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科学コミュニケーションと
感情知

佐藤清文
Seibun Satow
2012年04月28日

初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「噺家殺すにゃ刃物は要らぬ。欠伸の三つもすりゃあいい」。



第1章 原子力と科学コミュニケーション

 フクシマ発生以来、専門家と非専門家の間でのコミュニケーション・ギャップが表面化している。従来から科学コミュニケーションの必要性は説かれてきたし、その実践も試みられている。けれども、フクシマをめぐる事態に対して、それらが十分に役目を果たしたとは言い難い。

 そもそも、科学コミュニケーションの重要性が語られるようになったきっかけは原子力開発である。原子核物理学者のアルヴィン・ワインバーグ(Alvin Weinberg)は、1972年、原発をめぐる受容可能リスク問題を「トランスサイエンス(Trans-science)」の領域と呼んでいる。それは、科学によって問えるが、答えられない問題群の領域である。原子力技術は、万が一事故が起きれば、社会に甚大な被害をもたらす。このような対象を閉じられた科学の知識生産系だけで議論するのは不十分である。開かれた熟議の場で、一般市民のコンセンサスを形成して今後の方向性を決めるべきだ。そうワインバーグは主張する。

 科学技術からリスクを完全に排除することは不可能である。それには大きく五つの問題点が指摘できる。第一に、各部分のリスクを分析し尽くしたとしても、非線形の認識から、その総合が全体のそれを表わすわけではない。第二に、装置を操作する人間の要因、すなわちヒューマン・ファクターを無視できない。第三に、統計的推測を根拠にしているので、個別事案に結果がそのまま適合するとは限らない。第四に、それ自身が危険であるため、発生確率を実験的に検証することができない。第五に、装置を取り巻く環境ならびにそれに関連する将来の事態を完全に予測することができない。

 このリスク排除の不可能性は、特に、原子力で顕著である。一例を挙げれば、メルトダウンの危険性を確認するために、実際の原子炉で実験するなどできるはずもない。科学技術では、リスクと便益を照らし合わせて、社会がそれを許容できるかどうかが採用の判断基準となる。そのため、科学コミュニケーションが必要なわけだが、日本では肝心の原子力では避け続けてきたのが実態である。そうして形成されたのが「安全神話」だ。

 フクシマを踏まえて、今後、科学コミュニケーションの活動が活発化すると予想される。科学技術をめぐる社会関係資本の形成が求められている。少なからずの科学者がよりよい科学コミュニケーションには、研究者の「社会リテラシー」と非専門家の「科学リテラシー」の向上が必要だと力説している。けれども、この問題設定には、二つの疑問がわく。一つは、果たして専門家が十分に科学リテラシーを備えているのかという点である。もう一つは、そもそも社会リテラシーとは何かという点である。


第2章 専門家の科学リテラシーは十分か

 科学リテラシーはさまざまに定義されている。それらを要約すると、科学的知識を理解し、それを日常生活などに活用できる能力である。専門家の科学リテラシーにおいて問題になるのは後半部分である。

 専門家と市民のリスク認知に関して差異があると各種の調査が報告している。少々古いが、よく引用されるポール・スロヴィック(Paul Slovic)の『リスクのレーティング(Rating the Risk)』(1979)を参考にしよう。原子力発電について、市民が1位と最も高くリスク認知しているのに対して、専門家は20位と低い。他方、X線では市民が22位、専門家が7位である。これを引き合いにして市民の科学リテラシーの不備が指摘される。

 しかし、概して、こういう調査では「リスク」の定義が曖昧である。この調査を含めて、心理尺度が採用される。

 最もよく知られるリスクの関係式は次の通りである。

 Risk=P(x)×M

 P(x)は事象の発生確率、Mは「悪影響の大きさ(Magnitudes of adverse effect)」である。リスクを算定する際、その事象が起きる確率だけでは不十分である。損害を考慮に入れなければならない。

