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ヘイト出版と出版者倫理

佐藤清文
Seibun Satow
2014年11月25日

初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「ぼくたちは、かけがえのない地球に『同乗』している、仲間です」。

手塚治虫


 今日は企業の社会的責任が問われる時代である。投資家の間にも従来の財務分析のみならず、CSRを重要な基準として判断する社会的責任投資が広がっている。また、専門家集団も社会の中にあることを自覚し、倫理規定を設けている。それは社会との関係における自らの再定義である。

 このような潮流にもかかわらず、出版産業はCSRや倫理を軽視していると言わざるを得ない。その理由は「ヘイト出版」である。出版界が社会との関係において時代遅れの認識しかもっていないことを露わにしている。

 国連人種差別撤廃委員会は、2014年8月29日、日本政府に対してヘイトスピーチ問題に毅然に対処し、法規制を求める勧告の最終見解を公表している。日本のヘイトスピーチは国際問題化している。

 ところが、書店の店頭には人種差別や排外主義を扇動する書籍が並んでいる。出版産業は先の勧告を無視しているというわけだ。かねてより出版界は反ユダヤ主義の書籍に関する自主規制をしていないように、レイシズムに甘い。しかし、専門家によって構成される国際機関の勧告を聞き入れないのは、グローバル・コミュニティの意思への侮辱だ。勧告以前に、出版産業は国内外書籍・雑誌を扱っており、国際社会の意思を示すものも含まれている。出版に携わりながら、それが読み取れないとすれば、リテラシーがないと言わざるを得ない。

 14年6月17日付『朝日新聞』の「『嫌中憎韓』ブーム 出版界から『これでいいの?』」によると、中韓を非難する書籍が売れ始めたのは13年秋頃からである。今年上半期、トーハンの新書・ノンフィクション部門の週間ベストセラーには『韓国人による恥韓論』や『犯韓論』などヘイト本がベスト10に7冊も入っている。書店はこういったレイシズム本を平積みにしている。

 ヘイト出版の特徴は対象を抽象化・断片化した上で、それを具体的総体として独断する点にある。対象を抽象概念によって断片化し、それを具体的な総体として構成して断じる。部分的に見れば、抽象概念であるから、事実が含まれている。しかし、それらのつながりや解釈が嫌悪感に基づき、恣意的な理解が示される。

 デフォルメは想像力に制約される。それは、だから、その人の想像力を露わにする。実は、日露戦争後に米英を扱ったヘイト本が盛んに出版されている。赤木桁平のタイトルだけでも、今とさほど違わず、ヘイト本が貧しい想像力の産物だとわかる。『米国怖るゝに足らず』や『世界を脅威するアメリカニズム』、『大英帝国日既に没す』、『六割海軍戦ひ得るか 続米国怖るゝに足らず』、『宿命の日米戦争』、『天才帝国日本の飛騰』など彼の著作のほんの一部だけでもヘイト本が貧困な想像力で書かれていることが承知できるだろう。

 当時の風潮に乗って台頭してくる政治家が近衛文麿である。ヘイトスピーチの拡散する時代背景で首相に就任した安倍晋三は彼とよく似ている。

 こうしたヘイト出版の売れ行きとヘイトスピーチの広がりは相関性があるだろう。樋口直人徳島大学准教授は、14年10月2日付『朝日新聞』の「ヘイトスピーチの処方箋」において、その運動が社会に対する不平や不満に基づく排外主義でないと指摘する。欧州の急進右翼は移民の増加により摩擦が増え、排外主義の広がりを背景に勢力を拡大する。しかし、日本のヘイトスピーチの参加者は摩擦どころか、日常生活において外国人との接点すらない。

 社会心理学の成果を参考にすると、在日の実情を知らない人々が運動を起こすことは必ずしも不思議ではない。戦争などで憎悪や暴力を煽る際、自分たちとの異質性と相手の非人間性を強調するため、ステロタイプやレッテル張りが利用される。他方、親しい交流があれば、自分たちとの共通性や相手の人間性を認知するので、共感を抱く。

