大戦によって世界的な規模での産業編成が再編されたが、それはナポレオン戦争の比ではないと湛山は、『百年戦争の予想』において、大戦後の国際経済秩序について次のように述べている。

 しかしこの前の世界戦後には、関税戦争だけでは済まず、輸入の割当とか、許可制とか、その他種々なる方法が工夫され、互いに他国の商品を自国に入れないようにする、いわゆるエコノミック・ナショナリズムが、非常に強烈になりました。そしてついに金本位通貨制度までが倒れ、資本主義によって建設された世界の経済秩序はめちゃめちゃに破壊されました。かくて資本主義は戦後再び世界平和を回復することが出来ず、二十余年の混乱の後、今度の第二次世界大戦になったのであります。資本主義およびそれの政治的側面でありますデモクラシーの権威が失墜したのももっともなわけであります。

 戦争が長期化するにつれ、各国とも物的・人的資源ならびに情報を戦争に向けて効率よく活用するために制度や法律を再編し始める。経済的・社会的にも市民生活に対する国家の関与が増し、自由放任流の思想が否定される。資源も労働力も軍需産業へ優先的に回され、生活物資は配給制に切り替わる。国家による管理統制が日常化し、銃後も戦争に完全に組みこまれる。戦時下、参戦国は管理社会を目指していく。

 各国政府は金本位制を中断し、管理通貨制度に移行する。これには二つの主要因がある。まず、戦争によって増大した対外支払のため、政府に金貨を集中する必要に迫られ、金の輸出及び通貨の金兌換を停止せざるをえなくなったからである。次に、シティが戦局の進展により活動を停止し、各国間での為替手形の物理的な輸送が途絶えてしまったことである。自由放任の資本主義の根幹をなす制度が中止され、金融・経済も政府に完全に管理される。

 こうした国家による統制管理の強化は国土が戦地となってしまったために、生産・流通が滞ってしまったからだけではない。両陣営共に経済封鎖の戦略をとったことに主に起因している。戦争遂行に必要な原材料や資源を確保すると同時に、できる限り敵側に渡ることを阻止するのが目的であるが、それに伴い、食料や暖房用の燃料など生活物資の流入もストップする。

 戦場では塹壕戦、銃後では兵糧攻めが展開され、膠着状況に陥ると、それを打開するために、両陣営共に味方の士気を上げ、相手の厭戦気分を煽る情報戦もスタートする。当局は新聞や手紙を検閲し、事前情報管理を行い、情報操作を目的としたプロパガンダを盛んに流している。

 こうした総力戦を勝ち残るべくフルに活用されたのが、専門的な知識・技能を備えた近代官僚機構である。彼らは計画的・総合的な観点に立脚して、人・物・情報を管理統制し、政策を実行に移す。このエリート官僚はエキスパートではなく、スペシャリストである。前者は個人的な天分と長年にわたる経験や修練によって会得した技能はあるものの、理論的・体系的裏付けを欠いている場合が多い。一方、後者は学問的裏付けのある専門技能を持ち、倫理がないため、技能を磨くこと自体が目的となってしまうことさえある。

 ヘーゲルは、『法の哲学』において、「官庁組織」を次のように説明している。

 統治権において問題になる主要な点は、職務の分割である。つまり統治権は、普遍的なものから特殊的なものや個別的なものへの移行にとりくむのであって、その職務は種々の部門に従って分割されなければならない。だが難しい点は、これらの部門が上部に向かっても下部に向かってもふたたび一点に集まるようにすることである。というのは、たとえば福祉行政権と司法権とは分岐するが、何かある仕事においては、やはりふたたび合致するものであるからである。

 ヘーゲルはたんなる縦割りのハイアラーキーとして官僚制度を考えていないが、その組織が「一点に集まる」階級に基づいていることを前提にしている。これは総力戦を支える行政国家体制そのものである。強力な官僚機構によって統治された体制はヘーゲル主義的理想想と言って過言ではない。

 総計1000万人に及ぶ死者と多数の負傷者、近代西洋文明に対する懐疑と幻滅と共に、1918年11月、枢軸国側の敗北で大戦が終結する。しかし、勝敗の如何を問わず、参戦したヨーロッパ諸国は膨大な財政赤字を抱え、債務国へと転落し、政治的・経済的な勢力は衰退する。

