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リテラシーと批評
〜リテラシー・スタディーズ〜

佐藤清文

Seibun Satow

初出:2007年5月11日
修復後掲載:2007年6月8日


無断転載禁
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


「『読む力』といったところで、表層的な読みなんかどうでもよくて、その『数学の世界』の構造をどう『読みとる』かが問題だと思う。数学教育に関心を持ったのも、そうした傾向からきている」。

森毅『表層的な「読み」なんてどうでもいい』


第一章 リテラシーと社会

 『週刊朝日』の取材をきっかけにして、関西テレビの『発掘!あるある大辞典U』に数多くの捏造が発覚する。こうした意図的な偽装はこれまでにも何度か問題化している。過去一五年間に表面化した主なケースだけでも、朝日放送『いつみの情報案内人素敵にドキュメント』(九二年七月)、NHK『奥ヒマラヤ 禁断の王国ムスタン』(九二年一〇月)、フジテレビ『愛する二人別れる二人』(九九年三月)、日本テレビ『ニュースプラス1』(〇三年一一月)、TBS『告白〜私がサリンを撒きました〜オウム10年目の真実』(〇四年三月)、テレビ東京『教えて!ウルトラ実験隊』(〇五年一月)などが挙げられる。他にも、『プロジェクトX 挑戦者たち』の二〇〇五年五月一〇日放送「ファイト! 町工場に捧げる日本一の歌」に、事実と比べて大幅な誇張があると取材を受けた大阪府立淀川工業高校がNHKに再放送をしないように申し入れを行っている。その都度、映画『クイズ・ショウ』のモデルともなったクイズ番組21のスキャンダルを知らないはずもないのに、関係者は「演出の範囲内」という言い訳を口にしている。「人の噂も七五日」という好都合な諺を盾に、抜本的解決をとらず、おいしいとこどりを続けていく。

 こうしたごまかしに対する認識の甘さはテレビ局に限らず、他の業界にも見られる。『奥ヒマラヤ 禁断の王国ムスタン』のヤラセが発覚した後に刊行された村上春樹の『アンダーグラウンド』はその典型である。この本は、地下鉄サリン事件に遭遇した被害者と遺族、医師、精神科医、弁護士などからのインタビューを集め、「村上春樹が真相に迫るノンフィクション」として、一九九七年に出版されている。村上春樹は、「はじめに」の中で、ある女性誌の投書欄に寄せられた「地下鉄サリン事件のために職を失った夫を持つ、一人の女性によって書かれた」手紙が『アンダーグラウンド』執筆に至る動機としている。ところが、この投書は実在しない。二〇〇〇年、田中康夫は慶應義塾大学で春学期に亘って講義を行っているが、その中で、国会図書館に通いつめ、該当する投書がないとことをつきとめた奇特な作家のことを述べている。村上春樹はでっちあげた執筆動機に則って、「ノンフィクション」を書きあげたというわけだ。しかし、現在まで、この件に関して村上春樹はマスメディア等から問いただされてはいないし、出版社が説明してもいない。

 ところが、今回はそういう高をくくった態度のツケを払わされる事態を招いてしまう。メディアへ圧力をかけ、自分の信念を正当化することを好む政治家たちが政権を運営していることもあり、メディアへの規制のいい口実として利用される。

 しかし、この政府の態度は欺瞞以外の何ものでもない。政治において、こうした捏造やヤラセ、シコミが日常的に行われている。タウン・ミーティングは言うに及ばず、各種の審議会や委員会は行政のアリバイづくりにすぎない。それらは、政策・計画・施策の立案過程において、第三者が必要性・妥当性・正当性をチェックする場であるはずだが、構成メンバーの大半もしくは全員が行政に近い立場の人物や利害関係者が占めている。有識者会議とは名ばかりで、実態は井戸端会議であって、顔ぶれを見た瞬間に、結論がすでに出ていることが一目瞭然であるのは、決して、珍しくはない。熟慮が儀式と堕している。

 おまけに、首相への記者からの質問さえヤラセではないかという疑惑まで起きている。二〇〇七年四月二四日夜、安倍晋三内閣総理大臣は、番記者にしてはずいぶんと年齢のいった『産経新聞』の記者の質問に答えて、自分のことを書かれた『週刊朝日』の記事に対して、「これは言論によるテロではないか」と感情的になって批難したが、二〇〇七年四月二七日日付『日刊ゲンダイ』によると、この普段は見かけない記者と首相サイドが打ち合わせていたのではないかと推測されている。安倍首相は「この記事を書いた朝日の記者、あるいは朝日の皆さんは恥ずかしくないのか」と言ったけれども、もしそうなら、その発言は熨斗をつけてそっくり返されることになるだろう。 

 捏造の表面化以来、マスメディアの脇の甘さや政治権力によるメディア規制、テレビ局の労働環境などは、一時的にでさえ、メディア上で話題となったが、リテラシーをめぐる議論はほとんどパスされる。

 けれども、リテラシーには共通理解の契機がある。江戸時代中期、『世界項目』という演劇作成マニュアルが刊行されている。『忠臣蔵』とその外伝である『四谷怪談』は、そこにあげられている『太平記』巻二十一の「塩冶(えんや)判官の慙死」をモチーフにして執筆されている。戯曲の作者も、演じる俳優も、劇場に足を運ぶ観客もこの背景を承知して、楽しむのが当時の姿である。見る側も、作る側同様のリテラシーを身につけ、共有したうえで、上演されている。

 こうしたリテラシーの共有に取り組まずに、番組制作者が「視聴者も演出が入っていることを承知しているはずだ」と弁解している。しかし、それは手品を超能力だと宣伝しておきながら、ばれた途端、手品だと言い逃れようとするものだ。この無責任の結果、以降も、テレビ番組にシコミやヤラセが行われていることが見つかっている。

 「リテラシー(Literacy)」は、近年、注目されている概念であるが、その歴史は古く、教育の中で捉えられている。アカデメイアを誕生させた古代ギリシアの教育は、佐藤学東京大学教授の『教育の方法』によれば、デモクラシーの成立とリテラシーの普及という二つの契機によって成り立っている。

 ジョン・デューイは、『民主主義と教育』において、デモクラシーがコミュニケーションと密接な関係にあると次のように述べている。

 

