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我党内閣


佐藤清文

Seibun Satow

2011年6月8日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「病は癒えるに怠る」。

 各国には、近代的統治システム確立の際に、固有の事情が反映した危険が内在化される。ラテン・アメリカ諸国では、ポピュリズムがそれに当たる。独立以来政治の実権を握ってきた鉱山や大農場の所有者などの寡頭支配層に対して、諸階級が協調・同盟をして改革を実現する民衆動因運動である。その指導者は政権基盤を強化するために、バラマキを行って財政を危機的状況に陥れ、社会混乱を招き、クーデターを誘発する。ポピュリズムは、民衆の政治参加を促すけれども、政府支出を膨張させ、財政破綻をもたらすという危険性を持っている。

 日本政治の最大の危険は「我党内閣」である。現在ではあまりなじみがないかもしれない。これは、もともと、1898年6月に発足した日本初の政党内閣である憲政党政権に対して使われている。その後、政党政治を脅かすとして政党が自ら排斥を試みてきたものの、実際にはそれに陥ってしまっている。

 日本の代議政治の原典は反藩閥政治である。それは明治維新に貢献した四藩、特に薩長の出身者が政府の要職を独占した状態の政治である。彼らは政治理論や将来的ヴィジョンをほとんど持っておらず、明治天皇との個人的つながりから派生した人脈を背景にしている。

 自由民権運動は国会開設を政府に要求、1890年の召集を約束させる。彼らは政党を結成してそれに備え始める。政党政治は藩閥政治の克服として登場している。

 しかし、政党は、当初、反政府勢力にとどまっていたが、次第に政権参加できるほどに力をつけていく。地租増税という難題に行き詰った第三次伊藤博文内閣が総辞職し、1898年6月、第一次大隈重信内閣が成立する。これが史上初の政党内閣である。大隈首相兼外相と板垣退助内相を中心に、陸海軍大臣を除く閣僚を憲政党員が占めている。憲政党は大隈の進歩党と板垣の自由党が合同して誕生した政党である。けれども、この政権はわずか4ヶ月で崩壊する。政党も国政を担えることを示したい旧進歩党と支持者との約束を果たすべきだと主張する旧自由党の間で対立が激化し、発足直後から倒閣運動が起きる始末である。8月に、尾崎行雄文相の共和演説事件が起きると、政党政治に批判的だった貴族院や枢密院、伊藤閥の新聞のみならず、閣内からも辞職要求が飛び出し、10月、内閣は総辞職に追いこまれる。これがこの政権が「我党内閣」と呼ばれた所以である。

 この隈板内閣の顛末は、2009年に誕生した民主党連立政権に似ている。有権者との公約実行を重視するマニフェスト派勢力と政権担当能力を示したい修正派勢力とが衝突、政権交代を快く思っていない野党やマスメディアも揚げ足とりに躍起になる。世論は永田町に完全に失望している。

 我党内閣は、危機の際に登場したにもかかわらず、さらに悪化させてしまう。国難に直面して発足した内閣に対して、彼らには任せられないと考える党外勢力が倒閣運動を始め、政権内部で快く思っていないグループが同調する。誰もが自分たちの行動が最終的には危機の打開につながると信じて疑わない。けれども、混乱が生じ、政権運営が行き詰まり、政治が停滞する。世論からは、彼らが自らの組織利益を拡大拡張させることを優先させ、党利党略に走っているようにしか見えず、政党政治不信が増大する。

 その後、政党にとって、我党内閣の克服は重要課題となっている。しかし、政党が発展していく過程で、この危険性が大きくなっていく。政党を国家統治を担う組織へと成長させたのが星亨=原敬である。特に、原はポストの提供と利益誘導によって政党を政治制度に不可欠な組織へと転換する。彼は人材を地縁血縁によらず、官僚や財界人、軍人などから広くリクルートし、政党に対する信頼感を高めている。また、地方利益培養政策を推進している。地方のインフラ整備などを通じて利益誘導を図り、政党の支持基盤を強固にする。けれども、これにより、世論における政党のイメージはダーティーになり、戦前を通してそれは変わらない。藩閥政治を克服する政党政治の礎を築いた平民宰相でありながら、原の人気は芳しくなく、1912年、テロによって命を落としている。

 戦後の自民党も、リクルートと支持拡大に原敬モデルを採用している。これでイメージがクリーンになるはずもない。

 代議政治は政党政治でしかありえない。我党内閣は、日本の政党政治において、克服されるべき悪癖でありながら、繰り返される。1924年の加藤高明護憲三派内閣から32年の犬養毅政友会内閣までの政党政治はあられもないスキャンダル暴露と露骨な論功行賞、相手を意識しすぎた失政によって世論の支持を完全に失っている。この間、身内による倒閣運動も起きている。若槻礼次郎内閣の安達謙蔵内相のケースがその一例である。政党政治不信は軍部の台頭を許し、日本は破滅へと向かっていく。また、二度の石油ショックを代表とする数々の難題に見舞われた70年代にも、三角大福中と呼ばれる自民党の五大派閥の間で抗争が激化、野党が提出した内閣不信任案に与党議員が大量欠席で同調し可決させるなど我党内閣の状態に陥っている。

 安倍晋三内閣が登場して以来、日本政治は我党内閣の悪循環に入りこんでいる。ラテン・アメリカ諸国はポピュリズムの危険性を学び、それを避けようと努力している。他方、日本は「我党内閣」というタームを忘れたけれど、実際には繰り返し陥っている。厄介なことに危機にあるほど、その克服と称して現われる。これは一種の持病だ。「我党内閣」が日本の政党政治を脅かすと改めて直視しなければならない。
〈了〉
参照文献
天川晃他、『日本政治史─20世紀の日本政治』、放送大学教育振興会、2003年
『現代日本文學大系9 徳冨蘆花・木下尚江集』、筑摩書房、1971年
憲政会本部編、『政変の真相と我党の態度 附・与論の声に聴け』
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965502