 原発事故の場合、発生確率が非常に小さくても、損失額が莫大であるため、リスクは大きく算定される。原子炉内の総エネルギー量が巨大である以上、これだけでも破壊力は極めて大きい。燃料プールの使用済み燃料など原発はMが増大する要因はあまりにも多い。先の専門家の回答はMを果たして考慮に入れているかはなはだ疑問である。実際、日本の専門家が原発の安全性を強調する際、発生確率と対策に終始し、被害想定をほとんど口にしていない。無視ないし軽視しているとすれば、保身を除けば、日常生活への活用の点で、科学リテラシーが十分の身についていないことになる。リスクを先の関係式などで定義し、それを明示してその認知を調査得る試みはあまり見かけない。専門家と市民の間のリスク認知の差異を調査する際、心理尺度を採用すること自体が専門家のおごりだと言わざるを得ない。

 人はリスクに対して不安感を抱く。これは主観的であり、中には必ずしも科学的根拠があるわけではない。不安とリスクの最も素朴な関係式は次の通りである。

 Fear=Risk+Noise

 先の専門家にとって、Mを無視ないし軽視し、リスクは発生確率とほぼ等しい。ノイズはあまり入りこまないので、彼らの不安感は発生確率に近くなる。逆に、ノイズの部分に目を奪われて、専門家はしばしば市民を見る。ノイズはいくら分析しても情報がない。専門家はノイズの大きさが市民を怖がらせていると考える。彼らはノイズを取り除き、発生確率を伝えれば、一般人の不安感は減ると思いこむ。その際、自分の科学リテラシーが十分ではないことに気づきもしない。欠如モデルはこうした誤謬に基づいている。


第3章 社会リテラシー?

 次に、「社会リテラシー」をめぐる疑問に進もう。それに関する定義は、正直、曖昧である。そういった活動の報告・提言を読んでまとめると、社会の中の科学を自覚し、市民にわかるように語り、科学に何を求めているのかを理解する能力である。要するに、「社会性」のことだろう。しかし、これを「リテラシー」の一種と見なすことは承服しかねる。

 社会性に乏しい専門家が少なくないことは確かである。「専門バカ」という悪口もある。ただ、それは近代社会の産物である。

 前近代では、身分や職業が親から子へ継承され、稼ぎと暮らしの場所もほぼ同じである。生まれ、育ち、結婚し、老い、死ぬ過程がほぼ共同体内部で繰り返される。加齢と共に、経験を積み重ね、知識や知恵が身についてくる。近所や親戚とのつきあい方も覚え、社会性も体得する。見知らぬ人と出会う機会も少なく、共同体に適応していくことが社会性である。

 一方、近代社会は、生活と労働の場が分離される。移動も当たり前となり、一つの共同体の中で一生を終える方が少数である。未知の人との出会いは常態化している。社会性を身につけるには、意識的な姿勢が不可欠である。経験を重ねて職場で会得した知識や知恵、人づきあいも、その外では必ずしも通じない。

 社会の生活者である市民はリスクの関係式のMを重視する。発生確率に基づいて発言する専門家との間でコミュニケーション・ギャップが生じるのは当然であろう。けれども、前述したように、Mの認知も科学リテラシーに属する。社会リテラシーではない。

 「リテラシー」は、話し聞く能力の「オラリティ」と対の概念である。オラリティは家族や近所での会話を通じて体得できる。一方、リテラシーは体系的・総合的・有機的カリキュラムに即した学習によって習得が可能である。そのため、学校を始めとする教育機関が必要となる。

 科学的認識はあるがままに知覚されることに反する場合が少なからずある。万有引力の法則は好例である。そのため、リテラシーの習得には学習が不可欠である。一方、社会性には他者との相互関係の認知・構築などが含まれるから、「社交性」とも言い換えられる。これは形式化できない以上、リテラシーに含められない。学習プログラムを考案している研究者もいるが、社会性はカリキュラムに依拠して会得するものでもない。

 科学コミュニケーションは科学に関する専門家と市民との間のコミュニケーション活動である。研究者自らが市民に語るアウトリーチ活動のケースとプロデューサー兼司会のサイエンス・コミュニケータが介在するケースの二つに大別できる。専門家の「社会リテラシー」の必要性を説く研究者の主張はほぼハード面の整備に終始している。小規模・大規模対話フォーラムや円卓会議、コンセンサス会議、サイエンス・ショップ、参加体験型イベントの開催など図解も交えた数々の提案がある。

