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翻訳者のアカウンタビリティ
−ケセン語訳新約聖書


佐藤清文

Seibun Satow

2010年6月7日(6月15日掲載)


無断転載禁


「翻訳に不可能はない」。

柳瀬尚紀『翻訳はいかにすべきか』


第1章 聖書を訳す

 現在にまで伝えられてきた四福音書であるが、そこには歴史的イエスの発言と後に弟子たちが付け加えたと思われる部分が混在している。イエスはいかに考えて、ユダヤ教改革運動を行っていたのかをモンタージュする試みは、聖書研究の重要な課題の一つである。『マルコによる福音書』と『マタイによる福音書』に共通している記述が多く、両者が現存してはいないイエスによる言行録、すなわち「Q資料」をその作者たちは参照していたのではないかという大胆な仮説が提唱されている。イエスの倫理思想の核心は何であるのかを考察することは依然として哲学的な示唆に富んでいる。

 三八上北出身の寺山修司は、『キリスト』において、四福音書を比較し、そこから浮かび上がるイエス像について次のように述べている。
 『マタイ伝』の筆者マタイは、キリストの十二弟子の一人で、税吏だった。彼の文章には税吏らしい実直さが見られ、その綿密さに、私は「要点を!要点を!」と言いたくなる。(略)

 『ルカ伝』の筆者ルカはギリシャ人で医師である。彼は使徒パウロの弟子として、そのすべての伝道旅行に従ったと言われている。文章も簡潔で読みやすいが、小説的すぎると言う人もいる。

 『ヨハネ伝』の筆者ヨハネは、詩人で哲学者である。(略)

 その文章は、「はじめに言葉ありき」という第一行目から、「神からつかわされた人がいて、その名をヨハネといった。この人は、光を証明するために、またすべての人が彼によって信じるために、証人として来た。この人は光ではなく、光を証明するために来た」という大げさな装飾文体で書かれ、伝記作者としての信は措きがたい。

 『マルコ伝』の筆者マルコはペトロの弟子で、伝道の「通訳」として知られている。この書はギリシャ語で書かれている。通訳らしいひかえ目の文章である。

 モンタージュ・イエス。その肉体について言えば、長髪で髭もじゃの大男で筋肉質、無頼の徒であったと見るのが正しいのであるまいか。

 ヨーロッパ人は悲しそうなキリスト、髭のないキリストを好んで描きたがるが、セム族に属する東洋人のキリストは、年よりも老けて。(しかもナザレ人は長髪で髭をそらない掟があるから)ヒッピーの革命児といったイメージがふさわしいだろう。四冊の福音書から思いうかぶキリストは、戦闘的な革命家で、大工の倅らしいがっちりとした体格の持主、しかも入浴しないので、汗くさく、垢くさく毛深かった、と思われる。

 寺山修司が特徴のあるぞれぞれの福音書から読みとったイエス像は体毛が薄く。線の細い「悲しそう」ではない。そんなか細い男を社会の底辺で差別されている人たちが心から信じるはずもない。彼の思い浮かべるイエスはガラリアの田舎から飛び出してきたエネルギッシュで、たくましく、ムンムンとカリスマ性が漂い、男くさい力強い風雲児である。

 気仙の医師で、カトリックの山浦玄嗣(はるつぐ)の思い描くイエス像も「悲しそう」ではない。エルサレムから遠く離れたナザレの田舎大工イエスは訛のきつい方言で教えを説き、それを聞く弟子も同じくガラリア湖の漁師や税吏など虐げられた人たちだ。高い知識と教養に溢れ、垢抜けたかの都の知識人には何を言っているのか聞きとれないカッペ丸出しの連中である。自分の名前の読み書きさえ怪しいものだ。しかし、それはまさに気仙に住む自分たちと重なり合う。東京からはるか彼方にある岩手県の三陸の気仙大工や浜人は、真っ黒に日焼けし、ズーズー弁で話し、その上、田舎者だという屈辱で心を閉ざしている。そんなふるさとの仲間と自分の敬愛するイエスのことを分かち合いたい。けれども、今ある聖書は標準語で書かれている。これでは「頭でひととおり理解」できるが、「腹の奥」まで届きはしない。気仙衆にイエスの言葉をそうするには気仙方言、すなわちケセン語を使うほかない。福音書をケセン語に翻訳しなければならない。山浦医師は『ケセン語訳新約聖書マタイによる福音書』の「序」でそう述べている。

