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日本国憲法とその新しさ

佐藤清文
Seibun Satow
2012年05月05日

初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「憲法というのは、この国の『使い方規則』と思っている」。

森毅『憲法は外注がよい』


 日本国憲法が還暦を迎える。人間だったら、日本では、赤いチャンチャンコを着て、みんなからお祝いをされるものだが、改憲を支持する人々がかつてないほど勢いづき、そんな光景は見られない。

 マスメディア上で、第九条を念頭に、理念と現実が乖離しているから改憲すべきだと主張している人たちが登場する。

 しかし、交戦権を憲法に入れようとしたところで、サンフランシスコ講和条約で日本は国際紛争の解決のために軍事力を行使しないとしているのだから、間の抜けた話だ。憲法はあくまで国内法である。国際条約以上ではない。それは、NPTに加わっているのに、核兵器の保有が可能だと口にするのと同じくらいに愚かである。

 こういう意見を発する人たちの顔ぶれには、イラク戦争に肯定的な見解を述べていた人が多いことに気がつく。

 この種の似非リアリズムほど危なっかしいものはない。国際的名声と政治的野望を求めて、状況を熟慮せず、性急に軍隊の派遣を判断し、失敗してしまうからだ。イラク戦争に突入したアメリカの指導部は、明らかに、知識と経験に乏しいくせに、専門的・批判的見解を無視している。また、先のイスラエルによるレバノン戦争も同様である。

 近代憲法は統治者を縛るものである。日本国憲法は国民の基本的人権を擁護するために、国家の権力的行為を規制し、国家機関にその服従を要求している。そういう制約があるから、慎重に考え、知恵を絞れるというものだ。部下に白紙委任状を持たせて、交渉に向かわせる上司はいないだろう。これは理念以前の利害の問題としてわかることである。それがわからない指導者だとしたら、したたかさとしなやかさを欠いた未熟者と言って過言ではない。

 日本国憲法は近代型であり、実は、現代型も世界にはすでに登場している。ドイツの基本法がその代表例である。憲法自身が価値を主張し、国民にそれへの忠誠を求めている。これは、民主主義的な手続きに則って権力を掌握したナチズムがワイマール体制を破壊した歴史を踏まえている。ドイツの基本法は「自由で民主主義的な秩序」を価値理念と規定し、その内容を連邦憲法裁判所が解釈している。それを侵害する憲法の敵は、個人であれ、結社であれ、政党であれ、基本的権利の剥奪、解散、地位の失効が強制される。現代憲法は、自らの持つ価値を脅かす敵と戦う。

 現在発表されている日本国憲法の改定のアイデアには、復古調や新しい権利の追加などが提示されているが、近代型から現代型への変換は見られない。

 憲法第九条は日本を護ってきた歴史的な意義がある。そのおかげで、韓国と違い、ベトナム戦争に自衛隊を派遣せずにすんでいる。サンフランシスコ講和条約を無視して、似非リアリストの言う通りに改憲し、もしイラク戦争を迎えていたら、ぞっとする。犠牲者を出し、中東での評判を落とすだけでなく、失敗の原因までアメリカから押しつけられていたところだ。ちなみに、イラクもサンフランシスコ講和条約を批准している。

 今時、押しつけ憲法論を信じているほど無知な人はいないだろう。第二五条の生存権は英米系の憲法観にはなく、ワイマール憲法からの影響である。これだけを見ても、その説に根拠が希薄であるのは明白だ。改憲論者の中には新たな権利の明記を目的としている人たちもいるが、それらはこの画期的な権利を超えるものではない。研究者の間で、日本国憲法は日米合作が主流の学説である。まだまだ研究途上であるから、新しい発見があるとしても、この前提が覆ることはまずないと思われる。

