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Listen Philosophy
イサク献供
第三章 ショファール


佐藤清文

Seibun Satow

2010年9月14日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


第三章 ショファール

 テキストの固有性を見失わないためには、そこで一貫しているアンタッチャブルな定義を確認する必要がある。解釈は自分の立場に引き寄せるのではなく、それに基づいて導き出されねばならない。前述した哲学的解釈にはそれがおろそかになっている。

 『創世記』において、神は万物の創造主であり、宇宙の支配者、唯一絶対の永遠の存在である。他方、人間は神の創造物であり、選ばれた地上の支配者である。神は人間をお見通しである。人間は神を畏れていなければならない。しかし、神とは何かに関する具体的な説明は記されていない。神の本質は人間の理解を超えていると認識できる。1〜3章の記述からこうした定義が見出せる。

 日本語を解せるものには、次のような規則が神と人間の関係をイメージするのに助けになろう。日本語では、形容詞を用いて絶対性と相対性を表現するのが容易である。「大きい」と「大きな」は、日本語において、意味が異なる。前者を「い」系形容詞、後者を「な」系形容詞と区分される。「い」系形容詞は比較の対象がある相対的な尺度を表わすときに用いられ、純粋な形容詞である。他方、「な」系形容詞は絶対的尺度を示し、形容動詞や連体詞である。「ちいさい秋」は「おおきい秋」との対比を意味し、「大きな古時計」は絶対的な大きさを感じさせる。「多い=少ない」や「高い=低い」のように、比相対的な量を示す形容詞には「な」系が存在しない。ただし、「丸い」や「四角い」など「い」系形容詞であっても、絶対性を意識させる例外もある。モーセ五書の神は、唯一絶対であるので、「な」系形容詞がふさわしい。それは「大きな」存在である。他方、人間は、絶対的な神に相対的に対比することはできないため、「小さな」存在である。

 こうした神と人間の定義に則り、先に引用した二つの訳を照らし合わせつつ、文学的効果に焦点をあわせて、すなわちあれこれ推測を交えず、イサクの物語を解釈を試みてみよう。

 作者は、この物語において、具体的な記述・描写をほとんど行っていない。構文も非常にシンプルである。主文章で構成され、挿入は見られず、それぞれの結合性に乏しい。冒頭の対話がいったいどこで交わされているのか、また神がどこから語りかけているのかわからない。しかし、神はこの物語の後景につねにいる。それによりアブラハムの神への服従が強調される。ァアブラハムがイサク献供に応じなければならないのは彼のこれまでにある。アブラハムは、15章2-3節で、主が跡継ぎを下さらないと不満を口にし、同8節ではその証が欲しいと要求しているのみならず、17章17節に至っては神の言葉を疑い、冷笑さえしている。彼の言動は神への期待と不満の間で揺れ動く。神はそれを見透かし、アブラハムを試す。そんな経過を経て授けたイサクを捧げよと命じられたとき、アブラハムは自らの罪を自覚する。前述した哲学的解釈にはアブラハムが罪人である点が見逃されている。人間は神を畏怖していなければならず、神は怠ることを許さない。先の五人の意見は神と人間の定義に反している。

 次の日の朝早く、アブラハムはイサクと二人の若者を連れて旅に出るが、出発地が不明で、目的地のモリヤにしてもその地理的な位置の説明もなく、しかも三日間の行程にも言及していない。さらに、アブラハムがどういう表情でイサクを縛り、刃物を手にとったのか、それに対して息子はどのような反応をしたのかなどの様子をうかがい知ることができない。神の御使いが登場して、手を下すなと伝えたとき、二人はどういった顔をしたのかもふれられていない。そもそもこのアブラハムやイサクの外観の描写がまったくない。読者は沈黙と断片的な対話から物語の意味を解釈しなければならない。

 聴覚は視覚より遮断し難く、強制力がある。この物語は服従に占められている。声の主が本当に神であるかどうかなど問題にならない。すき間だらけの文章が、逆に、有無を言わさない従属の効果を与える。アブラハムは従わざるを得ない状況に置かれている。ブーバーによる特別扱いの解釈はアブラハムから感じる精神性を台無しにしている。すべての要素は神の命令を実行するためにのみ登場する。不明瞭と不明確さに覆われた沈黙の旅である。一切言及がないため、アブラハムの試練だけが浮き上がる。読者も何かに気をとられることなく、それに集中する。アブラハムとイサクの間で交わされる会話は、事の成り行きを知っている読み手には沈黙以上に耐え難い。否が応でも、その瞬間に向けて緊迫感がさらに増す。神がアブラハムに、『創世記』21章12節で、自分の子孫がイサクを通じて伝えられると言われたのに、その子を生贄に差し出せと命じるのは矛盾している。アブラハムには主の御意思がわからない。ただ、従うほかない。キルケゴールやレヴィナスの解釈では、アブラハムが第二の声を見抜いており、それではアブラハムが神より上手ということになってしまう。これは神と人間の定義に反している。アブラハムは神の命じた通り、イサクを捧げようとしたその瞬間、天使が中止を伝える。唯一絶対の神への畏怖を心の奥底まで痛感する罰をアブラハムは受ける。神は正しく、罰し、報いる。

