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日本変革のブループリント





第一章 官僚主義を脱して(3)


佐藤清文
Seibun Satow

掲載日:2007年1月元旦


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すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。



全体目次


3 官僚主義の歴史を体現した長野県

 長野県はこうした官僚制の動向を反映した典型的な自治体の一つです。

「脱ダム」はそういった日本政治を凝縮したところで宣言されたのです。

 「吉村午良知事の長野県では、1998年、冬季オリンピックが開催され、競技施設・新幹線・道路は建設・整備されたものの、その期待されたイベントは経済的な活性化をもたらすどころか、巨額な財政赤字を残しただけで終わります。

 おまけに、二年前のアトランタ五輪の開会式で見られたあの光景と比べて、その理念のなさは無様なものでしかありませんでした。

 モハメド・アリが、1996年、商業主義にまみれたアトランタ・オリンピック最終聖火ランナーとして登場し、その震える手で聖火台に炎を灯した「その瞬間、僕は確信したのでした。

 人口僅か
40万人の都市アトランタは『スペインの金満家』にKO勝ちしたのだ、と。

 
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アトランタは、必死に重病と戦う黒い肌をした悲劇の英雄、然れども公共の電波の中ではその雄姿異形に屈してしまう人物を開会式の主役として登場させることによって、一発逆転を成し遂げたのです。

 北と南、西と東、上と下、白と黒、富と貧。アメリカが、そしてアジア、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニアという全世界が今も猶、完璧に根絶出来ずにいる数々の格差を在りの儘に見詰めることから新しい人類の一歩が始まるのだ、と宣言したのです。

 それは、『バブリー』の沼から生まれたアトランタ五輪で一番最後まで浸り切っているのはサマランチ会長に代表される
IOCのお歴々のみ、との隠喩に他なりません」

 
        田中康夫『モハメド・アリの「雄姿」』


 しかも、招致に費やした公金の使途は不明瞭なままで処理されています。県の政治・行政はこれらの問題に関して責任を果たそうとしないのです。

 戦後復興から高度経済成長に亘って、都市に人材を提供して過疎化したバーターを要求できる中央とのパイプが地域の繁栄につながると確信され、地方は国土開発に邁進する霞が関や永田町への陳情を繰り返し、首長にも中央の政界や官界と関係が深い人物を選出します。

 地方は中央に従属し、内なる植民地にすぎませんでした。その結果、日本共産党を除く、各党が有力候補者に相乗りして多選を続け、選挙は儀式と化してしまいます。

 議会も政党も行政に対する批評の機能を放棄したのです。中央官庁は全国総合開発や新産業都市、テクノポリス構想など興行師さながらに国土開発計画を発表し、地方も新幹線や高速道路、オリンピック、博覧会といったビッグ・プロジェクトを誘致すれば、地域経済が活性化することに疑いも抱かなかったのです。

 当初は成功するケースが多かったのですが、高度経済成長が終息するにつれ、住民のニーズと産業連関を無視した巨大事業がことごとく失敗に終わります。地元には、自然破壊と財政負担だけが残ったのです。

 吉村知事は1980年から2000年に在職していますから、官僚主義の問題点が顕在化していく時期に、県政のトップに君臨したことになります。

 しかし、この自治省出身者は従来の環境に適応することに終始し、それが変わりつつあることを認識していませんでした。

 官僚機構では対応できないソフト・パワーの時代が到来し、自治体は独自のソフト・パワーを開発・発信することでしかその存在意義を示せなくなっていたにもかかわらず、彼は権威主義的に振舞い、在任期間を通して、県の政治や行政の利害を調整していました。

 県庁とオール与党体制の議会には惰性が支配し、破綻した政策が県の財政を危機的状況に陥らせててしまったのです。

 それは思っていた以上に深刻でした。2004年にも財政再建団体に転落する危機に瀕するまでになっていたことが2003年2月の試算で判明しています。

 国から予算を獲得して開発を推進するのではなく、従来の政策決定のプロセスを批評し、情報を公開して、住民と対話した上で、政策を立案・実施する知事が必要だと県民は考えるようになっていました。

 官=公に代わる新たな公共性の意識が住民の間に生まれつつあったのです。もう2000年を迎えています。新しい風が明らかに必要でした。そこに登場したのが田中康夫知事であり、「脱ダム」宣言だったのです。

 「脱ダム」は新たな政治の象徴です。田中県政は、その後も、ハード・パワー依存から、ソフト・パワー重視の政策への転換を続けていきます。

 事業計画を再調査して、大型公共事業から生活に密着した公共事業へと重点化・効率化を実施しました。また、外郭団体の実態を調べあり方を再検討を行いました。投資的経費を削減して、未利用県有地の売却などで歳入を確保したのです。

 田中県政は、多くの政治宣言・提案を実行してきました。「『脱・記者クラブ』宣言」、「マンション軽井沢メソッド宣言」、「軽井沢 まちなみメソッド宣言」、「『5直し』と『8つの宣言』」などを宣言しています。

 ここではすべての改革を挙げ切れませんから、財政改革だけにしますが、「財政改革推進プログラム」や「産業活性化・雇用創出プラン」、「三位一体の改革に関する緊急提言」などがあります。

 さらに、政策理念を「未来への提言〜コモンズからはじまる、信州ルネッサンス革命〜」としてまとめています。

 その結果、大幅に収支が改善され、全国で唯一4年連続して県債残高が減少するに至りました。

 県債の発行を抑制し、プライマリー・バランスは黒字です。このプライマリー・バランスは将来的な財政政策の維持可能性を意味します。

 通常の財政赤字は歳出マイナス税収によって定義されますが、プライマリー・バランスの赤字幅は歳出から税収と公債の利払い費を差し引いた値です。

 単年度の財政赤字ではなく、中長期的な財政赤字の累積を問題にしているのです。プライマリー・バランスの赤字幅が年々縮小しないと、財政破綻の危機が迫っているということになります。

 2000年代初頭の国及び地方の一般政府レベルにおけるプライマリー・バランスの赤字幅は、対
GDP比で、5台であり、縮小傾向は見られません。

 厳しい財政状況の下で全国でも基金が枯渇寸前の県が出るなど2000年度から04年度にかけて30県において基金
(財政調整基金・減債基金)が減少する中で、長野県では04年度末には357億円の基金を確保しています。

 それは社会と時代の流れを認識した政治の成果にほかなりません。

 田中知事に問題がないというわけではありません。

 彼を神格化することは愚かです。個人的感情はともかくとして、住民票の変更など明らかな失政もしていますし、県の女性の幹部職員が少ないといった政治改革としては不十分な点もあります。

 叩けば何らかの埃も出てくることでしょう。

 ただ、そういったことがあったとしても、中村敦夫前参議院議員が「私は個人的には田中康夫氏は好きではない、しかし、彼の理念そして長野でして来たことは、好き嫌いにかかわりなく大変すばらしいことである」と言っているように、彼の登場が時代の変化を感じさせたことは確かなのです。

つづく