 その制作過程にこそ、現行の日本国憲法の比類のない新しさがある。それは国際条約の制作過程と類似している。日本国憲法は、その制作過程において、異質で多様な人たちの議論や葛藤、妥協がある。通常、憲法は国内法であるから、国内の人たちだけで論じられる。けれども、日本国憲法は外国人も参加している。GHQ、その女性職員、ワシントン、連合国11カ国の代表が参加した極東委員会、昭和天皇、政治家、官僚、民間人などが討論し合い、形成されている。日本国憲法は集合知の傑作だ。これらの意見の多くは明治憲法制定時には無視されただけでなく、松本草案の段階でも黙殺されている。これほどの独自性を持った憲法はない。

 いわゆる芦田修正によって、憲法第九条は、自衛のための軍備であるならば、実際に持つかどうかはともかく、保持が可能であると解釈できるようになっている。これはすでに極東委員会も気づいている。そこで、2007年4月29日に放映されたNHKの『日本国憲法誕生』でも言及されていたが、ソ連代表が文民統制の条項を憲法に盛りこむことを提案し、憲法第六六条二項にそれが明記される。

 自民党の予定している憲法のお粗末さがよく示している通り、ある方向からだけ見られたものはどうしても偏ってしまう。改憲の支持者でも、まさかあの反動的な草案を支持してはいないだろう。今、物事をよくしていくために、多様で異質な人たちの目に触れさせることが欠かせない。日本国憲法はその先駆けである。Web2.0をはるかに先取りしている。

 条文以前に、この新しさを超える新しさを提起できないのであれば、後退以外の何ものでもないのだから、変えるべきではない。

 今後さらにデジタル技術が進展し、それによる新たな認識から憲法改定試案が提起されるかもしれない。しかし、集合知の成果という日本国憲法の新しさを実践上で超えることはないに違いない。日本国憲法はある歴史的・社会的条件が生み出せた奇跡だからだ。この集合知が日本国憲法が体現する社会像である。

 グローバル化する時代にあって、外国人の居住も多くなり、環境問題やネットは国境に縛られるものではない。また、かつては無視もしくは軽視されてきた先住民の権利も世界的に認められるようになってきている。先住民の権利は国民の権利に縛られない。アジアには多種多様な先住民族がいる。一国ではなく、多国間の間で考えられていくべき課題が山積みである。

 こうした状況を考慮する限り、改憲を論じるよりも、むしろ、日本国憲法の制作過程を参考にして、アジア共同体の憲法を考える方がはるかに建設的である。日本国憲法の新しさの意義は依然として失われていない。
 にもかかわらず、あえてここで「新憲法」を使うのは、そこにはやはり明治憲法とはまったく異なった新しいものを見出すからである。戦争と圧政から解放された民衆が、憲法の施行をよろこび、歌い、踊り、山間の山村青年が憲法の学習会を催し、自らも懸賞論文に応募する姿は、近代日本の歴史において、この時を除いて見あたらない。そればかりではない。制定過程の中でたしかに官僚の役割は無視できないが、つねに重要な役割をはたしたのは、官職にない民間人、専門家でない素人であった。日本国憲法が今日においてなおその現代的意義を失わない淵源は、素人のはたした役割がきわめて大きい(戦争の放棄条項を除いて)。当時の国会議員も憲法学者もその役割において、これら少数の素人の力にはるかに及ばない。GHQ案に影響を及ぼす草案を起草したのも、国民主権を明記したのも、普通教育の義務教育化を盛り込んだのも、そして全文を口語化したのも、すべて素人の力であった。
 かつて米国憲法一五〇周年記念(一九三七年)にあたり、ローズベルト大統領は「米国憲法は素人の文書であり、法律家のそれではない」と述べたが、近代国家の憲法とはそもそもそういう性格を持っている。
 古来、日本において「法」とは「お上」と専門家の専有物であった。その意味からすれば、やはり日本国憲法は小なりといえども「新しい」地平を切り拓いたのである。こう考えてみると、そこに冠せられる名は、老いてもなお「新憲法」がふさわしい。
(古関彰一『新憲法の誕生』)
〈了〉
参考文献
古関彰一、『新憲法の誕生』、中公文庫、1995年
森毅、『ぼくはいくじなしと、ここに宣言する』、青土社、2006年