 ところが、肝心のソフト面の認識がほとんどない。話しかけなければ、コミュニケーションは始まらない。赤の他人に声をかけ、おしゃべりができるなら、ハード面の充実で十分だろう。科学コミュニケーションは日々のコミュニケーションが成り立って初めて可能になる。しかし、知らない人に話しかけておしゃべりをすることが、実は、難しい。

 金田一秀穂杏林大学教授は、『新しい日本語の予習法』において、アメリカ資本のファミリー・レストランに入ったら、米国の接客マニュアルそのままだったために、閉口したと回想している。アルバイトの若い女性があれこれ話しかけてくるけれども、とにかくうるさい。こちらから話しかけてもいないのに、しゃべり続けられると、興ざめする。会社がアルバイトに米国流を強制したと見られるが、半年ほどしてそのサービスが停止されている。お客からも、従業員からも不評だったためと推察される。

 また、「豆富屋」として初めて上場した篠崎屋の樽見茂社長は、『豆富バカが上場した!』において、産直の販売員の雇用条件を50歳以上としている。以前に若者を雇ったことがある。彼らは挨拶もお礼もちゃんとできるが、お客とのコミュニケーションがまったくない。一方、高齢者の接客態度・技術は見事である。声のかけ方一つでお客の心をつかんでしまう。敬語を使う人も使わない人もいる。よそゆきの言葉でなくても、失礼な感じがない。「親愛の感情」がある。

 専門の接客業でも、これだけ苦労している。科学コミュニケーションに臨む専門家は年中それだけを考えているわけでもあるまい。この二例に共通しているのは、人生経験の少ない若者が顔見知りでない人とコミュニケーションをとることの難しさである。マニュアル通りに話せても、語りかけられない。これは、おそらく、研究者にも言えることだろう。見知らぬ人とおしゃべりもできないのに、科学コミュニケーションなど夢物語である。下手くそほど自分が見えていないから、いきなり難しいことをしようとするものだ。社会性を「社会リテラシー」とする認識では、未知の人との日常的なコミュニケーションはおぼつかない。科学コミュニケーションの拡充を目指すのであれば、この発想から改めるべきである。


第4章 タクト

 科学コミュニケーションの研究者が「社会リテラシー」で言いたいものを表わす最適の概念が教育学にある。それが「タクト(Takt: Tact)」である。科学コミュニケーションの言説にはこの概念はまずお目にかからない。ラテン語の「触覚」に由来し、英語で、「機転」や「如才さ」を意味する。指揮棒を「タクト」と呼ぶが、同じ単語である。後に述べるように、この概念は社会性が感情と密接な関係があることを示している。

 近代化が進むにつれ、見知らぬ人と出会う機会が増す。社会がコミュニティの集合からネットワーク化する。漠とした社会で、どのように新たな事態に対処するかを人々は求める。アドルフ・F・V・クニッゲ(Freiherr Adolph Franz Friedrich Ludwig Knigge)の『人間交際術(Uber den Umgang mit Menschen)』(1788)が大ベストセラーになっている。見ず知らずの人への声のかけ方や話題のつく方等の他、ナンパ術まで記されている。

 未知の人との出会いが常態化する社会に対し、ケーニヒスベルク大学教授イマヌエル・カントが「タクト」を主張する。綱渡りの際、来たるべき未知の状態を注視して進んでいく。タクトは未来を察する能力、社交の技である。

 それを受けて、カントの後任教授ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルトがタクトを教育学上のコミュニケーションの概念として展開する。子どもの将来は未知である。しかも、個別のコンテクストを持っている。社交の技を拡張した察しの技が教師には求められる。教育的タクトは教員が児童・生徒の可能性を発見する、または精神的成長を見出す能力である。ヘルバルトは、明晰・・連合・系統・方法という「形式的段階」として連合心理学に基礎を置いた教育論を構築し、段階的教育とそれに基づくカリキュラムを教育学にもたらしている。

