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公開と参加


佐藤清文

Seibun Satow

2010年8月6日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「民主主義とは、たんなる政府の形態ではない。一つの集団生活の形式であり、相互の経験を各員が共同に理解し合うような生活形式である」。

ジョン・デューイ『民主主義と教育』

 鹿児島県阿久根市の竹原信一市長が議会を召集せず、専決処分を繰り返している。彼は、以前から、中央アジアの独裁者さながらの奇抜な政策と無分別な言動を行い、市政を混乱させている。

 しかし、彼のような独裁首長が登場する下地は出来上がっている。独善的かつ感性的で、エキセントリック、攻撃的、反政党政治的な権威主義者の首長は、石原慎太郎東京都知事や橋下徹大阪府知事、東国原英夫宮崎県知事などすでに何人も誕生している。彼らは堅実な政策運営ではなく、マスメディアを通じた恣意的な言動で世間に知られている。

 長らく戦後の自治体の首長をめぐる最大の問題は多選である。戦前の任命首長は、任期が平均して2年ほどで、しかも全国を渡り歩くケースも少なくない。戦後、首長の選出は公選制へと改められ、落ち着いた政策運営の必要性から任期を4年を1期とされる。ところが、多選禁止条項がなかったため、3期12年も珍しくなく、中には8選された首長まで出現している。各政党は有力候補に相乗りし、議会は彼と馴れ合うようになる。役所も万年首長の下では意欲をなくし、その意向に無批判的に従う。結果の見えた選挙は有権者に権利の行使を放棄させ、投票率が50%を切ることも珍しくなくなっている。地方政治は惰性に支配される。

 この状況に変化をもたらしたのが、1991年に誕生した橋本大二郎高知県知事である。彼は既成政党の推薦を受けず、無党派層に支持されて当選する。それ以降、惰性打破を期待され、無党派層に立脚した首長が次々に登場している。

 しかし、その無党派層知事も大きく二つに分類できる。一つは市民派型、もう一つは権威主義型であり、その基準はマスメディアへの依存性にある。

 広義の現代民主主義の課題は公開と参加である。市民派型は市民との間で政治課題を共有し、できる限り情報を公開、意思決定への参加を促している。北川正泰三重県知事や浅野史郎宮城県知事がその代表である。

 権威主義型は公開と参加をマスメディアを通じて擬似的に有権者に感じさせる。彼らは市民に向けての情報公開も、意思決定への参加も促進する気はない。マスメディアが彼らの荒っぽい情動的な言動を伝えることで有権者に情報公開をしていると思わせ、政策の意思決定に参加していると錯覚させる。有権者は既成政治への不満に対するカタルシスを得ているだけで、現実的には政治に関与していない。お粗末な失策だらけでも、そのため、有権者にはそれが実感できない。先に挙げた三人がその典型である。

 有権者は人気者が首長になれば全国から注目を浴び、またマスメディアが議会や役所を監視してくれると期待して、権威主義者に投票する。けれども、その場合、主役は首長自身であって、自治体、まして市民ではない。彼らは、だから、しばしば国政への色気を見せる。

 今日の首長に求められるのは市民との共有への意志に基づく政治における公開と参加の促進である。マスメディアでの露出度の高さではない。市民の側にもそうした意識が不可欠だろう。

 現代民主主義の公開と参加という課題に応える気がない既成政治の惰性が有権者に権威主義への期待を抱かせたわけだが、状況は改善していない。彼らは共有への意志がなく、自分がスポットライトを浴びていたいだけだ。カタルシスを味わったところで、市民の暮らしはその後も続いていく。

〈了〉