 ロンドンは世界金融の核としての地位から滑り落ち、ニューヨークがその後釜についている。帝国が次々と倒れ、体制が転換していく。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命し、ドイツは共和国へと生まれ変わる。また、オーストリア=ハンガリー帝国は諸民族が独立を宣言して帝国が解体し、共和制となる。オスマン・トルコは政教分離を国是とする小トルコ主義の共和制国家へと移行する。さらに、ロシアでは革命が勃発し、マルクス主義のイデオロギーに基づいたソヴィエト社会主義共和国連邦が成立している。

 没落したヨーロッパ列強に代わって、アメリカ合衆国が国際政治における中心的プレーヤーに躍り出る。ウッドロー・ウィルソン大統領の提唱に沿って、1920年、二度と世界大戦を起こすまいという願いから国際連盟が創設される。しかし、アメリカの参加は上院の反対にあい、「宣教師外交」は赤っ恥をかかされてしまう。

 大衆文化が花を開いた「ローリング・トゥエンティーズ」は未曾有の好景気に夢ではないかと浮かれたが、世界恐慌の1930年代にその馬鹿騒ぎの後始末にしてはあまりに重すぎる現実が到来する。1919年にアメリカが金本位制に復帰したのを皮切りに、各国が戻ったものの、この大恐慌により再び機能しなくなり、1937年、フランスを最後にすべての国が離脱している。大戦以前の経済体制には、結局、帰りえない。

 経済問題が国際的な連携の中で考えられるようになったのは第二次時世界大戦後なのである。金本位制は、参加しているある国が維持できなくなった場合、そのネットワークから離脱し、経済状態が回復したら、復帰すればいいというメカニズムを持っている。そのため、経済問題はあくまでも国内問題と見なされ、国際的に協調して対処するという発想は同意されにくい。この時期を教訓にして、第二次世界大戦後、経済問題が最重要の国際問題の一つとして認知されるようになっている。

 ベルサイユ条約によって巨額の戦後賠償を課せられたドイツでは、歴史的なハイパー・インフレが起き、社会は大混乱に陥る。1923年にグスタフ・シュトレーゼーマン首相がレンテンマルク発行によるデノミでようやく押さえこんだにもかかわらず、世界恐慌がドイツ経済を破綻に追いやってしまう、こうした状況下、議会制民主主義への信頼がゆらぎ、労働者や市民の間で不満が高まり、1933年、それを巧みにすくいあげたナチスが第一党に躍進し、アドルフ・ヒトラーが首相に選出される。

 金本位制を放棄した各国は、1935年のイギリスを始めに、ブロック経済を形成する。これは本国と属領が相互に特恵を与え、商品市場を確保し合う広域経済圏である。ブロック経済は自由貿易体制と違い、それぞれのブロック間では、産業編成が相対的に構成されていないため、相互依存に乏しい。また、経済規模が小さく、基盤が脆弱であるために、行き詰まってしまい、ブロック拡大に走らざるをえなくなる。結果、各国が衝突し、世界は再び戦争に向かってしまう。第一次世界大戦後、その凄惨な経験を踏まえ、戦争を抑止し、平和を保持する手立てを国際的に模索されてきたにもかかわらず、それを裏切る事態に人々は直面する。

 湛山によれば、大戦後、各国は戦前の体制へと回帰しようとしたが、20年代に自由放任主義が復権しかけたものの、うまくいかず、戦後は「失敗した資本主義」に代わる「指導原理」が模索され続けたのであり、多くの国々で大戦中に経験した管理統制の体制にそれを見出そうとしている。総力戦を主導した官僚機構による管理統制を平時にも導入する計画経済が新たな「指導原理」として登場したのが、共産主義であり、全体主義である。

「共産主義も全体主義も、経済組織としては、いわゆる計画経済に属すると申せましょう。ただ現状においては、全体主義国の経済は、共産主義国におけるほど、計画性が徹底的ではありません。いわゆる統制経済の範囲に未だあるとも申せます」(『百年戦争の予想』)

