Copy Right and Credit 佐藤清文著 石橋湛山
初出:独立系メディア E-wave Tokyo、2007年10月16日 本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。 リンク以外の無断転載、無断転用などをすべて禁止します。 |
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“Democracy, in silence, biding its time, ponders its own ideals, not of literature and art only-not of men only, but of women”. Walt Whitman Democratic Vistas 序章 やっかいな問題 2007年10月12日、ノルウェーのノーベル賞委員会は同年のノーベル平和賞をアル・ゴア前合衆国大統領と国連の「気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change: IPCC)」に授与すると発表する。 従来、同賞は、多国間の友好や軍備の廃絶・削減、平和交渉の進行などに関しての業績ないし成果を考慮して与えられてきたが、2004年のケニアの女性環境保護活動家ワンガリ・マータイの受賞以降、その選考基準が変わってきている。 地球温暖化自体は急に顕在化した問題ではないが、今日の国際政治における諸々の矛盾・葛藤・摩擦・衝突を象徴している。この受賞は、その意味で、世界の政治が新たな時代に入ったこと象徴的に示していると言えよう。 東西冷戦構造の終結後の1992年、アメリカのフランシス・フクヤマは、『歴史の終わり』において、アメリカの勝利と共に「歴史」は終わると宣言する。しかし、それほど楽観的に歴史は推移しない。東西冷戦というイデオロギー・ポリティクスが解体した後、ナショナリズムに熱狂するアイデンティティ・ポリティクスが世界各地で噴出していく。ユーゴスラヴィアの凄惨極める内戦はその典型例である。 このナショナリズムは帝国主義や植民地主義への対抗原理ではない。イデオロギーという大きな物語が消失したため、居場所として求められた小さな物語である。 もっとも、イデオロギー・ポリティクスにしろ、アイデンティティ・ポリティクスにしても、われわれは脅威にさらされているという被害者意識に組織化の基盤を持っている。いずれも自己を能動的ではなく、受動的に規定する。 石橋湛山(1884-1973)は、『湛山座談』において、1964年の段階で、将来的に最も問題となるのはナショナリズムだろうと次のように述べている。 ただ、僕が一番おそれ心配しているのは、民族主義、ナショナリズムなんです。これのほうがかえってこわいですね。ナショナリズムはなくなりません。帝国主義は、なるほど理屈で考えればああなるだろうけれども、あんなものは、たんなる議論、理屈だし、実際においても資本家とか一部の人間のいわば理屈みたいなものでもって成り立っている。 要するにナショナリズムは、資本主義と共産主義がいずれ一緒になるというときにも、なおかつ一番最後まで残る問題だ。つまり肌の色が違うとか、長年住んでいた自然風土なり人種なり肌にしみこんだ歴史的文化が抜け切らない限りは、いつまでも残るのではないか。 アメリカの黒人問題なんかどうもいつまでも残りますね。黒人問題は基本的には経済問題だという解釈があるけれども、どうもそうではない。それだけではないですね。経済問題というのは理屈を考えてつければそんなことがいえるけれども、どうもそうではない。 1990年以降の世界情勢は、フランシス・フクヤマの見通しではなく、湛山の予測通りに進展している。一般的に、湛山に関する言説は、経済という観点から日本の帝国主義を大日本主義として批判したということが強調されるが、この見解が示しているように、彼の認識はもっと広い。経済学は合理的判断をする「経済人」、すなわち「ホモ・エコノミクス (homo economicus)」を議論の前提にする。 あっちもこっちも ひとさわぎおこして いっぱい呑みたいなやつらばかりだ 羊歯の葉と雲 世界はそんなにつめたく暗い けれどもまもなく そういうやつらは ひとりで腐って ひとりで雨に流される あとはしんとした青い羊歯ばかり そしてそれが人間の石炭紀であったと どこかの透明な地質学者が記録するであろう (宮沢賢治『政治家』) 90年代から吹き荒れたアイデンティティ・ポリティクスの嵐は沈静化しつつあるが、それはナショナリズムが克服されたと言うよりも、それ以上に大きいグローバル規模の変動が到来している方である。地球温暖化のもたらしている脅威にほかならない。 地球温暖化には、未来性・グローバル性・カオス性という三つの特徴がある。気候変動によると見られるさまざまな被害が世界各地に起きているが、これはほんの前触れにすぎない。 環境問題には地球温暖化のような新しい問題だけではなく、公害といった古い問題も依然として世界各地で発生している。これらは地球温暖化の陰に隠れているのではない。古い問題への認識の甘さから新しい問題を招いてしまっただけでなく、広義でも、狭義でも、地球温暖化に何らかの形でつながっている。 未来は現在の意思決定のプロセスに参加することはできない。また、環境問題は、京都議定書が示している通り、一国だけで対応するのは不可能である。そのため、環境と発展の相克が国際会議の場で議論されることになる。 現在世界が直面している政治を「エコロジー・ポリティクス」と呼ぶこともできよう。ウェストファリア条約以来の国家主権の見直しを迫り、国家を相対化させる地球温暖化は国際政治の考え方そのものに再考を促している。エコロジーは近代文明自体にその批判を向けている。 こうした世界情勢に右往左往する日本政治に対し、湛山思想の再検討を提唱することは有意義であろう。言うまでもなく、湛山は地球温暖化を知らなかったし、エコロジー・ポリティクスを前提として思考していたわけでもない。 <参考文献> ・フランシス・フクヤマ、『歴史の終わり』上中下、渡部昇一訳、知的生きかた文庫、1992年 ・石橋湛山、『湛山座談』、岩波同時代ライブラリー、1994年 ・宮沢賢治、『宮沢賢治全集2』、ちくま文庫、1986年 ・佐藤清文、『ミニマ・ヤポニア』http://eritokyo.jp/independent/satow-col1001.html |