 デモクラシーとは、たんなる政府の形態ではない。一つの集団生活の形式であり、相互の経験を全員が共同に理解しあうような生活形式である。各人が共通の利害をわかちあっていれば、各人が行動する場合には必ず他人の行動を考慮し、他人の行動をもって自己の行動の方向を決定することが必要である。

 

 デモクラシーが「一つの集団生活の形式」であるのは、それがコミュニケーションを通じて思考・行動をわかちあうからである。デモクラシーの態度は対他的なコミュニケーション実践そのものであって、たんなる手続きや制度に従うことではない。

 現代に至るまで、教育機関は、変遷を遂げながら、コミュニケーションの形成・向上とリテラシーの伝承・浸透の役割を果たしている。学校には、リテラシー=コミュニケーションという二つの規範があり、それに基づいて公共性・公益性に寄与しているが、これは、おそらく、将来的にも消えることはないだろう。リテラシーは社会的インフラの重要な一つと考えなければならない。

 リテラシーは、時代や社会に応じて、達成・習熟に関する基準が異なる。近代以前の欧州における民衆の識字率を調べるには、各地の教会に保存されている教区の信者の名簿をあたる。同一の筆跡で記された名前は聖職者が代筆を行ったと判断し、推定されている人口との比率から識字率を算出する。自分の名前の読み書き能力の有無を基準とするアプローチをとるのはたんに史料の限界によるわけではない。民衆レベルで必要とされる水準がその社会構成を表象するからである。話す能力は共同体の内部で生活しているうちに、ある程度まで習得できる。一方、識字能力は、たとえ初歩的であったとしても、体系的ないし組織的教育を不可欠とし、その学習方法は政治制度と関連している。日本語をしゃべれても、そのリテラシーを教えるには体系的な方法論を知っていなければならない。教育を通じてリテラシーは明確化され、体系化される。

 現在の識字率の統計では、自分の名前の読み書き能力の有無は最低限度とされている。国民国家の登場による公教育制度の整備は、識字率の基準を3R’sに高める。日常生活上必要な文書の記述・読解の技術的な能力の有無であり、これが一般的な国際基準として理解されている。識字率の調査に関しては、日本も含めて、マイノリティ問題と無縁ではないため、完全とは言い難い。けれども、先進諸国においては、小学校程度の読み書きというこの段階はほぼ到達したと見なせる。他方で、途上国──特に、サハラ以南のアフリカとアジア──では、絶望的な貧困や不安定な政情、無秩序な治安、頑迷な偏見により、学校教育がままならず、社会的悪循環を断ち切るためにも、識字率の向上は早急の課題である。残念ながら、多くの人々の努力にもかかわらず、学校の備品が略奪の対象となったり、教師がテロの標的として襲撃されたりする状況は依然として克服されてはいない。

 先進諸国では、次の段階のリテラシーの向上に主眼が移っている。仕事や福祉、社会参加を可能にする読み書き能力を活用でできる「機能的な読み書き能力」の水準が低さが問題となっている。従来の国際基準では読み書きができる人の一〇〜五〇%が、現代社会における「機能的な読み書き」には達していない。この新しいリテラシーの普及が社会的課題となっている。

 これにはいくつかの理由が挙げられる。教育学には「九歳の壁」あるいは「一〇歳の壁」と呼ばれる分岐点がある。この年齢以降、学習内容に抽象的な思考が入り、世界的に、児童間の学力格差が顕著になり始める。しかし、それ以上に、新しいメディア・テクノロジーの発達に伴い、社会的に要求される読み書きの技術が変化したことが大きい。 

 今日、リテラシーはさまざまな領域に拡大し、全般的に、意味の読解力を指すとして用いられている。「情報リテラシー」、「メディア・リテラシー」、「科学リテラシー」、「インターネット・リテラシー」、「リサーチ・リテラシー」、「健康リテラシー」、「金融リテラシー」など現代社会における必須のリテラシーは増える一方である。

 一九八九年に出版された『すべてのアメリカ人のための科学(Science for All Americans)』のイントロダクションにおいて「科学リテラシー」は次のように定義されている。

 

 科学リテラシー──自然科学や社会科学、ならびに数学とテクノロジーを含包するもの──には多くの事実があるが、それらとして次のような点が挙げられる。自然界になれ親しみ、その統一性を尊重すること。相互に左右される数学、テクノロジーおよび科学における重要な諸方法に気がつくこと。科学の鍵となる概念・原理を理解すること。科学的な思考法のための能力があること。科学、数学やテクノロジーが人間の営みであり、それに伴う強みと限界が何であるかを知っていること。個人的・社会的目的のために科学的な知識・思考法を使えること。

 

 健康情報を裏付けているのが科学なのか似非科学なのかを見分けるというのは、こうした科学リテラシーの一例である。

 星浩は、二〇〇七年五月八日付『朝日新聞』の「政態拝見」の中で、捏造が発覚してテレビ局が批判されると、朝日新聞に次のような内容の抗議電話が殺到したと紹介している。「納豆を食べてもすぐにやせるはずがないことは、多くの『国民』が常識として知っているはずだ。捏造は批判されて当然だが、その番組を見て納豆を買い込んだことへの反省も大切だ。自分のことは顧みず、相手が弱いと見ると攻撃を強める風潮がある」。これらの講義は直感的であり、メディア・リテラシーに則っていないし、その議論に達していない。

 中山健夫京都大学教授は、二〇〇七年二月一三日付『朝日新聞夕刊』の「科学」欄において、そうした情報を読みとる際の六つのヒントを挙げている。

 

分子と分母

「或村で80歳以上の男性10人中8人が喫煙者」だったとしても、煙草を吸っていると長生き出来るとは言えません。

 20 年前、60歳だった村人のうち喫煙者が100人で非喫煙者が10人だったなら、非喫煙者のほうが高率で80歳まで長生きしたことになります。

 

バイアス(偏り)

30年代に米大統領選で二つの民間調査がありました。約240万人の調査で有利と予想された候補者が、2万人の調査で有利と予想された候補者に敗れてしまいました。

 240万人調査は対象者を選ぶ段階で自動車登録名簿等から選び, 裕福な層に偏った為です。2万人調査は有権者全体の比率に似せる工夫をしていました。

 

