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ペルーの軍部ポピュリズム


佐藤清文

Seibun Satow

2011年6月6日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「農民よ、地主は二度とあなたの貧しさを食いものにはしない(Campesino, el patron ya no comera mas de tu pobreza)」。

フアン・ベラスコ・アルバラード

 ペルーで2011年6月5日実施された大統領選挙の決選投票において、左派のオジャンタ・ウマラ元陸軍中佐がケイコ・フジモリ国会議員を破り、当選する。元軍人で左派の候補というのは日本では意外に思えるかもしれない。しかし、ペルーの歴史を見ると、決してそうではないことがわかる。と言うのも、1968年10月に無血クーデターによって軍事政権が誕生したが、その際、大統領に就任するフアン・ベラスコ・アルバラード将軍は「人間的社会主義」を標榜していたからである。

 1950年代、他の中南米諸国と同様、零細農民が土地の再分配の運動を活発化させる。1959年1月に、キューバ革命が成功すると、それに刺激を受けた左翼の活動家がゲリラ活動を農民運動と結びつけようとアンデスに入っていく。軍はあの山岳地帯でゲリラの掃討という困難な作戦に従事しなければならない。ペルーの安全保障は外国勢力に備えるのではなく、国内の敵を抑えこむことにある。それには土地問題などの社会的課題を解決しなければならない。この新安全保障原理が軍内部でヘゲモニーを獲得する。

 カール・マルクスの名を冠した革命は、彼の予言に反して、資本主義が進んだ国家ではなく、地主が支配する農業地域で起きている。資本家階級と労働者階級の闘争は経済成長で増えたパイの取り分をどうするかをめぐって展開する。これはノンゼロサム状況であり、暴力革命を必要としない。他方、土地の争奪は誰かが得をすれば、誰かが損をする。こうしたゼロサム状況では、対立が激化する。それは急進化し、その解決を約束した革命家に貧農は支持を表明する。これが20世紀に起きたマルクス主義革命の本質である。

 ペルーの場合、零細農民の多くが先住民族である。ペルーは、中南米諸国の中で、人口に占める先住民比率がボリビアに次いで高く、約4割にも及ぶ。アメリカ大陸で、先住民族の人口比が高い国は、ヨーロッパ人が来訪する以前に国家がすでに形成されていたことを意味する。国家は、役人、すなわち税金に基づく職業人がいる社会体制である。この成員は誰かに命じられたり、雇われたりして働く制度の下で生まれ育っている。ところが、国家のない集落共同体の先住民にはそうした習慣・経験がない。植民地化したヨーロッパ人が彼らを鉱山や農場で働かせようにも、それができない。こうした集落共同体の研究は、政治学ではなく、文化人類学の領域となる。政治学とは何かもこの比較の中で明確化する。そこで、支配者はアフリカから奴隷を連れてくる。この黒人たちはアフリカでは国家の成員であり、人から使われる労働制度の下で生きている。一方、ペルーはすでに大帝国が長年に亘って支配していた地域であり、黒人奴隷を必要としない反面、先住民が白人から搾取されてきた歴史がある。土地の再配分への意識は、当然、非常に強い。

 軍部はクーデターなど干渉して、政治権力に農地改革の実施を促す。しかし、リマは政治ゲームに明け暮れ、一向にそれは進展しない。そうこうしているうちに、アンデスでのゲリラ活動が活発化し、軍はその対応に苦慮する。おまけに、軍が期待していた人民行動党のベラウンデ・テリー政権が数々のスキャンダルをしでかし、有権者から顰蹙を買う始末である。搾取的であると国内で毛嫌いされていたアメリカ資本の国債石油会社(IPC)に国辱的な妥協を約束していたことが発覚すると、とうとう堪忍袋の緒が切れ軍は自ら政権を担うことを決意する。前代未聞の軍部ポピュリズムの始まりである。

 ポピュリズムは中南米特有の政治体制である。それは、その国家が独立して以来、大土地所有者や鉱山所有者など政治権力を握ってきた寡頭支配層に反する諸階級の協調と同盟によって改革を進める民衆動員運動である。階級闘争ではない点がマルクス主義運動と異なっている。

 ベラスコ軍事政権は矢継ぎ早に社会改革を実施する。大規模な農地改革、外資を含めた複数の鉱山や企業を国有化、海岸部の砂漠地帯に広がるバリアーダス、すなわち低所得階層居住地を改善してそこを「プエブロ・ホーペン(若い町)」と命名している。軍事政権は圧倒的な人気で世論から支持される。

 しかし、この政策は政府に多額の支出を強い、財政が逼迫する。加えて、諸改革の成果による賃金上昇から人々の消費意欲が刺激され、輸入が増加、貿易赤字が拡大してしまう。対外借入の増加によって国際収支のバランスをとろうとするが、IPCの国有化を根に持つアメリカが世界銀行に圧力をかけ、それを妨害する。困った軍事政権はやむなく、民族主義的外資政策の大幅修正に踏みきるが、世論から失望される。ペルーへの国際金融機関からの貸付が再開されたのもつかの間、第一次石油ショックが勃発、原油と輸入原材料価格が高踏、悪いときには悪いことが重なるもので、主用輸出産品のアンチョビが不漁、国際収支が危機的状況に陥ってしまう。政権は緊縮財政と賃金抑制に政策をシフトする。

 75年2月、ベラスコ将軍が脳卒中で倒れ、同年8月、モフランシスコ・ラーレス・ベルム将軍が無血クーデターで後継に就任する。この間に先住民族の言語であるケチュア語が公用語の一つに制定されている。新大統領はIMFの支援を求めて修正路線を明確にし、農地改革まで打ち切ってしまう。こうなると、反対派のみならず、従来の支持者からの反発も激しく、ほとんど四面楚歌の状態に軍事政権は見舞われる。政権は武力鎮圧も考えたが、軍内部からも異論が続出、新憲法制定と民政移管を発表する。77年12月24日、ベラスコ将軍はリマの病院で永眠し、多くの支持者が埋葬に参列している。80年7月に実施された大統領選挙で当選したのはあのベラウンデである。

 こうした歴史から、ペルーの軍部にはベラスコ将軍の流れを汲む左派の伝統が根強い。今回のオジャンタ・ウマラもその一人である。また、彼の影響を受けた中南米の軍人も多い。ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領のように、左派の民族主義を訴える元軍人の政治家のイデアルティプスはこのフアン・ベラスコ・アルバラード将軍である。

 世界のニュースには、自分の常識では理解できないことが間々ある。しかし、それも歴史を調べてみると、納得できる、と同時に、自身の認識を相対化し、ものの見方を広げることにもつながる。

〈了〉

参照文献
恒川恵市、「比較政治─中南米」、豪壮大学教育振興会、2008年