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日本米は世界一?佐藤清文
Seibun Satow
2013年3月2日
初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁
「タイプが少し違う外国産米でも、水加減や浸漬時間などちょっとした工夫で、日本のごはんと同じように、あるいは日本のごはんに近づいた味が味わえるのです」。
『輸入米を使ったおいしいごはん料理』
『朝日新聞』に『経済気象台』という匿名コラムが連載されている。2013年3月1日は「提琴」による「日本米は世界一」である。長くないので、全文を引用しよう。真夏のオーストラリアを訪れた。日本の20倍の国土にわずか人口2200万人の移民の国だ。最近、日本を初めて訪れたという中国系の中年男性と会った。「ご飯がうまかった。白米と味噌汁さえあれば十分だ」と呵呵大笑しながら、日本のコメの美味しさに感激していた。以上である。従来の保護政策を批判し、日本米の品質は優れているのだから自信を持ち、価格の面で官民あげて努力をすれば、TPPも恐れる必要はない。ものづくりの伝統を米作にも生かす非常に前向きな提案で、よく理解できる。
タイ米や韓国米、カリフォルニア米、オーストラリア産などが店頭に並んでいた。だが、日本米は流通機構に乗っていないため、入手不能。「少々高くとも、あれば買いたい」とも言っていた。
日本料理の人気が高く、日本料理を名乗ったレストランが多くあるが、日本人の経営は少数派だ。ファーストフードの感覚で巻き寿司がサンドイッチと並んで街角で売られていた。回転寿司もある。いずれにも日本のコメは使われていない。日本人の舌には酢酸がおいしくない。
TPP交渉参加をめぐって、日本の農業関係者の反対が強烈だ。安い米が外国から入ってくれば、日本の農業が壊滅的に被害を受けるという理由だが、果たしてそうだろうか。
これまでの保護政策で日本の米作は鎖国状態にあり、TPPが黒船襲来のように受け取られている。国内市場のみを見て、潜在的な需要のある外国は眼中にない。自分たちの作っているコメが世界一おいしいことに自信を持ち、版路を世界に求めるべきだ。ただ品質ではどこにも負けないが、問題は値段が高いことで、価格も世界一のようだ。
自動車など工業製品はコスト高にもかかわらず、品質と価格の両面で国際競争力をつけている。農業でも可能ではないか。低価格化に官民あげて取り組むべき時だ。世界中の寿司に日本のコメが使われるようにしたい。
この著者に限らず、日本人は日本米が世界一だとしばしば口にする。価格の高さを改善できれば、世界中で流通し得る。けれども、この意識には注意が要る。と言うのも、稲作地域では、自分のところで作った米が世界一だと思っているからだ。世界一の意識を持っているのは日本人だけではない。
文化人類学者の内堀基光放送大学教授は、『「ひと学」への招待』において、世界各地で行ったフィールドワークの経験から、稲作文化圏では米に関するこだわりが見られると指摘する。稲作を行い、米飯を中心とした食生活の地域では、自分たち、あるいは自分と同じ文化に属すると認知している生産者が作った米が世界一だと信じている。しかも、稲作自給農民が稲の一本一本まで大切に扱うという姿勢も共通している。
内堀教授は、ボルネオ島で、イバンの若者が風にあおられて折れた陸稲を一本一本丁寧に立て直す光景を目にしている。ここの人々は自分たちの米がこの世で一番おいしいと神話を使って説明する。
人は死ぬと、天に上り、その魂は雨として地上に戻ってくる。稲はこの雨水によって発育する。米には祖先が宿っているのだから、世界で最もおいしいと信じている。祖先が自分たちの米をうまくさせているとも言える。いかに理屈を並べたてても、イバンの人は日本米を世界一だと思うことはない。
こうした世界一の意識の根拠を宗教に求めることはできない。稲作地域の宗教はヒンドゥー教や仏教、イスラーム、キリスト教、その他とまちまちである。日本人の米の世界一意識を天皇制と関連させる議論は恣意的な解釈にすぎない。
また、この意識は米自体から生じているのでもない。内堀教授によると、主食概念と結びついている。稲作地域では、主食と副食、すなわちご飯とおかずの区別が明確である。主食の作物がはっきりしていると、それに対する世界一の意識が伴う。実は、アステカでも、主食=副食の区別があり、トウモロコシを崇拝していたとされる。
多くの近代の思想や制度は西洋から世界に伝播している。西洋の食生活には主食=副食の区別が曖昧である。西洋の主導する産業や貿易には、主食の発想がなく、しばしば米など主食作物も工業製品のように扱う。そのため、主食概念のある地域との間で齟齬をきたすことも少なくない。
一方、日本人も主食概念を持ちながらも、それを理解しているとは言い難い。米をめぐる政策を見れば明らかだ。政府も生産者も主食の発想が何たるかをわかっていない。
主食の発想は社会の暗黙知である。それを十分に明示化しないままに、思いつきと思いこみに基づく価値判断から使っている。暗黙知を明示知にするには、幅広い視野による体系的比較、すなわちコロケーションが必要であるが、それをショートカットして、ヒューリスティックな文化論で独善的に納得している。
身近な物事ほど知ったつもりになって、体験や直観、生半可な知識で語ってしまう。しかし、それは自己認識の絶対化である。求めるべきはその相対化だ。日本の食文化が主食の発想を代表しているわけではない。
暗黙知はその外部にはよくわからない。と同時に、内部もそれをつかみきれていない。暗黙知は内部と外部が接触する時に、明示知として求められる。内部は体系的なコロケーションを通じて内在化された知識を形式化する。暗黙知を明示化して、異文化間の共通理解が可能になる。それは、内部にとっても外部にとっても、自分の認知を相対化させる。その時、お互いに認識は進化する。
〈了〉
参照文献
内堀基光、『「ひと学」への招待』、放送大学教育振興会、2012年
『輸入米を使ったおいしいごはん料理』、食糧庁=財団法人全国米穀協会、1993年