 山浦玄嗣は、1940年、東京市大森区(現東京都大田区大森)に生まれ、同年、岩手県釜石市に転居、44年から50年まで同県気仙郡越喜来村、その後、気仙郡盛町に居住する。大船渡市立盛中学校(現大船渡市立第一中学校)卒業後、東京都成城学園高校と岩手県立盛高校(現岩手県立大船渡高校)を経て、60年、東北大学医学部に進学する。66年、同大学卒療護、71年には東北大学大学院医学研究科外科学科修了、医学博士号を習得している。東北大学抗酸菌研究所において外科学・雁の実験病理学・放射線医学を研究、81年、同研究所放射線医学部門助教授に就任、86年に大船渡市盛町で山浦医院を開業し、現在に至っている。

 岩手県、より正確には旧伊達藩の領域には殉教の歴史がある。江戸時代、現在の東磐井郡藤沢町大籠(おおかご)で大規模なキリシタン教弾圧が行われている。この一帯はたたら製鉄で栄えている。たたら製鉄を行う製鉄所は「炯屋(どうや)」と呼ばれ、それを経営していた千葉土佐が製鉄の技術指導のために備中国(現岡山県)から千松大八郎・小八郎兄弟を招いている。彼らはキリシタンであり、この地でも布教を始める。その後、フランシスコ・バラヤス神父も来訪し、大籠のキリシタン人口がさらに増加する。野心溢れる伊達政宗は製鉄と欧州のキリスト教勢力を利用して天下をとるつもりでいたが、時勢はすでに決して叶わず、キリシタンを弾圧し、徳川への忠誠を示す。仙台藩は、1639年(寛永16年)から数年間で、300人以上の信者を処刑したと言われている。ローマ・カトリック教会は、1995年、大籠を殉教の地と認定し、大籠キリシタン殉教公園でその歴史が伝えられている。気仙を含む旧伊達藩には、こうしたキリスト教の歴史がある。

 福音書翻訳の前に、山浦医師はケセン語を詳細に研究し、標準語対応の辞書を作成している。言語はネイティヴ・スピーカーにおいて内在化されている。それを明示化して、解剖し、体系化する必要がある。山浦医師は採集に25年、執筆に6年、編集・校正・印刷に2年をかけ、2000年、B5版上下巻で3000ページ、定価3万8千円の『ケセン語大辞典』を無明舎出版より刊行する。この大著は文法編と語彙編に分かれ、すべての項目に用例がつけられ、OED、すなわちオックスフォード英語辞典を思い出させる。しかも、ケセン語は標準語と発音やアクセントが異なるので、それを表記するためケセン式ローマ字を10年も費やして考案している。これを用いれば、標準語の文章をケセン語に翻訳できる。ただし、一般のワープロ・ソフトは対応していない。

 ところが、新共同訳の新約聖書をケセン語に訳出する作業に入った途端、山浦医師は困難に直面する。幼い頃から親しんできた福音書の字句をよくよく読んでみると、わからないことだらけだと気がつく。『マタイによる福音書』は「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と始まる。アブラハムから数えて42代目、ダビデから数えて28代目が「子」なはずがない。これでは聖書が気のふれた本だと思われかねない。『平家物語』は平清盛を「桓武天皇九代の後胤(こういん)」と記している。この「子」は、同様に、「後胤」、すなわち「子孫」と訳すべきではないのかと疑問がわく。作業を進めれば進めるほど、次から次へと意味のとれない箇所が現われ、途方にくれている。