 湛山は、『百年戦争の予想』において、共産主義も全体主義も官僚主義の一種だと次のように述べている。

 今日の統制経済、計画経済において、この資本家企業家に当るものは誰かと考えて見ますと、どうもそれが未だ見当らないのであります。もし現在動いている者の中から、これを探せば、官僚でありましょう。共産主義では、労働者に、これを見いだそうとしたのでありますが、一般労働者に、さような知識も勇気も資力もあるとは見られない。それはデモクラシーにおいて、民衆をかついだのと同じです。ドイツのヒトラー総統もいうているように、民衆というものは無知無力です。故にデモクラシーの名の下に、実際の権力は資本家企業家に帰した。それと同様に、今ソ聯では誰が権力を占めているかと申せば、労働者ではない。スターリン氏らです。これは官僚です。ドイツのヒトラー氏、イタリーのムッソリーニ氏、またやはり官僚にほかありません。我が国でも、しばしば問題になるように、官僚が力を得ております。

 経済組織から見れば、共産主義も全体主義も決して新しくはない。それは近代官僚機構が主導した総力戦体制のヴァリエーションである。共産主義や全体主義が大戦後に政権の座につけたのは、第一次世界大戦の総力戦の体験があるからである。独裁者も政治家と言うよりも、官僚だという湛山の意見はこうした歴史を踏まえている。

 本来、計画経済は戦時体制の経済であるため、平時であっても、当局による戦時下を思わせる自由の制限が横行する。ここでは平時は準戦時である。

 しかし、計画経済が「人類の指導原理」とはなりえない。「この計画経済、あるいは統制経済には、その組織によらなければ利用の出来ぬような、何か新しい能率の高い機械とか技術とかがあるかと申しますに、どうもそれが見当たりません。もしそうだとすると一体どこに計画経済は成立する根拠があるか」(『百年戦争の予想』)。官僚はテクノクラートと呼ばれることもあるが、本質的には、エンジニアである。機械を操作するという意識が抜けない。産業革命期に登場した機械は組織を再編させ、部分的にはマニファクチュアと比べて非効率だったけれども、全体としてはそれを補って余りある生産性を上げている。計画経済も「指導原理」として世界的に普及するには、それにふさわしい新技術が現われていなければならない。しかし、その気配はない。

 19世紀、産業革命は物を大量生産大量消費する流れをつくっている。しかし、20世紀になると、物はたんなる物質ではなく、サービスを提供しているということが明らかになってくる。ラジオは電波を受信し、聴視者に放送サービスを享受させてくれる。20世紀における新技術には新サービスも含まれる。19世紀が物の世紀だとしたら、20世紀はサービスの世紀だとも言えるだろう。計画経済はサービスへの眼差しが弱く、商品取引を唯物的に捉えているにすぎない。

 湛山はブロック経済を計画経済に基づいていると厳しく批判している。ブロック経済は安全保障を優先しているため、「自給自足」が原則であり、戦時に必要な資源・物資の産業が重視される。平時に不可欠な生活物資は、当然、不足しがちとなるので、それは戦時に軍事転用が可能な産業の製品を輸出し、その代替として輸入する。けれども、他のブロックも同様の姿勢をとるため、この貿易は思惑通りに成り立つことはない。

 どの広域経済圏も、船を輸出して、砂糖を手に入れようとすれば、取引は不成立に終わるのは目に見えている。「が、それでは互いに困るから、ここに必然衝突が起こります」(『百年戦争の予想』)。しかも、戦時には効率性は二の次とされるので、その関連産業は無駄が多くなる危険性があり、域内の経済を圧迫しかねない。ブロック経済は、こういった点から、資本主義に代わる「指導原理」とはなりえない。

 計画経済は平時を準戦時と見なしているために、戦時を招いてしまう。これは「囚人のジレンマ」や「予言の自己実現」(ロバート・マートン)として知られる論理展開である。この経済体制を維持しようとするなら、戦争は損だという結論の辿り着かない。計画経済を選択すれば、戦争に突入してしまうのであって、やむにやまれず、開戦したという主張は、湛山にしてみれば、まさに「予言の自己実現」でしかない。

 1938年四月、第一次近衛内閣は国家総動員法を公布する。これにより、政府は、戦時に際し、人的・物的資源の動因を議会の信任を経ずに勅令で行えるようになる。以後、各種統制法が次々に施行される。さらに、第二次近衛内閣になると、総合計画経済機構が経済新体制として確立し、統制経済が実行される。これを積極的に勧めたのが革新官僚である。大政翼賛会により、政党は解散している。