 この排外主義の鍵は歴史修正主義である。東西冷戦の陰で、日本において修正主義が生き続ける。同じく冷戦にあっても、ECやNATOなど欧州の中で自らを位置づけるドイツは歴史認識を共有する必要があり、戦後秩序を否定したり、ナチスを肯定したりする修正主義と決別している。一方、中国や北朝鮮は東側、韓国と台湾は独裁であるのに対し、日本は西側陣営の自由民主主義体制の国である。この状況では共通基盤が必要とされない。

 しかし、冷戦後、日本は国際社会との共通基盤を持つことを迫られる。それが歴史認識である。日本は修正主義を否定しなければならない。国際社会は、戦後秩序の中で、植民地主義の負の遺産の清算や戦争犯罪の根絶など現代的課題に取り組んでいる。ところが、修正主義はその姿勢に反する。世界の中の日本であるなら、それと決別しなければならぬ。

 修正主義者は信念を維持するため、冷戦の継続を主張する。ソ連は解体したが、中国や北朝鮮のいる東アジアでは冷戦が続いている。彼らは断片的な事実や情報を都合よく組み合わせてそう言い、修正主義を見直すことをしない。

 2000年代に入り、北朝鮮による拉致問題が政府間レベルで認められる。修正主義勢力はこれを口実に使う。日本は加害者として扱われてきたけれども、実際には被害者だと声高に叫ぶ。総連系の在日への嫌がらせが繰り返される。また、小泉純一郎首相の靖国参拝を始め修正主義の正当化により、北朝鮮のみならず、中韓との外交関係も悪化する。月刊誌などの右派論壇は近隣諸国への批判を繰り広げ、修正主義を正当化するきわどいレトリックを乱用する。出版が排外主義的言説を垂れ流す。

 ヘイトスピーチの行動のきっかけは00年代後半に定着したネット動画だ。憂鬱のような曖昧な気分と違い、憎悪は具体的な対象に結びつく情動である。憎悪が視覚を通じて行動に転換し、街頭でヘイトスピーチが始まる。

 インターネットは現実を増幅する。90年代からネット掲示板で修正主義的・排外主義的言説が活発化している。その後、SNSの進展と共に、それがさらに広がる。それらは反差別法のある欧州でなら監視組織によってたちどころに削除されるものでしかない。ヘイトスピーチの憎悪もネットを通じて扇動される。その情報源は右派論壇である。それを根拠に妄想としか言いようがない歪曲や捏造の情報がネットで拡散する。

 一例が「在日特権」だ。在日は「特別永住者」であり、それは特権だとヘイトスピーチの正当化に利用されている。しかし、これは根拠がないデマである。有田芳生参議院議員が14年11月11日に提出した質問主意書に対し、「特別永住者」には50ヵ国の人々が日本で認定されており、それは「特権」でなく、「資格」であると政府は答弁している。

 修正主義の正当化を目的にした排外主義的言説だから、植民地支配の負の遺産である在日がヘイトスピーチの対象となる。ヘイトスピーチやレイシズム言説の法規制は修正主義の否定につながるため、その支持者がいる政府や国会は消極的である。

 ヘイトスピーチを生み出した責任の一端は出版界にもある。もちろん、この風潮に出版界内部からも異議が申し立てられている。河出書房新社は、今年5月、全国の書店に呼びかけて選書フェア「今、この国を考える」を開催する。ジュンク堂や紀伊国屋書店など約150店が応じる。今読むべき本としていとうせいこうら著名人19人が選んだ18冊を紹介している。また、中小出版社の業界団体「版元ドットコム」はネット上で「反ヘイト・アンチレイシズム」フェアを始める。加盟11社が参加、26冊を紹介している。

 後者のフェアで興味深い出来事が起きている。関東大震災の朝鮮人虐殺を扱った『九月、東京の路上で』が初版2,200部で販売されると、2カ月で3刷に達する。出版元の「ころから」の木瀬貴吉代表は署版を10年かけて売るつもりだったと告げている。「反ヘイト・アンチレイシズム」の書籍も売れるというわけだ。