 山浦医師は、言語学者であると同時に聖書学者でもある崎谷満医学博士から、新共同訳からの訳出は重訳なので、ギリシア語原典から福音書を翻訳することを勧められる。そこで、"The Greek New Testament (fourth revised edition)"から直にケセン語に翻訳する作業にとりかかる。

 訳出に際して、山浦医師はいくつかの留意をしている。まず、「堅苦しい意味のとりにくい直訳をさけ、あくまでもケセン語の常識とケセン語の感覚を大事にして、ときには思い切った意訳」も辞さない点である。『マタイによる福音書』19章24節に「金持ちが神の国に入るのは、駱駝が針の穴を通るよりも難しい」とある。しかし、「駱駝」はケセン人にとって見たこともない珍しい動物なので、馴染みのある「牛」と訳している。

 次に、地名人名などの固有名詞はギリシア語の発音をケセン語風に変えて安点である。「アブラハム」は「アブラハン」となる。なお、イエスは気仙では昔から「ヤソ」と呼ばれてきたので、それを用いている。

 最後に、できる限り、平易で、ケセン語の用語法を尊重するため、漢語を避ける点である。『マタイによる福音書』4章1節の「悪魔」を「人の心ォ試す者」と訳している。

 こうして訳出されたケセン語訳新約聖書は、2002年に『マタイによる福音書』、03年に『マルコによる福音書』と『ルカによる福音書』、04年に『ヨハネによる福音書』を刊行する。各巻B5判で、分量は300ページ前後から400ページ、価格は6000円前後である。

 見開き左ページにケセン式ローマ字、右に漢字混じりのケセン仮名を用いてそれぞれ横書きで記されている。ケセン仮名はケセン語の発音とアクセントを表わすために工夫された仮名である。ケセン語では標準語の「し」と「す」の区別がなく、その中間音が話されているので、「す」から横棒をとった文字をそれに当てている。蛇足ながら、ジャン・ギャバンの代表作『現金に手を出すな』は、ズーズー弁で発音すると、『現金に手を出しな』となり、意味が正反対になってしまう。

 さらに、本文とほぼ同量の解説と訳者自身による朗読を収録したCDが3から4枚ついている。山浦医師は、2004年4月28日にバチカンにおいて教皇ヨハネ・パウロ二世に謁見、ケセン語訳聖書を献呈している。
 頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ァ幸せだ。神様の懐に抱かさんのァその人達だ。泣ぐ人ァ幸せだ。その人達ァ慰めらィる。

(『マタイによる福音書』5章3〜4節)

 ここで本文を本格的に引用したいところだが、一般のワープロ・ソフトにケセン式ローマ字やケセン仮名は対応していないため、残念ながら、この程度にとどめざるを得ない。しかし、これでも本文の雰囲気は伝わってくるだろう。

 この試みはマルティン・ルターを思い起こさせるかもしれないが、実際には、非常にカトリック的である。ルター聖書は、文体は当時の口語を踏まえているとされているけれども、直訳も少なくない。カトリックは宗教改革に対抗するため、プロテスタントが軽視し禁止した信仰を容認する。聖母や聖人、遺物信仰はその一例である。民衆がカトリックの教えを受け入れやすくするように、布教に際してはわかりやすさや写実性、情動性を重視している。民衆への理解可能性を優先させるケセン語訳新約聖書はこの要件を備えている。

 余談ながら、一神教の伝統から、キリスト教の布教には偶像を用いることは許されない。あくまでも聖像に限定される。3次元の彫刻は偶像につながりやすいが、2次元の絵画は神そのものではないとして好んで利用されている。ヨーロッパで絵画が発展した理由の一つとして挙げられよう。それに対して、日本においては仏像美術が発達している。欽明天皇は、6世紀、大陸からもたらされた仏像の美しさに心を奪われ、仏教の受け入れを認める。仏教は宗教的理論ではなく、造形芸術として伝来したため、仏像制作が進展している。イエズス会は、日本での布教にもある程度こうした実情を考慮し、芸術作品を利用している。しかし、それは、偶像と聖像の区別が民衆に不十分だったこともあって、踏み絵として仇になる。