平均への回帰

健診等で血液中のコレステロールを測り、平均より異常に高い人達に食生活指導をして、 数ヵ月後に下がったとします。しかし、これだけでは指導の効果があったとは言えません。コレステロール値は常に変化し、たまたまその時に高い値を示した人もいます。こういう人達は、もう一度測ると集団全体の平均に近い値になる傾向があります。はじめに比べて下がって見えることがあり、「平均への回帰」と呼ばれます。

 

資金のスポンサー

米カリフォルニア大の研究者が、8095年に出た受動喫煙の危険性に関係する106の論文を調べています。

 煙草産業から研究資金をもらった研究者は、そうでない研究者に比べて、遙かに多く危険性を否定する論文を書いていました。スポンサーへの配慮が働いたと考えられます。

 

比較群

胃癌の原因になる食事を突き止める為、日本人患者百人を調査し、共通したのは味噌汁だったという結果があったとします。でも、味噌汁は多くの日本人が食べます。「胃癌でない人(比較群)は、味噌汁を食べていなかった」という情報がないと、本当に味噌汁が胃癌の原因なのかは判断出来ません。

 

ホーソン効果

米国の町で、作業効率を上げる為、照明等の効果を調べたところ、調査があるからと作業員が良い成果を上げようとしたことが、最も大きな効果をもたらしたという皮肉な結果が出ました。

 こうした現象を町の名から「ホーソン効果」と呼びます。

 薬をもらった患者が、良くなろうと生活習慣を改善し、薬自体の効果以上に優れた結果になることもあります。

 

 この六点はメディア・リテラシー全般にも適応できる。メディア・リテラシーは、メディアの情報を批判的に読み解いて、その真偽を識別し、活用する能力である。扱われるメディアには、公的機関やマスメディア、映画、音楽、出版業界、広告、インターネットなど幅広い。メディア・リテラシーは「テレビと政治」や「戦争とメディア」、「広告と科学」、「インターネットと情報」などのトピックとしてすでに多岐に亘って論じられている。情報操作や世論誘導、公平性・中立性、似非科学、デマ、プロパガンダなどは依然として同時代的な問題である。「映像とは客観の顔をした主観である。多くの歴史が勝者の歴史であるように、映像もまた権力者の意向を反映している」(高橋和夫『国際政治』)。メディアを通したものには取捨選択が働いており、何らかの意図に従い、示されているそれぞれに意味がある。それを読みとり、批判的に接する態度は情報の氾濫する現代社会には必須である。そのためには、結果だけでなく、その過程を知る必要がある。送り手側の事情、さらには各メディアに固有な技法を考慮することで、彼らの言い訳が本当に妥当であるかどうかも吟味できる。リテラシーに焦点を当てることはプロセスの検証にほかならない。

 

第二章 リテラシーと教育

 パスタのゆで方を知らなくても、カルボナーラを味わい、それを評価することはできるけれども、レシピを学んでいれば、その批評の質は高まる。

 最近、諸領域におけるリテラシー能力の質的向上が教育の課題と見なされている。リテラシーの学習には、すでに言及した通り、組織的・体系的教育が不可欠であり、その充実度合いは各国の教育政策がダイレクトに反映する。OECDは、三年に一度、国際的な生徒の学習到達度調査、すなわちPISA(Programme for International Student Assessment)を実施している。国際比較により教育方法を改善し、標準化する観点から、生徒の成績を研究することを目的としている。オーストリア教育研究所を中心とした国際コンソーシアムが実施し、加盟国の多くで義務教育の修了段階にある一五歳の生徒を対象に、読解力・数学的リテラシー・科学的リテラシー・問題解決を調査する。このプログラムは、何をどれだけ習得したかではなく、知識・技能を活用できる力を評価するため、問題解決やコミュニケーション能力などを重視している。調査プログラムの開発が一九九七年に始まり、第一回調査が二〇〇〇年に行われたが、教育の優秀性を誇りにしてきたドイツが平均を下回るなどその結果は世界に衝撃を与える。

 PISAはリテラシーを評価するが、それを上達させる決まった教材や道筋はない。そのため、階段を登るような学習法や習熟度別に分ける個別指導は向かない。ランキングの上位国の制度を見ると、複式学級や協同学習を採用しているという興味深い共通点が見られる。

 リテラシーについての教育は、しばしば、誤解されている。コンピューター・・リテラシー教育と言うとき、その活用に重点が置かれている場合が少なくない。コンピューターが社会的インフラとして一家に一台のように身近になった今、程度に応じて、その利用方法を習得する必要がある。さまざまな職種でコンピューターを利用する場面が増え、学校教育で取り入れるべきである。こういう意見を耳にする。しかし、リテラシー教育において重要なのは批評的認識の育成である。メディアを自由に使いこなせることが目的ではないし、たんに「習うより慣れろ」を実感する場でもない。それは表層的な「読む(Read)」ではなく、潜んでいる意味を「読みとる(Grasp)」姿勢である。

 アメリカで、テレビが家庭に入り始めた一九五〇年代から、NIE(Newspaper In Education)の活動が始まる。これは家庭や学校現場、社会での教育に新聞を活用しようという運動である。一九三〇年代に『ニューヨーク・タイムズ』紙が提唱し、一九五五年にアイオワ州で実施されたのをきっかけとして全米に波及している。現在では、ヨーロッパやアジア、オセアニアなど三二ヵ国がNIEを行っている。新聞各紙も教室で活用可能な紙面をつくったり、子供新聞を支援したりするなど多様な活動を展開している。

 一九八〇年代後半から、各国でメディア・リテラシーを学校教育に取り入れる動きが現われ始める。中でも、カナダや英国、オーストラリアの政府は、それをカリキュラムに指定している。イギリスでは、英語の教科にメディア・リテラシーの学習を設け、英国映画協会が教材開発や教員トレーニングなどで全面的に協力している。また、カナダの小学校での同様の教科が「読む」・「書く」・「口頭と映像によるコミュニケーション」の三要素から構成されており、メディア・リテラシー教育が義務づけられている。

 英語圏でメディア・リテラシー教育が盛んになったのには、米国メディアの影響力という事情がある。カナダ人の約九割がアメリカ合衆国との国境から三〇〇km以内に居住しているため、米国の商業主義や価値観に立脚したテレビ番組が容易に視聴でき、それを相対化できる批判的姿勢の育成が不可欠である。こうした状況により、カナダは、現在、最も先進的なメディア・リテラシー教育を行っている。