 文学的効果に着目して導き出したこの結論は、実は、関根教授が『旧約聖書と哲学』で提示しているものとさほど違いがない。『創世記』における神と人間の定義を意識してイサク献供の物語を読むならば、そう導かざるを得ない。自らの哲学的立場に引き寄せて、この物語の解釈を議論することは、あまり建設的ではない。
 もっとも、関根教授のイサクの献供物語をめぐる最大の関心は22章14節にある。従来の学説に異議を申し立て、次のように訳出している。

 アブラハムはこの場所を、「ヤハウェは見る」と名付けた。それが今日ではこう言われる、「その山でヤハウェは見られる」、と。


 「ラーアー(ra'ah)」は、本来、「見る」を意味する動詞である。けれども、これでは理解し難いとして、新共同訳を含め大部分の翻訳で22章8節と同義であるとして「備える」と意訳し、シリア儀訳などに基づいて受動態も能動態に読み替えている。「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている」。伝統的に「見る」と訳出されなかった理由の一つとして、神は姿を現わしていないし、神を見たものは生きていけないと『出エジプト記』19章21節と33章20節など旧約聖書の複数箇所に亘って記されているからである。

 「ラーアー(ra'ah)」の「ラー」はレーシュ、「ア」はアレフ、「―」はヘーの文字が用いられている。ヘブライ語を含むセム語では、単語の分析をする前に、まず語根を探り当てて意味を推測する。それが不明な場合は、類義語や対義語など対として使われるワード・ペアを頼りにする。他のセム語で語根の意味を推定する。「ラーアー」は弱変化動詞で、第三語根子音がヘーであるから、Vヘー型に属する。動詞の場合、語根に加えて、「ビンヤン」、すなわち語形パターンを理解していると、意味の推定に効果的である。三つの語根をX・Y・とし、それぞれの間にaが挟まれるXaYaZのパターンをパアル態と呼び、自動詞もしくは他動詞である。「ラーアー」はこれに属する。niが接頭されて、niXYaZというパターンをニファル態と言い、パアル態の受身あるいは自動詞である。22章14節の「イルエ(yir'e)」は三人称男性単数未完了形能動態、「イエラエ(yera'e)」は三人称男性単数未完了形受動態であり、パアル態とニファル態の対比となっている。なお、パアルやニファルなどと言うのは、X・Y・Zにそれぞれへブライ文字のフェー(ペー)・アイン・ラメッドを用いてビンヤンを七つのカテゴリーにしているからである。

 挑戦的な研究者たちはあえて「ラーアー」を「見る」と直訳しているが、なぜ受動態が用いられているのかに関して黙して語らない。関根教授は直訳の側に賛同し、なおかつ受動態の理由を自分のイサク献供物語の解釈から説明している。「アブラハムがこの世ならぬ贈り物として最も愛惜していたものを、葛藤の果てに贈り主に返す覚悟をしたとき、そこでこそ神が此岸に真に内在的に顕れたとの証言が、この『ヤハウエは見られる』という言い方にほかならない」(『旧約聖書と哲学』)。

 関根教授はキリスト教的な「内在」を導入して論証している。関根教授の聖書解釈における重要な関心が「内在」であることは著作を読めばわかるので、その立場からの説明と推察できよう。しかし、モーセ五書は神学的議論ではなく、宗教的・道徳的指針が記されている。直訳自体には納得できるが、そうするにしても、神への畏怖から裏付ける方がよいだろう。

 ユダヤ歴の新年を「ロシュ・ハシャナ」と呼ぶ。この日は世界の誕生日である。神は生命の本を開いて、個人の一年間の行動を記録する。この儀式では、傷のない雄羊の角笛「ショファール」が鳴らされる。それによって神と直接話す。これはイサクの献供物語に由来している。そこには二つのメッセージがこめられている。一つは、神にアブラハムがイサクを捧げようとした畏怖の気持ちを決して忘れていないことを伝えるためである。もう一つは、ユダヤ人に自分たちの祖アブラハムが神を畏れて息子イサクを生贄にしようとしたことを忘れさせないためである。