 このケセン語訳新約聖書は聖書に新たな翻訳が加わったことだけを意味しているのではない。翻訳の考えを根本的な認識の転換を促している。


第2章 意訳と直訳

 ドイツの神学者フリードリッヒ・シュライエルマッハー(Friedrich Schleiermacher)は、1813年6月24日に行った王立学術アカデミー講演『翻訳のさまざまな方法について (Ueber die verschiedenen Methoden des Uebersezens)』 において、「翻訳の方法は二種類しかありません」と主張している。「著者を読者の方に引っ張ってくる訳か、読者を著者の方に引っ張ってくる訳かのどちらかしかないのであります」。前者が「意訳(Free Translation)」、後者は「直訳(Literal Translation)」に当たる。翻訳は「起点言語(the Source Language: SL)」のテキストを「目標言語(the Target Language: TL)」へ変換する作業である。両言語の間には、概して、言語学的・文化的相違がある。起点言語に重心を置いて訳出したのが直訳であり、目標言語を優先して訳すと意訳となる。

 1970年代に日本の翻訳論に影響を与えた著名な聖書翻訳者ユージン・A・ナイダ(Eugene A. Nida)とチャールズ・R・テイバー(Charles R. Taber)は,『翻訳─理論と実際(The Theory and Practice of Translation )』(1969)において、「形式のみの対応(Formal Correspondence)」と「内容重視の対応(Dynamic Equivalence):の対立として翻訳を論じ、「翻訳調表現(Translationese)」を斥け、「その翻訳の対象となっている読者が、訳されたものをどれだけ正しく理解できるかが、翻訳の正しさを決める基準となる」と言っている。話者が伝えようとする内容に対しての「忠実性(Fidelity)」や聞き手が得る内容に対しての「等価性 (Equivalence)」 を重視すると共に、文化的な差異なども考慮に入れる必要がある。「各言語には、独自の特質がある」以上、翻訳は文化の「操作(manipulation)」であってはならない。

 当然、起点言語と目標言語の文化のいずれもよく研究した上で、翻訳作業に入ることが前提である。けれども、それは、何も、スラスラ読める翻訳こそが最良だという意味ではない。翻訳は異文化を伝え、自文化を変える。自然ではない違和感が異文化を考えようとするきっかけになることも少なくない。その一例が二葉亭四迷によるイヴァン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフの翻訳である。近代を描いた文学を従来の書き言葉で訳出したなら、それが読者に伝えるのは江戸時代の読本の世界でしかない。不自然とも思われる破格の文体が必要だ。二葉亭の翻訳が近代日本語の書き言葉を生み出している。
 秋は九月中旬(なかば)の事で、一日(あるひ)自分がさる樺林(かばゝやし)の中(うち)に坐つてゐたことが有つた。朝から小雨が降つて、その霽間(はれま)にはをりをり生暖(なまあゝか)な日景(ひかげ)も射(さ)すといふ氣紛(きまぐ)れな空合(そらあひ)である。

(『あひゞき』)

 とは言うものの、直訳にするのか、それとも意訳にするのかという選択も、訳者個人の信条だけでなく、文化的な傾向によっても左右される。アメリカのテンプル大学教授ローレンス・ヴェヌティ(Lawrence Venuti)は、『翻訳の不可視性─翻訳の歴史(The Translator's Invisibility: A History of Translation)』(1995)の仲で、それぞれ「自国語化(Domestication)」、「外国語化(Foreignization)」と呼び、いずれの対場をとるかは欧米でも地域によって分かれると言っている。伝統的に、英米では翻訳の自然さが重んじられるため、前者が主流であるのに対し、ナショナリズムを言語を中心とした文化に求めたロマン派の流れを汲むドイツでは後者の傾向が強く、フランスもその影響を受けている。