 いずれの国においてもメディア・リテラシー教育では、生徒たちがビデオなどを自分たちで制作するミメーシスを通じて、テーマの選択・企画・取材・撮影・編集・演出といった行為を体験できるようにしている。その際、作り手には、いわゆる「絵になる」カットを選んだり、番組の結論に近いコメントだけを取り出したりする傾向があることも体感できる。制作者サイドの意識や技法を垣間見ることで、今後の生徒たちの視聴がより批評的になることが期待できる。作り手を正当化するためではなく、あくまでも作成の過程を顕在化させ、それを批判的に考察するのが目的である。

 ジョン・デューイのプラグマティズムから影響を受けた進歩主義教育は体験学習を取り入れていたが、これをたんなる生徒の内的動機づけを目的にしていたと考えるべきではない。むしろ、リテラシーへの視点を促す教育である。それにはミメーシスの体験を通じるのが際的である。

 こうしたリテラシー教育は生徒個々人だけでは不可能であり、協同作業をとらなければならない。それは協同学習の場である。異質で多様な人とのコミュニケーションをとり、コンビネーションをうまく図る必要がある。しかも、現代社会は変化が劇的であり、その都度、直面する道徳的ジレンマの意味を読み解き、生きていかざるを得ない。それには、その意味を理解し、ネットワークを利用して、構築するというリテラシーとコミュニケーションが不可欠かつ不可分である。公共性・公益性はこうしたリテラシーとコミュニケーションの相互作用によって成立・変容する。リテラシー教育は共生を体験する機能も果たしている。

 メディア・リテラシーの普及は市民メディア(Citizen Media)の発達も後押ししている。一般市民がインターネットやけーブル・テレビ、ミニFM局といったメディアを通じて、大学や学校、サークル、商店街、在留外国人、障害者、地域のNPOなどを拠点にしたメディアによる表現活動が盛んになっている。マスメディアが扱わないローカル、エスニック、マイノリティもしくは専門的な話題や情報を伝えるオルタネイティヴな場である。

 リテラシーをめぐる教育は何もメディアに限定されはしない。NHKBS1で二〇〇七年三月六日放映された『<欧米の教育現場から>イギリス 感情をどうコントロールするか』は、表情の読みとり能力が他者とのコミュニケーションに重要な影響をもたらすことを伝えている。ハーバード大学において、ある女性の写真を見せて、その表情の意味を読みとるテストを行った際に、周りと軋轢を起こす人ほどそれを読み間違える傾向があると公表している。さらに、エミリー大学では、周囲とよく衝突する未成年はニュートラルと思われる表情までも敵対的と読み、相手につっかかるが、それをとがめられても、自己防衛を理由にして反省しないという調査結果を発表している。こうした心理学の研究は、表情のリテラシーが十分に備わっていないと、良好なコミュニケーションがままならないことを明らかにしている。そのため、NHK教育テレビには、表情のリテラシーを扱う『みてハッスル きいてハッスル』という番組が放送されている。

 このドキュメンタリー番組の原題はイギリスのチャンネル4Channel 4)が二〇〇一年に制作したEQ & The Emotional Curriculumである。脳科学者たちは、現代の教育はIQとして計測される学力をつかさどる新皮質ばかりに働きかけ、EQにかかわる旧皮質の訓練が省みられていないため、「怒り」をコントロールできない子供が増えていると指摘している。EG”Emotional Intelligence Quotient”の略で、「こころの知能指数」とも翻訳される。たんなる短期的な知識の習得能力ではなく、複合的・コンビネーション的な知能の能力、もしくは社会的な知能を示す指数である。感情的にならずに、行動できる能力と言ってもいい。一九九五年、ダニエル・ゴールマン(Daniel Goleman)が著わした『EQ こころの知能指数(Emotional Intelligence)』の世界的なベストセラーにより、一般にも知られるようになっている。EQは幼いうちからトレーニングすればするほど高められ、対他的・社会的コミュニケーション能力の向上につながる。番組では、EQ教育を三ヵ月間実施したイギリス中部のアナンデイル小学校の様子を中心にして、六〇年代から行われてきた種々の心理テストの結果なども紹介されている。

 このように、リテラシーはたんなる読み書きの能力でもなければ、暗記したことを思い出して答案を生める能力でもない。事象から意味をどれだけ読みとることができるかという本質的な認識力にほかならない。現代社会において、自律的に思考し、他者とのコミュニケーションを行うためにリテラシー教育は必須である。

 

第三章 リテラシーとリテラシー・スタディーズ

 日本は、先進諸国では稀有であるが、本人訴訟が認められている。けれども、裁判所は弁論主義の立場をとっているため、訴状のリテラシーがわからなければ、その権利を行使できない。それを学ぶには、まずは、入門書を開き、手本を真似てみることだろう。ミメーシスはリテラシー習得の第一歩である。

 マンガのリテラシーによる批評を展開している夏目房之介は、『マンガはなぜ面白いか』において、それをミメーシスから始めたと次のように述べている。

 

 私が描線について拘るのは、自分もマンガを描いていて重要だと思われる描線について、既成のマンガ批評が何も語っていないという欲求不満からきているところがあります。ただ描線について語ると口ではいっても、それを言葉にするのは大変難しいことです。私自身はそこのところを、マンガを模写して、線をなぞったときに受けるイメージを言葉にすることで何とか乗り越えようとしてきました。

 これは、じつはそれほど特異な手法ではなく、たとえば昔は絵の練習といえば先生の絵をマネすることから始めましたし、書もそうでした。先人の名筆をマネして書く「臨書」という方法があります。そうやって勘所をつかみ、徐々に自分のものにしてゆくわけです。みなさんも教室で退屈な授業の最中などに、よくマンガの模写をして遊んだと思いますが、そういうイタズラの中にマンガの描線を語るきっかけがあるわけです。

 きちんとペンで模写してみると、その作家が何を感じてこの線を描いたのか、どこで苦労して線を描いているかが直観的にわかります。この方法はたしかに直観的にすぎるきらいはありますが、批評の方法としては、それほど変わったものではないと思っています。

 私も子供の頃からマンガをマネして描いているうちに、マンガがもっている文法のようなもの、様々な約束事をおぼえ、誰に習ったわけでもなくマンガを描くようになりました。いま、私がマンガを批評する作業は、いわば自分でマネしながら習いおぼえたマンガの表現のしくみを、逆にさかのぼって解いてゆく作業だといってもいいのです。