 タクトは定量化できないパターン認識である。経験によって磨かれ、段階的に会得することはできない。タクトは「失敗から学ぶ(Learning from Failures)」技である。ただ、それはやみくもにした失敗ではない。「期待に反する失敗(To fail my expectations)」である。失敗したら、パターン照合をし、修正したり、他のものと変更したり、統合したりする。タクトは人格と結びついているため、マニュアル化できない。だから、タクト養成はカリキュラムでは困難である。つねにタクトを意識し、経験を積み重ねるほかない。イメージ・トレーニングはタクト習得の一つの方法である。

 タクトは教育学以外にも適用できる。従業員のタクトの向上は、サービス業でも日夜努力・工夫されている難問である。それを社会性の未熟な科学の研究者がすぐに達成できるはずもない。この「未熟」は話下手だけを指していない。往々に、話し上手とされる専門家は、相手の反応も確認せず、自分のペースで単調に語る傾向があり、眠くなるものだ。むしろ、システムを整備してそれを補う方が効果的である。未熟であっても、科学コミュニケーションに臨めるし、そうした場数をこなしている間に、熟達してくるだろう。

 NPO法人「くらしとバイオプラザ21」は「くらしとバイオ」に特化したサイエンスカフェを開催している。サイエンスカフェは、1998年、TVディレクターだったダンカン・ダグラスがイギリスのリーズのカフェシアンティフィークで始めた専門家と市民の語らいのイベントである。日本でも開かれているが、多くは大学が主催している。そんな中、このNPOは生活に密着したバイオの話題・情報提供とゲストの専門家を交えた対話を続けている。

 このバイオカフェの満足度は、参加者とゲストのスピーカーのアンケート結果を分析すると、一般のフォーラムやシンポジウムよりも、前者のそれが高いことがわかる。参加者の実に90%以上が満足している。さらに、興味深いのは「バイオカフェのやり方について」に関する05〜06年のアンケート結果の総計である。「気楽に話し合いたい」の回答が最も多く、「他の参加者の意見が聞きたい」と続き、次が「スピーチを長くしてほしい」だが、鼻差で「講師に直接質問・意見が言いたい」が来る。これが示しているのは、参加者はスピーカーとの縦の一方向よりも横や双方向のコミュニケーション、すなわち交流を求めていることである。

 こうした分析から、市民は正確な情報を聞くのみならず、それに関して話し合うことを望んでいることが明らかになる。どんなに正しくても、専門家の話を聞いているだけでは嫌なのであって、自分たちにも言わせろというわけだ。緊急事態になればなるほど判断力は低下するので、そうしたくなる。市民は、横や双方向を含めた多様なコミュニケーションを通じて、抱いている不安や意見を相互に交感し、その情報の妥当性を吟味し、納得して判断した行動をしたい。

 このアンケート結果を科学コミュニケーションの研究者も承知している。しかし、それを生かしているようには見受けられない。調査結果を踏まえたシステム整備をすれば、未熟なスピーカーであっても、市民の満足度は高くなるだろう。一般の人が求めているのは「説明」ではない。「共感」だ。専門家にわかってほしいのは自分たちの気持ちである。それは話を聞くことから始まる。ここに着目してシステムを考えればよい。先に市民に質問・意見を述べさせ、それに専門家が応答するようにすればよい。科学コミュニケーションにおける専門家のタクトの向上は、最終的には、経験を積むほかない。しかし、工夫の余地はある。


第5章 コミュニケーションの特徴

 日常的なコミュニケーションがあり、その上で科学コミュニケーションが可能になる。それなら、コミュニケーションにはどのような特徴があるのかを確認する必要がある。

 コミュニケーションの特徴は次の八つに要約できる。

記号性 コミュニケーションは記号を介して行われる
内容・関係性 伝達内容と同時に当事者の人間関係を伝える
不可避性 意図を前提としない
デジタル・アナログ面 要素に分割できるものとできないものがある
不可逆性 元に戻すことができない
先行性 人生の経験が反映される
進行性 固まらないし、終わらない。
コンテクスト性 何らかの場の中で行われる 

 それぞれ例を交えて開設しよう。

 コミュニケーションは、言葉やジェスチャー、表情など必ず意味ある記号を介して行われる。それが記号性である。

 同じ内容であっても、相手によって言葉遣いを変えることがある。それは伝える内容と共に相手との人間関係をどのように認識しているかが伝達される。これが内容・関係性である。