第3章 「白足袋」="white gloves"論争

 日本文学の翻訳をめぐって最も議論が沸騰した事例は、おそらく、太宰治の小説『斜陽』をドナルド・キーンが訳した"The Setting Sun"だろう。この件に関しては鳥飼久美子上智大学教授の『歴史を変えた誤訳』に詳しい。

 敗戦により没落した旧華族の母子が東京から伊豆に移り住むが、母が病気になり、村の医者が往診に訪れる。

 太宰はこの場面を次のように描写している。
 二時間ほどして叔父さまが、村の先生を連れてこられた.村の先生は、もうだいぶおとし寄りのようで、そうして仙台平の袴を着け、白足袋をはいておられた。
 「仙台平の袴」とは仙台産の絹製の袴である。旧華族のご夫人を診察するとあって、礼節をわきまえるために、上等の袴と白足袋を履いて来たというわけだ。

 キーンはこのシーンを次のように訳出している。
 Some two hours later my uncle returned with the village doctor. He seemed quite an old man and was dressed in formal, rather old-fashioned Japanese costume.
 具体的な服装の名称には触れず、それが意味する「いささか古めかしい正装の和服」と訳している。当時の英米の読者は「仙台平の袴」や「白足袋」と言われても、イメージがわかないだろうし、くどくど説明したところで、文章の流れを悪くするだけと判断したように推測される。意訳志向の強い英米系の研究者による典型的な翻訳だとも言えよう。

 この村医者は合わせて四回登場し、ありがたいことに、毎回格好が違っている。その中で、問題になるのが次のシーンである。
 お昼すこし前に、下の村の先生がまた見えられた。こんどはお袴を着けていなかったが、白足袋は、やはりはいておられた。
 袴姿ではないが、白足袋は履いている。何もこんなに中途半端な服装でなくてもよかろうと注文をつけたくなる。しかし、後のコロンビア大学名誉教授はこの面倒な服装を次のように訳している。
 A little before noon the doctor appeared again. This time he was in slightly less formal attire, but he still wore his white gloves.
 「白足袋」を"white gloves"、すなわち「白手袋」と翻訳している。これを直訳しても読者にはニュアンスが伝わらない。そこで、欧米の文脈に置き換えてその意味するものを示すために、「白手袋」を選んでいる。翻訳家の佐藤紘彰は、『訳せないもの』において、これを「手品」と呼び、「戦後の日本文学の英訳の中でも特筆すべき名訳」と絶賛している。

 その一方で、見事な翻訳だと認めながらも、それを批判する声も少なくない。「白足袋」を「白手袋」と訳したのでは、それが持つ日本の文化的背景は失われてしまう。この翻訳は文化の「操作」ではないのかという指摘である。いずれもキーンの訳の巧みさにはシャッポを脱いではいるけれども、やはり「白足袋」の日本文化における位置づけが読者に伝わらないことに納得がいっていない。

 中でも、ジェスチャーの国際比較研究でも知られる中野道雄は、『翻訳を考える』において、「手袋は手袋であって足袋ではないのだから、正しい理解への道は閉ざされてしまう」と厳しい。彼は多くの文学作品を調べ、一般的に男性が履くのは「紺足袋」であり、「白足袋」は主に女性の着装である。男性で「白足袋」なのは芸人や芸術家、神職、僧侶、医師である。

 この区分も、若干、曖昧な点が残る。江戸後期に、外出の際に足袋は女性が白、男性が紺という傾向が出来上がる。白足袋は、男性でも、中野道雄が挙げた職能集団だけでなく、武士階級が礼装として用いることもあったと伝えられている。岩手県北上市には、「鬼剣舞(おにけんばい)」という伝統舞踊があるが、白足袋をめぐる区分を融合している。威嚇的な鬼のような面──仏の化身──をつけ、刀を帯び、腕に鎖帷子、手甲、脚絆、白足袋に草鞋で、右手に扇、左手に赤い金剛杖をはさむいでたちで舞う。宗教であると同時に、芸能で、なおかつ武士的でもある。ただ、ハレの場であることは確かだろう。