 「ラーアー」をめぐる部分の翻訳もこうした考えから考案すべきであろう。人間は神を畏怖していなければならない。イサクをめぐってアブラハムはそれを忘れ、神は見抜く。かの地は主がいつも見ていることをアブラハムに心の奥底まで思い知らしめる。アブラハムはこれからもそれを忘れまいとその地を「ヤハウェ・イルエ」と名づける。後に、ユダヤ人はアブラハムが生贄に応じようとしたことを思い起こし続けるために、神を畏怖していなければならないとそこを「ヤハウエ・イエラエ」に反転改称していく。

 中沢訳では、註の中で「ヤハウェ・イルエ」を「ヤハウェ見たもう」としつつ、8節の「用意してくださる」と同義と解説している。一方、「ヤハウエ・イエラエ」は本文で「この山でヤハウェ現わる」と訳出している。これも納得させられる解釈である。文言の解釈という点では、宗教によっては神学と法学が一体である場合もあるけれども、哲学や倫理学以上に法学が厳密だろう。法学における解釈には、文理解釈・拡張解釈・限定解釈・論理解釈・類推解釈・反対解釈があるが、テキストの文言の哲学的解釈もこのいずれかに相当する。中沢訳にはこの妙が見られる。

 歴史的アプローチはその成果を現代に問いかけることに意義がある。それは自明性を揺り動かし、ものの見方を広げてくれる。他方、哲学者がすべきことは自らの哲学的地平からこの物語を解釈することではない。対象の核心こそが固有の問いかけをする。物語の核心の問いかけに対し、自らの哲学的地平からどのように応えるのかが重要である。真の多様性はそこにある。この応答に関しては興味が尽きない。イサク献供の問いかけを現代社会に生きる哲学者としていかに応えるのか。どのように受けとめるかが求められる。けれども、その際、安易な時事的問題への結びつけは避けなければならない。哲学者もそうだが、研究者は、社会常識を含めて自分の専門以外のことに必ずしも精通していないため、トンチンカンな主張になりかねない。むしろ、哲学者はテキストの声をよく傾聴し、自明視されている現代の認識を相対化する試みとしてその応えを行うべきである。

 古典は、それが前提していた歴史的・社会的状況が過ぎ去ってしまった後も、思考のインフラとして生き続け、その核心が古びない作品である。歴史的評価がほぼ確定した作品とまだ定まっていない作品とに二分される。後者では新たな解釈が要請されているが、前者においては、見つかっていない解釈を提示する必要性はない。すでに核心が形成されている以上、新奇な読みはその作品ならではの固有性から離れてしまう。むしろ、現代の自明性を相対化するために、その核心の問いかけを熟議するべきである。古典を読むとはすでに思惟されたものを再読し、自身の認識を再検討する作業である。

 現代において、倫理的判断は、アブラハムの場合と同様、個別的な事情を抱えた場面での問いかけで求められる。しかし、従来の哲学の倫理への貢献はメタレベルにあり、個別性を十分に配慮できず、やれることは限られている。それを見極めた上で、解釈主義をとるのであれば、徹底的に相手の主観性に寄り添い、アブラハムがそうしたように、その声を聞くことに専心すべきである。

〈了〉

参照文献
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柴田武他、『ことばの意味3』、平凡社ライブラリー、2003年
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関根清三、『倫理の探求』、中公新書、2002年
関根清三、『旧約聖書の思想』、講談社学術文庫、2005年
関根清三、『旧約聖書と哲学』。岩波書店、2008年
高橋正男、『旧約聖書の世界』、時事通信社、1990年
高橋正男、『死海文書』、講談社選書メチエ、1998年
手塚治虫、『新装版ブラック・ジャック8』、秋田書店、2004年

リブカ・エリツール、『聖書の伝説1』、別府信男訳、ミルトス、1988年
デニス・プレガー=ジョーゼフ・テルシュキン、『現代人のためのユダヤ教入門』、松宮克昌他訳、ミルトス、1992年
エーリッヒ・アウエルバッハ、『ミメーシス』上、篠田一士他訳、ちくま学芸文庫、1994年
ミルトン・スタインバーグ、『ユダヤ教の考えかた―その宗教観と世界観』、山岡万里子訳、ミルトス、1998年
R・ノーマン・ワイブレイ、『モーセ五書入門』、山我哲雄訳、教文館、1998年
ジャック・デリダ、『死を与える』、廣瀬浩司他訳、ちくま学芸文庫、2004年
チャーレス・スズラックマン、『ユダヤ教』、中道久純訳、現代書館、2006年

旧約新約聖書大事典編集委員会編、『旧約新約聖書大事典』、教文館、1989年
『旧約聖書 創世記』、関根正雄訳、岩波文庫、1969年
『聖書新共同訳』、日本聖書協会、1987年
『旧約聖書』、中沢治樹訳、中公クラシックス、2004年

『キルケゴール著作集5』、桝田啓三郎訳、白水社、1962年
『世界の名著23』、中公バックス、1979年
『カント全集18』、岩波書店、2002年