 

 リテラシーは習得してしばらく経つと、往々にして、その過程を忘れてしまう。リテラシーを誰かに伝えようとするときに、それを意識する。リテラシーはミメーシスによる過程の想起とコミュニケーションにおいて見出される。リテラシーから考察するには、「自分でマネしながら習いおぼえた」その「しくみを、逆にさかのぼって解いてゆく作業」が欠かせない。

 コミュニケーションなど共通理解が図られるときには、ルールが生まれる。その意味が読みとられ、活用法が模索されて、リテラシーが生じる。こうしたリテラシーに着目する批評をわれわれは「リテラシー・スタディーズ(Literacy Studies)」と呼ぶことにしよう。それはリテラシーに焦点を合わせる以上、ルールがあるものすべてに、すなわち政治・経済・軍事・宗教・文化のいずれにも用いることができる。人文科学・社会科学・自然科学といった学問諸領域のみならず、芸術、料理、マンガ、スポーツ、格闘技、ゲーム、服飾、化粧、園芸、飼育、表情、しぐさ、運転、犯罪などありとあらゆる人工的・自然的・社会的事象を取り扱う。とは言うものの、新しい批評というわけではなく、既存の批評理論や学問研究、実践の成果に則っている。リテラシーに注目するのは、それにより広義のコミュニケーション全般を扱うことができるからである。コミュニケーションが真の主眼である。リテラシー・スタディーズはあくまでも批評であって、謎解きではない。

 リテラシー・スタディーズを試みる際には、そのメディアが何を扱っていないのかも問う必要がある。それはメディアの特性上の困難さに起因するのではなく、「資金のスポンサー」などのように、触れることがそこでタブーだというのが真相の場合も少なくない。渡部直巳は,『不敬文学論序説』において、日本の文学が天皇を主題とすることに消極的で、まるで共和国であるかの錯覚をしてしまうほどだと批判している。こうしたアンタッチャブルは、概して、そのメディアや立脚する社会にとって大きな問題であり、それを究明していくと、そこの体質もしくは土壌が顕在化してくる。この立ちのぼってくる生臭さを忌避しない態度なくして、リテラシー・スタディーズは批評たり得ない。

 ベルトルト・ブレヒトは演技における「社会的動作」を強調している。それは個人が他者との関係の上で用いる動作や行動、しぐさ、表情、用語、イ ントネーションの総体であり、その人のパーソナリティや社会的地位を表象する。これもリテラシーのもたらす現象である。水道事業者には水道事業者のリテラシーがあり、小学校の事務職員には小学校の事務職員のリテラシーがあり、神経内科医には神経内科医のリテラシーがあり、ごみ収集者にはごみ収集者のリテラシーがある。職業に限ったことではない。聴覚障害者には聴覚障害者のリテラシーがあり、同性愛者には同性愛者のリテラシーがあり、在日カンボジア難民には在日カンボジア難民のリテラシーがある。行政訴訟には行政訴訟のリテラシーがあり、フェア・トレードにはフェア・トレードのリテラシーがあり、労働運動には労働運動のリテラシーがある。リテラシーを知らなければ、効果的な実践ができないだけでなく、それに参加することも認められない場合さえある。マスターしている者には、意識していようがいまいが、リテラシーを通じて認識する固有の世界ないし「認知地図」がある。自動車販売の営業と中華レストランのコック、シュー・フィッター、国際線の客室乗務員、シーア派ムスリム、緑内障患者とでは、リテラシーが違う以上、見える世界が異なる。リテラシーを学ぶ意義はメディアに騙されない防衛策だけではない。そもそも、アドルフ・ヒトラーは、『わが闘争』の中で、いかにして熱狂する世論をつくりあげるかを詳細に明かしている。たんにノウハウを知っただけでは、ナチズムの権力掌握をとめる動機にはなっていない。専門的なリテラシーの視点から読解し、本質的で固有な議論につなげていくためでもある。

 映画監督の小栗康平は、夏目房之介の作品同様、リテラシー・スタディーズの手引書とも言うべき『映画を見る眼』の「はじめに」において、次のように述べている。

 

 人がなにかを伝えるためには、相互に共通する規範、約束事がなければなりません。「ことば」でいうところの文法が、これにあたるでしょう。夢が心理学の対象として解釈されることはありますが、そこから夢の文法が導き出されてくるわけではありません。

 映画はどうでしょうか。自分が感動した映画のよさを人に伝えるのも、やはり容易ではないように思います。ストーリーはこうだった、俳優はこうだった、画面がいい、リズムがいい、音楽がと、いろいろいいつのりますが、どこかで本当に自分が感じたままのことがいえていない、そんな思いを残してはいないでしょうか。

 これも映画の規範にかかわる問題です。映画は夢とは違ってたくさんの人たちと見るものですから、そこにはわかりあうための、なんらかの約束事があるはずです。映像表現としての固有の技法も明らかにあるのですが、なにせ相手が映像です。言葉ではありません。いい映画ほど夢によく似てもいるのですから、やっかいです。

 私は映画にも、作り手それぞれの文体があると思っています。文体とは、文字のスタイル、語彙・語法・修辞など、いかにもその作者らしい文章表現上の特色をさす、と辞書にはあります。映画の文体はどのように形成されるものでしょうか。

 映像のリテラシー、読み書きの能力とはなにか、を考えることにもなるでしょう。文学には小説もあれば詩もあります。小説の書かれ方もさまさまです。映画や映像の表現も一律ではありません。もう少しそこを丁寧に読み解いてみよう、というのが本書の主旨です。

 

 映画には映画の言語がある。しかし、そのネイティヴ・スピーカーは存在しない。外国語として体系的・組織的に学ばなければならない。映画語にも、サイレント映画の古典語、アナログ技術時代の近代語、デジタル技術の現代語がある。さらに、世界各地の映画の傾向による方言がある。他にも、ドキュメンタリー語、アニメーソン語、テレビ語など隣接していたり、関連している言語もある。こうした言語のリテラシーを十分に学んでこそ、本質的な批評を行うことができる。

