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吉本隆明試論 第一章


佐藤清文

Seibun Satow

2010年9月13日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「うさぎー、十五夜―!ねずみのバカヤロー!」

岡本喜八『肉弾』


第1章 戦争責任・戦後責任・戦前責任

 2010年8月19日、アメリカ軍戦闘部隊のイラクからの撤退が完了する。2003年3月に始まったイラク戦争に関する検証が参戦国の間で進んでいる。戦争の大義だった大量破壊兵器もアルカイダなど国際テロ組織との関係も確認されず、この戦争は中東の情勢をさらなる混乱に陥れ、世界を分断させただけである。開戦以来の犠牲者は多国籍軍の将兵4400人超、イラク側は市民を含めて少なくとも10万人以上に及ぶ。インターネットで公開されているイギリスやオランダの検証では、この戦争が国際法上の根拠を著しく欠き、サダム・フセイン政権打倒だけを目的にしていただけで、戦後復興の見通しもろくに立てず、後は野となれ山となれと推進派が考えていた実態が明らかになっている。

 アメリカには、戦争に際して、政府、特に大統領の免責特権が認められている。裁判において、原子爆弾の投下や枯葉剤の散布を承認した合衆国大統領が被告席に座ることはない。今回のイラク戦争でも、おそらく、ブッシュ家の馬鹿息子が侵略戦争の責任を公の場で糾弾されることはないだろう。

 一方、日本ではこうした検証作業が行われていない。ジョージ・W・ブッシュ政権との関係の強化を外交・安全保障政策の基盤と捉えていた当時の小泉純一郎首相は、開戦2日前の03年3月18日、いち早く、米国への支持を表明している。しかし、これは彼の独断専行である。松本一弥記者は、10年8月18日付『朝日新聞夕刊』の「イラク 深き淵より14」において、閣僚懇談会などでその対応を協議したことはないという石破茂元防衛庁長官ら当時の複数の政府関係者の話を紹介している。のみならず、国会の党首討論で憲政の恥とも言うべき答弁を繰り返し、強引に自衛隊を戦後復興と称してイラクに派遣している。「非戦闘地域があるのかわたしに聞かれたって分かるわけがない」(03年7月23日)。「自衛隊が活動する地域は非戦闘地域」(04年11月10日)。しかも、それによって日本は外交への信頼と安全保障環境の好転が得られたわけではない。

 責任が問われるべきは当時の政府だけではない。開戦の正当性を国際法や実証的資料などから論じることなく、アメリカに協力する以外に選択肢はないと声高に主張した日本の言論人・マスメディアが少なからずいる。アメリカを支持すれば、イラク同様、北朝鮮に対しても強硬に臨んでくれるだろうという御目出度い思いこみにとらわれている。こんな理屈には国際社会に通じる説得力もなければ、歴史の厳しい検証に耐える論理もない。しかも、彼らが政府関係者以上に決定に苦悩していたわけでもない。このような無能な連中が依然として、その後の事態を直視して、かつての自説に対する説明責任も果たすことなく、言論活動を続けている。

 戦争をめぐる責任には三種類ある。戦争責任・戦後責任・戦前責任である。戦争責任は戦争を経験した人々の責任である。責任をめぐる権限・行為・結果・内容などに着目することで、戦争犯罪や戦争協力などいくつかに分類できる。次の戦後責任は戦争を体験していないものにもありうる。戦後、国内外に対してその歴史認識の教育・啓蒙や戦後賠償・補償などを果たす責任である。最後の戦前責任は、今を将来に起きる戦争の戦前にさせないための責任である。しかし、戦争責任を明確にしなければ、以下の二つへのとりくみは困難である。

 このままでは、いつでも今が戦前責任となりかねない。イラク戦争の責任をめぐる日本の言論界はまったくだらしない状況であるが、第二次世界大戦後、戦争責任をめぐって独特の問題提起を行った人物がいる。それが吉本隆明である。
 私は天皇の放送を工場の広場できいて、すぐに茫然として寮へかえった。何かしらぬが独りで泣いていると、寮のおばさんが、「どうしたのかえ、喧嘩でもしたんか」ときいた。真昼間だというのに、小母さんは、「ねててなだめなさえ」というと蒲団をしき出した。わたしは、漁港の突堤へでると、何もかもわからないといった具合に、いつものように裸になると海へとびこんで沖の方へ泳いでいた。水にあおむけになると、空がいつもとおなじように晴れているのが不思議だった。そして、ときどき現実にかえると、「あっ」とか「うっ」とかいう無声の声といっしょに、羞恥のようなものが走って仕方がなかった。
 (吉本隆明『戦争と世代』)

 八月十五日以後の数日は、挫折感のなかの平常心のようなものであった。せっかくつくった中間実験工場の設備をこわしたり、工場の石炭を貨車につみこんで運んだりする作業をやった。無表情、無感情で、まさに生きながら死んだものは、こういう具合でなければならない典型的な貌をしていた。何かの拍子に笑いがかえってくると、ひどくはずかしい気がした。わたしがリアリスティックに現実を認識するとは、どういうことかを、学んだ最大の事件は、敗戦である。
(吉本隆明『背景の記憶』)


 兵士たちをさげすむことは、自分をさげすむことであった。知識人、文学者の豹変ぶりを嗤うことは、みずからが模倣した思想を嗤うことであった。どのように考えてもこの関は循環して抜け道がなかった。……わたしたちは、すべてを嗤うことにより、自分自身を嗤うという方法で、みずからの思想形成をはじめるほかなかった。この方法のほかにたよるべきものはなかったのである。
 (『戦争と世代』)

つづく