 官僚政治や一国一党制は失敗した場合の責任が曖昧となってしまうと湛山は、『百年戦争の予想』において、次のように指摘している。

 しかるに、前回に申した官僚には果してさようの責任を負わせ得るかというに、勿論現在我が国などで行われている官吏の制度では、むずかしいと考えます。またドイツやイタリー等で行われている一国一党組織にこの資格があるかと申すに、これまたはなはだ疑問です。

 責任を負わせるのには、繰り返して申す如く、失敗すれば死活に関するのでなければなりません。しかるに経済は計画経済で、政府が総てこれを指図する。その政府は、官吏の寄合世帯で、もし或る仕事に失敗しても、他に転任すれば、咎めもなく済ましていられるという仕組みでは、責任の負い手はない。それで政治も経済も、真剣に運営せられるわけはありません。今日の我が国は現にややさようの観を呈しています。

 また一国一党の場合も同様であります。政治も経済も、一切一党が取り行って、これに対して国中に競争する勢力がないとすれば、党としては、絶対に失敗する危険は、少なくも国内的にはありません。失敗するのは、それ以上に仕事を善くやる者があるからですが、それがなければ失敗はない。しかし失敗の危険がなければ、責任感は稀薄になります。だから特別立派な人が指導者である場合は別として、組織としては一国一党は結局腐敗堕落すること昔の専制政治と異ならぬだろうと考えます。

 一国一党制の官僚政治はヘーゲル主義的な総力戦体制に起源を持つ計画経済を「指導原理」として推進していく。東亜新秩序や新体制運動、国家総動員体制が計画経済に根拠を見出されている以上、その行く先はさらなる戦時しかありえない。

 平時を準戦時とする戦時郵船の経済体制が「指導原理」とならないとすれば、戦時状態に至ることが得策ではないと考える体制がふさわしい。湛山はそれを「自由通商主義」、すなわち自由貿易に見出す。

 「世界の経済には、何らかの形で通商の自由が確保されなければ、治まらないが、それにはフェーラーが必要である。過去においては、その役目を英国が勤めたのです」(『百年戦争の予想』)。第二次世界大戦は、イギリスに代わる「経済的フェーラー」、すなわち経済覇権を争う闘争である。湛山は、1941年の段階ではドイツとソ連が戦っているが、いずれアメリカが参戦するだろうと予想している。これは、自由通商主義が「指導原理」だとしている以上、全体主義ドイツや共産主義ソ連と比べて自由貿易に積極的なアメリカの勝利を暗示している。それは、戦後、合衆国を経済的覇権として自由貿易圏が形成されていくということである。

 しかし、こうした一国主導による広域経済圏の形成は、決して、好ましいものではない。むしろ、「列強が真に協調して、全世界を打って一丸とした広域経済を作ること」を進めるべきである。言うまでもなく、それは困難であり、その到来までには「世界はまだまだ苦難時代を経ねばなりますまい」。

 湛山の言う20世紀の百年戦争は、「自由通商主義」の制度と思想が世界規模に拡大・浸透し、自由貿易ネットワークが達成する過程である。19世紀の百年戦争において自由放任流の資本主義が「世界の指導原理」だったとすれば、20世紀の百年戦争では「自由通商主義」が「世界の指導原理」となる。湛山は、『東洋経済』1936年9月19日号の社説において、すでに自由通商主義を「世界開放主義」としてその推進を呼びかけている。ただ、この段階では同時代的な情勢の分析にとどまっており、まだ歴史的な裏づけを行っていない。しかし、この『百年戦争の予想』では、政策のみならず、革新官僚や昭和研究会などの歴史認識とイデオロギーまでも根本的に覆される。

 『百年戦争の予想』には、湛山の近代に関する深い理解と鋭い洞察が満ちている。1941年は20世紀の百年戦争が始まってまだ30年足らずである。けれども、湛山は、驚くべきことに、アメリカ覇権によるグローバリゼーションやWTOもすでに予想している。「百年戦争」という問題系による歴史認識は今日においても有効であろう。当時の体制を正当化した昭和研究会や近代の超克派の世界観や歴史観は、それと比べて、まがまがしさに満ちている。湛山は決して奇をてらったわけではない。この先見的見解は、歴史の考察を通じて導き出されているものであって、合理的な思考に立脚し、経済を中心に慎重に吟味して確実に論理を積み上げている。観念論的に自分の願望充足として歴史を持ち出したのではない。それが1941年の日本の政治に欠けていた姿勢にほかならない。

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つづく