 俳優は脚本を与えられると、それを熟読し、担当する役に関する演技の基本方針を決める。その際、役を自分に近づけるか、自分を役に近づけるかという二つのアプローチをとり得る。前者が古典的な「芸」とすれば、後者は近代的な「演技」と呼ぶこともできよう。両者は、スタニフスラフスキー・システムに従った訓練を受けていたとしても、たいてい、混じり合い、その配分は俳優の資質や志向が羽意去れている。いずれにせよ、役柄の持っている固有のリテラシーを理解していなければ、演じる資格はない。

 また、媒体のリテラシーが異なるために、それがセリフ劇なのか、ミュージカル劇なのか、映画なのか、テレビ・ドラマなのかを考慮して、演じなければならない。脚本自体にも言えることではあるけれども、リテラシーを無視して、自分のスタイルを貫こうとすれば、見るに耐えないものに終わってしまう。いずれにせよ、役者は脚本をたんに読むだけでは不十分であり、それが指し示している意味を読みとる能力が必要とされる。

 メディア固有の技法は実際の人間の体感との間で齟齬を生じることもある。人はじっくり見たいと思うと、顔を近づける。しかし、それを動画にした場合、逆の効果がおきてしまう。動画において距離の遠近法は時間の緩急としても知覚される。アップのシーンでは時間が速く、ロングになると、遅く感じられる。こういう固有のノウハウを知らないと、そのメディアを使ったコミュニケーションは成り立たなくなってしまう。

 ワン・クールの連続ドラマにしろ、一話完結の二時間ドラマにしろ、テレビ・ドラマは、映画と違い、お茶の間で視聴されるため、画面を見続けていなければわけがわからなくなるのでは困る。ちょっと台所へビールをとりに行ってもどうなっているかをつかめるように、音声を聞いているだけで、物語の展開がわかるようにしなくてはならない。当然、絵の持つ情報量は低くなり、音声の占める役割が大きくなる。

 また、平田オリザの『演劇入門』によると、カメラ・ワークのない舞台ではセリフによって遠近法を示さなければならない。最初に現前の場面から遠いセリフを発し、徐々に近づけていく。ウィリアム・シェークスピアの『マクベス』は、荒野にいる三人の魔女が登場し、魔女1の「いつまた三人、会うことに?」のセリフで幕を開ける。さらに、物語は出来事の連鎖ではなく、舞台への人の出入りにより展開する。そのため、見せ場は劇の冒頭の方につくられ、ミステリーのような最後にトリックが暴かれるプロットは向かない。第一幕第三場で、マクベスは自分が王になるという魔女の予言を知る。

 同じ舞台であっても、セリフ劇とミュージカルでもリテラシーは異なる。ミュージカルにおいて、歌や踊りの場面は内面の発露や感情の爆発を表わす。そのため、深い内面性や複雑な問題を扱うことは難しい。音楽に重点を置きすぎて、ストーリーや演技がおろそかな作品となることもまま見られる。お客も、セリフ劇よりも娯楽性を求める層が足を運ぶ。

 るある作品を別のメディアで表現しようとする場合、その特性の違いから、テクストをアレンジすることは不可避である。翻訳作業が要る。ジョージ・バーナード・ショウの『ピグマリオン』において、イライザ・ドゥーリトルは独身主義者のヘンリー・ヒギンズ教授の元を離れて、おそらく失敗すると思われるにしても、フレディ・アインスフォード=ヒルと結婚するが、それをミュージカル化した『マイ・フェア・レディ』では、彼女は教授と結ばれる。言語と階級という英国の社会的問題よりも、シニカルさを抑え、メロドラマ性が強調された結末となっている。これは、タイトルの変更が予告している通り、セリフ劇とミュージカルのリテラシーの差異から生じた改変の一例である。

 さらに、リテラシーの変容が社会の変化を表象していることも少なくない。今日のデジタル技術に立脚したヴァーチャル・リアリティは遠近法を明暗によって見せている。テレビは。それ加色法の世界である。現在普及しているモニターは、ブラウン管にしろ、液晶にしろ、プラズマにしろ、発光して像を形成する。そこで示される遠近法は毛様筋の伸縮による焦点の調整ではなく、瞳孔の開閉によって感じられているものである。見続けていれば、眼は疲労し、視力低下の危険性がある。光はR()G()B()の三原色によって構成され、それらをすべて混ぜ合わせれば、白くなる。デジタルがそうした光の世界だとすれば、アナログは色の世界である。デジタル・カメラは対象の光を読みとるため、夜であっても、わずかにでも光ってさえいれば、特に光源を準備しなくても、対象を撮れる。他方、アナログ・カメラは反射光をフィルムに写しとる。フィルムの感度の差はあるが、光源がなければ、撮影はできない。色は減色法に従っている。赤・青・黄の三原色をすべて混入させれば、黒くなる。RGBではなく、シアン()・マゼンタ(青)・イエロー(黄)・ブラック(黒)の四色を重ね合わせてつくり出す世界である。映画のために、夜を撮影しようとするなら、昼間に、フィルターを入れて、絞り(F)を絞らなければならない。もしデジタル・カメラで同様の撮影をすれば、出来上がったシーンは白くなってしまう。今のヴァーチャリティには、真の意味で闇はない。しかし、それは、現代社会に真っ暗闇がないように、今という電気の世界の本質を表象しているとも言える。光の混合加算により、社会に白い空白が生まれているというのに、「心の闇」や「社会の闇」、「アンダーグラウンド」という比喩はあまりにも時代錯誤すぎる。「社会のベゾルト-ブリュッケ現象」や「社会のブローカー・スルツェ現象」など光にまつわる効果を譬えに用いるべきだろう。