 メッセージを一生懸命送っているにもかかわらず、まったく誰からも受信されない場合がある。また、メッセージを誰かに送信する意図がなくても、受信されてしまう場合がある。送信する意図がなく、誰も受信しない。その時だけ、それはコミュニケーションではない。これが不可避性である。

 言語は要素に分割できる。言語コミュニケーションにはデジタルである。一方、ジェスチャーは要素に分割すると、意味をなさない。敬礼を部分に分けることはできない。非言語コミュニケーションはアナログである。

 一度行ったコミュニケーションは元に戻せない。また、同じこととして再生することもできない。これが不可逆性である。

 初対面の人と会話を交わしたとする。次回会う時は前回の経験を踏まえて接する。コミュニケーションには積み重ねてきた経験が反映する。これが先行性である。

 ある人と別れたとする。その後も一切アクションを起こさない。メッセージを送らないことで、この状態を維持すると相手に伝えている。これが進行性である。

 コミュニケーションは必ず環境・文化・社会・共同体・個人などの条件が絡み合った複雑な状況下に基づいて行われる。このコンテクストは非常に入り組んでいる。

 人々はこの八つの特徴を承知した上で、日々コミュニケーションを繰り返している。科学コミュニケーションの際に特に問題となるのは、最後のコンテクスト性だろう。これが社会性と大きくかかわっている。タクトも同様である。コンテクストを感受し、読み解き、応答しなければ、自分勝手や無神経と思われかねない。


第6章 社会性と感情

 コンテクスト性を認知するのは感情の役目である。福田収一首都大学東京名誉教授は、『自己発展経済のための工学』において、感情による知を「状況知(Encultured Knowledge)」と呼んでいる。感情は状況に依拠する。状況の変化にはそれの持つコンテクストの更新が伴う。絶え間ない変化に対応するには、その都度、コンテクストを察知する必要がある。「感情知(Emotional Knowledge)」はコンテクストを洞察する能力である。これがタクトだ。

 コンテクストを担当するのが感情である。一方、リテラシーは明示知、オラリティは暗黙知に属する。

 感情知は明示知や暗黙知と次のような関係をしている。

明示知(Explicit Knowledge) 形式知(Embrained Knowledge)   リテラシー(Literacy)   知(Cognition) 
感情知(Emotional Knowledge) 状況知(Encultured Knowledge) コンテクスト(Context)   情(Sensing)
暗黙知(Tacit Knowledge) 身体知(Embodied Knowledge) オラリティ(Orality)   意(Conation) 

 社会性をリテラシーの一種と捉えるならば、コンテクストが把握できない。文脈を読めない人とはコミュニケーションはかみ合わない。タクトをリテラシーの観点から向上させることは筋違いである。

 これはリテラシー研究の批判ではない。リテラシーに焦点を合わせて考察すること、すなわち・リテラシー・スタディーズはますます促進されなければならない。潜在力を十分に発揮できていないのが残念でならない。「社会リテラシー」には、「団塊ニート」と同様の曖昧さがあり、こうした用法と議論はリテラシー研究の意義を台無しにする。

 科学コミュニケーションの研究者は感情の果たす役割をもっと認識すべきだ。近年、感情は、社会性に関する知性を構成する重要な要素と注目されている。ジョン・D・メイヤー(John D. Mayer)とピーター・サロベイ(Peter Salovey)は、1990年、感情を察知し、理解する能力は知性であるとして、「感情知性(Emotional Intelligence)」の考えを提唱する。感情知性は次の四点に特徴づけられる。