 さらに、ころからは「ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会」編の『NOヘイト! 出版の製造者責任を考える』を刊行する。

 「ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会」趣旨文がこの本の冒頭に次のように掲げられている。

 中国や韓国など他国および民族集団、あるいは在日外国人など少数者へのバッシングを目的とした出版物(便宜上「ヘイト出版」と総称します)、そして、それと関連して日本の過去の戦争を正当化し、近隣諸国との対立を煽るような出版物は、すでに「産業」として成立しています。『マンガ嫌韓流』が話題を呼んでから約10年。いまや名の知れた大手出版社が同種の本を出し、何万部という部数を競う現実があります。

 ヘイト出版は産業であり、レイシズムで出版界はカネ儲けをし、社会的責任を果たす気などない。出版社は表現の自由を根拠に正当化するが、それは口実でしかない。ある程度の販売部数を計算できると同時に、国外を対象にすれば抗議されたり、訴えられたりしないだろうとの予想から刊行している。事実、国内の民族派を刺激するような書籍は出版されたり、店頭に並んだりすることが難しい。ノーベル文学賞作家大江健三郎の『セブンティーン』第2部がいまだに書籍として刊行されていないことからも明らかだろう。この現状で表現の自由を理由にレイシズム出版を続けるのは筋が通らない。

 法規制がなく、需要があるから、販売していると出版界が開き直るとすれば、それは薬事法の網をかいくぐっていわゆる危険ドラッグを売っているショップと同じ姿勢である。法規制は事後的紛争解決として制定される。その規範は他律的である。この法の限界を補うのが倫理である。倫理は自律的判断によって事前に問題発生を抑制できる。プリント・メディアの行動が社会に破壊や殺戮、災禍をもたらしたことも少なからずある。事実、先の赤木桁平を始め作家が戦後にA級戦犯として戦争責任を問われている。出版者には法的規制以前に自主的倫理を持っていなければならない。それは「出版者倫理」と呼ぶことができよう。

 『NOヘイト! 』には次のような出版者倫理が語られている。

 出版を生業とする私たち自身が、ヘイト出版に異議を唱える上では葛藤もあります。しかし、だからこそ、「自分は加担しない」という個々人の表明に期待します。
 「私は、差別や憎しみを飯の種にしたくない」
 「私たちの愛する書店という空間を、憎しみの言葉であふれさせたくない」
 私たちはそう表明し、本を愛する多くの方々とともに、この問題と向き合いたいと願います。

 社会の中の自分たちの位置づけを再定義する。この認識に基づいて、倫理を持つことは自律した存在だという自己認知である。ヘイト出版はそれを見失っている証だ。出版界はこの本の問題提起を発展させるべきである。

 表現者が倫理を持つことの重要性をいち早く説いていたのが手塚治虫である。マンガの神様は、『マンガの描き方』において、次のようなマンガ家倫理を提唱している。

しかし、漫画を描くうえで、これだけは絶対に守らなければならぬことがある。
それは、基本的人権だ。
どんなに痛烈な、どぎつい問題を漫画で訴えてもいいのだが、基本的人権だけは、だんじて茶化してはならない。
それは、
一、戦争や災害の犠牲者をからかうようなこと
一、特定の職業を見くだすようなこと
一、民族や、国民、そして大衆をばかにするようなこと
この三つだけは、どんな場合にどんな漫画を描こうと、かならず守ってもらいたい。
これは、プロと、アマチュアと、はじめて漫画を描く人を問わずである。
これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです。

 この3原則は神がマンガ界に与え賜うた倫理である。すべてのマンガ家はこれを守らねばならない。日本のマンガが世界に誇るべきところがあるとすれば、ここにある。出版界はこの神の声を聞け!
〈了〉
参照文献
加藤直樹他、『NOヘイト! 出版の製造者責任を考える』、ころから、2014年
手塚治虫、『マンガの描き方』、知恵の森文庫、1996年