 また、リテラシーの特性が人の思考や規定していることもある。東浩紀は、『動物化するポストモダン』において、すべての価値が「スーパーフラット」なポストモダンを体現するオタク文化の特徴として「キャラクター」への思い入れを挙げているが、これはアニメーション語のリテラシーに起因する。実写はカメラを用いるため、どこかに焦点を合わさなければならないのに対して、使わないということではないけれども、アニメはカメラの制約から解き放たれている。同一の画面の中で一本の木と一人の人間を描こうとした場合、実写では焦点の都合上、どちらかを主にせざるを得ないが、アニメにおいては、「スーパーフラット」であるため、両方を主にできる。アニメは、カメラの遠近法に縛られず、どこまでも平面的な視覚を提供する。役者の演義という曖昧なものを排除し、世界を平面に分割して、時空間は自由に扱え、寓話的なリアルさを観客に訴える。「シュミラークルの全面化」(ジャン・ボードリヤール)であるアニメは、物語性が希薄であるなら、すべてが主役であり、同時に主役が不在の世界を描ける。実写はどんなに平面的にしようとしても、カメラの遠近法が作用しているため、観客に立体性・実存性を思い起こさせてしまう。ところが、物語性を強くしようとすると、その遠近法の欠落さにより、その展開をセリフに依存せざるをえない。ウォルト・ディズニーのアニメでキャラクターがセリフを喋らせたように、何かを主にするため、セリフがその記号の機能を果たす。「なにもかもが『見えるもの』から『わかるもの』になってしまったのです」(『映画を見る眼』)。東が強調するキャラクターへの偏愛はここから生まれている。キャラクターとセリフへの傾倒はアニメをラジオ・ドラマとしてそのまま使えるようにさせてしまう。この背景の下、吹き替え以上に、アニメを中心にして声優が脚光を浴びる。それでいて、大部分の日本のアニメは映像的には極めて保守的であり、アニメで描写する必要性は皆無になってしまい、自己完結性だけが強まっている。「カメラが入るポジション、見せ方は、オーソドックスで、落ち着きのいい実写のそれとなんら変わっていません。実写の映画のセオリーをそのまま引き継いでいます。動植物が人間の言葉を喋ることで人間化しているとしたら、どんなお化けであろうが、これは人間ドラマです。さまざまに工夫された絵柄によって、ファンタジーであることから目を覚まさせない、人間のセリフ劇です」(『映画を見る眼』)

 小栗康平は、『映画を見る眼』において、従来の映画批評はリテラシーを十分に考慮してこなかったと次のように批判している。

 

 映像はものの外側に当たった光が反射されているものです。内部はもともと関係ありません。だからこそ、それをとう内的な表現にするかということが問われるはずなのに、時間がそれを裏切るとでもいえばいいのでしょうか、なにか別なものに置き換えられてしまうのです。それを映画独自の「聖なる時間」ととらえて、だからこそ映画は「映画の王国」を作り出すのだ、そう考える人たちもいます。記号論が映画批評に持ち込まれて以降、積極的に映画のニュートラルな時間感覚を武器にして、映画そのものを意味論から解き放つ、そういう考え方をもつ人たちも増えてきました。なかには外部化された時間に運動という概念を当てはめて、映像の表面性をことさら強調する評論もあるようですが、そこで語られる言葉自体が空回りしていて、なんだか映画そのものと関係ない言説というふうにも思えることがあります。哲学や思想、美学などいろいろな力を借りて、もっと慎重に説き明かしていかなければならない、映画のむずかしい側面です。

 

 これは映画に限った事態ではない。リテラシーを無視もしくは軽視して批評が広範囲でまかり通っている。

 リテラシーという観点から見れば、先に言及した村上春樹の『アンダーグラウンド』は問題点が多い。「顔のない多くの被害者の一人」ではなく「一人ひとりの人間の具体的な──交換不可能(困難)な──あり方」を浮き彫りにすると言いながら、証言者のプロフィールにおいて、「いかにも若々しい青年」や「いかにも思いやりがありそうだ」、「いかにも育ちのよい」といったように、村上春樹は「いかにも」を連発している。「具体的」どころか、その描写をしていない。別に、プライバシー権に配慮しているわけでもない。言っていることと実際に行っていることが食い違っているだけだ。村上春樹の文章は社会性が未熟なために、その人の固有性を伝達する力が貧弱である。ジェリー・コールマンというアナウンサーは、「マウンド上には、ピッチャーのランディ・ジョーンズ。彼はカール・マルクスのような髪型をしたサウスポーで、バッター・ボックスに立ったフー・マン・チューのようなヘア・スタイルのラボスキー選手に向かって、第一球を……」という感じでMLBの中継をしているが、村上春樹と比べるまでもなく、固有名詞の喚起力を巧みに使い、非常に「具体的」な表現である。ソープ・オペラ的なステロタイプは直感主義的で、解釈する必要がなく、受動的に接していても、即効的に、その意味を理解している錯覚に陥らせる。にもかかわらず、村上春樹はこう告げている。「基本的に、自分が現在前にしているインタビュイーの一人ひとりを、個人的に感情的に好きになろうとつとめた」。

 「ノンフィクション」だけでなく、村上春樹の小説作品にも、リテラシーの視点から読みとると、ろくに調べもせず、思いつきと思いこみを言語化した問題点を無数に発見できる。移調学期の特徴を知らないままに、交響曲のスコアを書いているようなものだ。くどくなるので、ここでは具体的な箇所に立ち入ることは差し控えざるを得ない。文体はリテラシーに則った上での各作家に見られる特徴であり、リテラシーが無視されていれば、それは文学以前にすぎない。特に、村上春樹の作品は、文学ジャンルで言うと、「ロマンス」に属している。この物語形式は、最初に結末が提示され、すべての要素はその目的を実現するために奉仕されていく。「なぜこうなったのか」を導き出すのに無駄なものや余分なものは排除される。こうした円環構造のため、ノースロップ・フライの『批評の解剖』によると、ロマンスは現実を描くと言うよりは、作者の願望充足を最も満たす。多様性を押し出し、書き手の自意識の優位が確認される物語である。こうした特徴のジャンルなので、独りよがりにならないためにも、綿密なリサーチをして創作に臨まなければならない。しかし、小説内で登場人物の「社会的動作」などのリテラシーの差異を書き分けられていなければ、そういうずさんで怠慢な作品を文学として評価の対象とすることはできない。文芸批評に必要なリテラシーに達していれば、それは極めて容易いことである。「自分の思いこみから自由になること。それが事由にとって、なにより難しいことなのだけれど」(森毅『地図にない未来』)。

 