 感情を的確に把握する能力。
 思考を発展させるために感情を活用できる能力。
 感情の意味を理解できる能力。
 感情を自制できる能力。

 これを踏襲して、ダニエル・ゴールマン(Daniel Goleman)は、1995年、『EQ(Emotional Intelligence)』において、コミュニケーションでの感情の果たす役割が大きいことを指摘する。さらに、25の因子による感情知性の評価指標を提案している。それは、「知能指数(IQ: Intelligence Quotient)」に対して、「感情指数(EQ: Emotional Quotient)」である。彼はEQを次のように要約している。
 自分の本当の気持ちを自覚し尊重して、心から納得できる決断を下す能力。衝動を自制し、不安や怒りのようなストレスのもとになる感情を制御する能力。目標の追及に挫折したときでも楽観を捨てず、自分自身を励ます能力。他人の気持ちを感じとる共感能力。集団の中で調和を保ち、協力しあう社会的能力。
 これは、言わば、「社会的知性」である。感情知性は社会性の能力だ。内堀基光放送大学教授は、『「ひと学」への招待』において、感情と社会性の関係を端的に物語る言い回しとして「ひとでなし」を挙げている。実際、フクシマの発生以来、そう叫びたくなるような専門家の対応が見られる。この言い回しには、共感能力がない者は社会的存在としての人間ではないという意味がある。感情は社会的なものであり、共感能力こそが社会性である。

 通常、感情は人と人との絆に対するセンシングと共に内発的に生じる。感情を代表する「喜怒哀楽」にはいずれもそういう傾向がある。共感は感情=社会の共有である。震災直後、被災地でパニックではなく、アドホックな共同体が形成されている。これはコミュニタス状況での一体感に基づいている。むしろ、エリートの方が思考停止してパニックに陥ったり、「震災は天罰だ」などと暴言を吐いたり、自画像を発表したり、無常が日本人の行動を規定していると発言したりする。

 災害社会学者のリー・クラーク(Lee Clarke)とカロン・チェス(Caron Chess)は、災害時に、一般市民よりもエリートの方がパニックに陥りやすいことを解き明かしている。現代社会は競争や利己主義に基づいており、それに適合する人物が成功する傾向がある。このエリートは競争心やエゴイズムが強く、そのバイアスから社会全体を認知する。災害時には略奪のような事件が起こると恐れパニックに陥り、情報隠蔽に走るなど過剰反応をとってしまう。クラークとチェスはそれを「エリート・パニック(Elite Panic)」と呼ぶ。コミュニタス状況で、エリートは、感情を受動的ではなく、行動を促す動機として把握する認識が希薄である。

 共感能力に乏しいエリートほど災害時にもろい。コミュニタスでの一体感を持てる市民に対して、エリートが欠如モデルで科学的知見について語るのはいささか滑稽ですらある。無知だから不安に感じているのであって、知識を与えてやればよい。それは彼らの社会性の貧弱さゆえの考えである。

 欠如モデルでフクシマを女性に説明する専門家は真に世間知らずだ。消費者の感情知を信頼し、カスタマーズ・ボイスを重視する企業が増えている。日本の女性消費者は世界で最もタフであることは経営学では常識である。たんにクレームをつけるのではなく、改善点を言語化できる。今や、彼女たちの声を反映させるのみならず、サービスを含めた製品開発に参加してもらっている企業も珍しくない。参加型開発のための組織整備も進められている。

 率直に言って、科学コミュニケーションをめぐる実践は、こうした企業と比べて、遅れている。科学コミュニケーションは大いなる可能性を秘めている。それを通じて専門家と市民が価値感を共有し、共に成長していく。科学コミュニケーションをタクトの観点から再構成する必要がある。「社会リテラシー」と言っている限り、専門家の科学コミュニケーションは向上しない。科学コミュニケーションは社会的な「協育」である。

〈了〉

参照文献
内堀基光、『「ひと学」への招待』、放送大学教育振興会、2012年
大橋理枝他、『日本語からたどる文化』、放送大学教育振興会、2011年
金田一秀穂、『新しい日本語の予習法』、角川oneテーマ21、2003年
鈴木晶子、『判断力養成論研究序説 ヘルバルトの教育的タクトを軸に』、風間書房、1990年
武田譲、『新訂版バイオテクノロジーと社会』、放送大学教育振興会、2009年
樽見茂、『豆富バカが上場した!』、中経出版、2004年
福田収一、『自己発展経済のための工学』、養賢堂、2011年
札野順、『技術者倫理』、放送大学教育振興会、2004年
アドルフ・F・V・クニッゲ、『人間交際術』、笠原賢介他訳、講談社学術文庫、1993年
ダニエル・ゴールマン、『EQ こころの知能指数』、土屋京子訳、講談社+α文庫、1998年
レベッカ・ソルニット、『災害ユートピア』、高月園子訳、亜紀書房、2010年