第四章 リテラシーと物語の氾濫

 現代社会では、ネットの普及によりさまざまな領域で民主化が進んでいると同時に、かつてないほど専門性が高まっている。この二つの潮流の出現は無関係ではない。一九六〇年代頃に、線形的思考に裏打ちされた閉じられた体系に不具合が見つかり始め、諸領域で行き詰まりが感じられ、七〇年代に入ると、それを打開するために、開かれた学際的研究が本格化する。高度に専門化・細分化していた研究者が別の領域と出会い、その際、コミュニケーションを成立させるために、異質で多様なリテラシーをお互いに確認・共有・発展しなければならない。途上国における経済問題を扱うには、先進国で成功もしくは普及した政策をそのまま適用することはできない。先進国であれば、細分化され、その筋の専門家が大きな役割を果たしている。けれども、途上国では、先進国以上に広範囲で奥行きのある思考が要求される。「人間の安全保障」はその端的な例である。このような状況では、高度な専門性はリテラシー教育を意識していなければ、自閉してしまい、公共性・公益性から離れてしまう。それに、熟達者にとっても、暗黙の前提であるリテラシーを言語化することは、夏目房之介が告げている通り、現に到達するまでのプロセスを想起させ、思考の質的向上につながる。

 実際には、専門家は非専門家にそのリテラシーの説明を怠ってきたため、彼らへの疑念が抱かれるようになる。乱暴で、短絡的な非専門家が喝采を持って迎えられるが、知識や経験が乏しく、破戒と混乱をもたらしてしまう。これはジョージ・W・ブッシュ大統領のことだけではない。しかし、未熟な技能しかないゴールキーパーにチームの命運を任せることはしないものだ。むしろ、現代はより高度な専門性が必須なのであり、専門家はリテラシーを説明する責任が果たさなければならない。

 地理学において、GISという方法がある。一般には「地理情報システム」として知られ、G”Geographic”I”Information”の略であるが、Sをめぐって何を指すのか変遷している。最初は”System(システム)”、次に”Science(サイエンス)”、さらに”Study(スタディ)”、今では”Service(サーヴィス)”と専門家たちは考えている。この段階論は他の学問にも言えるだろう。サーヴィスの段階に至って、初めて、公共性・公益性に貢献できる。

 リテラシー・スタディーズはこうした要請を踏まえている。その考察には、高度な専門性を前提とする。と同時に、入門書としての役割も果たしていなければならない。リテラシー・スタディーズはリテラシー教育を意識することで、サーヴィスとなり得る。

 けれども、リテラシーへの関心以上に、小栗康平は、『映画を見る眼』において、現代日本社会には物語が氾濫していると次のように指摘している。

 

 前の章で、「埋もれ木」は二つの物品がパラレルに進んで行くと書きましたが、映画の中で女子高生たちが作る架空の物語は、劇中劇に近いものです。映画という劇の全体を括るだけの、単純で強い物語は「埋もれ木」にはありません。あるのは映画の登場人物がつくるゲームとしての物話、これはいわば言葉遊びといってもいいものですから、人物そのものを語る物誌にはなりません。過去にどんなことがあり、それが今、このことにこうつながっているという因果関係、起泳転結をもたないのです。

 劇中で、「物語は乗りもの。私たちはそれに乗って、ただ生きているだけ」「でも、選べるのかなあ、その乗りものって」「だって、物語は、ことば、だから」といった会話がやりとりされます。もちろん私たちは、言葉だからといって自由に、自分の物語をじっさいの人生の中で生きられるわけではありません。女子高校生のそれはロール・プレー イング・ゲームと同じことです。

 しかしこのゲームは、ゲーム・マスターがいて、ある約束事のもとにという限定があるにしても、物語の展開はプレーヤーのそれぞれにまかされています。映画のンナリオはストーリー・テラーとダイヤローグ・ライターが別な人でも問題ないのに、小説では地の文と会話とを別な人が書くことはない、そういいましたが、このゲームは映画的な物語のつくりに似ている、そういえるかもしれません。ゲームや漫画から小説、映画が作られたりしていることを考えると、こうした手法がさまざまな物話づくりにまで持ち込まれるようになった、そうもいえるでしょうか。

 ここには二つの問題があるように思います。一つは、世の中のいたるところで物語が過剰にあふれていることと関係する事柄です。しばらく前から大ヒットしたパチンコの機種名は「海物語」です。もちろん、パチンコ屋さんでドラマを追うはずもなく、ただCGでつくられた色とりどりの魚が動いているだけのものですが、物語というネーミングになにやらロマンを感じたことも、この機種をヒットさせた原因の一つではあったように思います。

 世の中が物語を欲しがっている、ということなのでしょうか。結婚式の披露宴で流される新郎、新婦のなれそめをつづる映像。ナレーションで語られるのは赤い糸で結ぼれていた運命の出会いです。余興といえばそれまでですが、私などはとうもつき合いきれません。物語化できるほどの起伏のある毎日を生きていない、その裏返しとしての物語。使い古された陳腐な物語はテレビにもあふれ、テレビのコマーシャルの中ででも「物語」が語られています。物語は語るというカタストロフィーを与えてくれますから、ぼんやりした人生だってそれなりの居場所を見いだすことができるということでしょうか。物語は今日、いたるところで消費されています。

 もう一つの問題として、「私」というものが不確かになり、とらえにくくなった、そういう事情もあるのかもしれません。歴史的な現実、社会的な現実といったものに対応するかたちで、私たちは自我のありよう、私のありようをつかみにくくなっています。若い人たちに対して批判的にいわれる社会性、歴史性の欠如といったことも問題でしょうが、私たち自身の中にも、なにに向かって私とはと問いかけてきたのか、その設問のあり方が揺らいでいる、そういう実感があるのではないでしょうか。こうありたい、こうあるべきだという考え方が、もしかしたら数ある問いの一つでしかなかったのではないか、そんな反省です。

 

 流動性の高いために、「自我のありよう、私のありようをつかみにくくなって」、物語の登場人物としての自分自身を認識することで「私」を感じられる。自意識が優位となり、多様性を拒み、「物語は語るというカタストロフィー」を味わっている。気恥ずかしさを覚えることはあったとしても、深く踏みこみはしない。しかし、実際には、それらは陳腐で、類型的でしかない。自己に対する批評意識の中に「私」が生成してくるのであって、固有の物語はそこから編み出される。リテラシーから思考することは自分の思い込みや思いつきを相対化するのに、それを知らないまま、氾濫する物語に接し、依存している。「その生き方にこだわるのは、なによりつまらない。人間はいくつになっても、新しい自分を楽しむことで生きていくものだから」(森毅『老後の安定より老後の自由』)。今、最も必要なのは物語ではない。批評である。

〈了〉

 この作品の執筆にあたり、青山貞一武蔵工業大学教授ならびにえのきどいちろう氏から頂いた示唆が参考になっている。両氏には感謝したい。

参考文献

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