 さらに、足袋に関しては、第55代内閣総理大臣石橋湛山が『タビ談義』(1951)において興味深い指摘をしている。それによると、日清戦争直後の頃、地方ではタビは白木綿の自家製が一般的で、金属製のコハゼもまだなく、タビの首についた共切れの木綿の紐で足に縛りつけている。けれども、紺タビになると、その共切れを入手するのが難しく、店で仕立てなければならない。しかも、このオーダーメードは洗濯すると、色落ちがするし、また穴が開いても、きれいに修繕できない。紺タビは洒落者の履く、贅沢品であり、湛山は中学入学から結婚するまでこれを愛用している。実際、「最後の元老」西園寺公望公爵も、外出の際、紺足袋だったことで知られている。しかし、媒酌人の三浦銕太郎夫人から、紺タビは不経済だから、白タビにするように戒められ、それに従っている。戦後、吉田茂首相が白タビを履いているのが「貴族趣味」だと批判された際、湛山はそれを鼻で笑っている。紺タビはすたれたが、湛山によると、当時の流行は黒の朱子タビで、依然として白タビはエコノミー・クラスの実用品でしかない。靴下の普及もあって、戦後、足袋に関する一般的な知識はかように低下している。

 中野は、その上で、例の箇所について次の三つの訳を提案している。
 The village doctor was dressed in formal, old-fashioned Japanese costume.

 The village doctor was dressed in a divided silk skirt and wore white split-toed socks.

 The village doctor was dressed in formal, old-fashioned attire, in a divided skirt and white socks,
 失礼ながら、いずれの訳も「白足袋」を英語として十分に伝えているとは言いがたい。"white socks"では、アメリカ人はシカゴの野球チームを思い出してしまう。そもそも、この部分だけをとり出して訳しても、作品全体との整合性がとれない。むしろ、キーンの翻訳の完成度の高さを改めて実感させられるだけである。吉田茂に対する一般的な反応を踏まえるならば、キーンの「白足袋」解釈で不足はない。

 今の若者が『斜陽』のページをめくるならば、そこに登場する小道具に関する知識はキーンが想定した当時の英語圏の読者とさほど差はないだろう。文脈から「仙台平の袴」の意味を推測できても、それがどのようなものか知らない。脚注をつけたとしても、その具体的なイメージがわかず、インターネットで調べてようやく納得するに違いない。

 それどころか、原作を読むよりも、キーン訳のほうが意味の通ることも少なくないだろう。前述の引用からすでに明らかなように、『斜陽』の敬語はまるでなっていない。キーンは、この奇妙な敬語を無視して、正しい英語で訳している。この意訳については日本側から批判はないようである。言葉遣いは出身社会階級や教育歴を表象する。娘の方は若いから仕方がないのかなと配慮しても、いい年をした母親まで使えていない。作者は敬語をわかっていないと言わざるを得ない。

 三島由紀夫は、『私の遍歴時代』において、『斜陽』を次のように批判している。
 私も早速目をとおしたが、第1章でつまづいてしまった。作中の貴族とはもちろん作者の寓意で、リアルな貴族でなくてもよいわけであるが、小説である以上、そこには多少の「まことらしさ」は必要なわけで、言葉づかいといい、生活習慣といい、私の見聞していた戦前の旧華族階級とこれほどちがった描写を見せられては、それだけでイヤ気がさしてしまった。貴族の娘が、台所を「お勝手」などという。「お母さまのお食事のいただき方」などという。これは当然「お母さまの食事の召上り方」でなければならぬ。その母親自身が、何でも敬語さえつければいいと思って、自分にも敬語をつけ、

 「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」

などという。それがしかも、庭で立ち小便をしているのである。
 今の若者でも、ここまで敬語を使えないのも珍しいだろう。編集者も気づいてしかるべきである。おそらく、これが今日そのままどこかの雑誌に掲載されることなどありえない。もっとも、この敬語の問題は、坂口安吾の『不良少年とキリスト』によると、『斜陽』の発表当時からかなり議論の的になっている。現在、これが太宰の愛人で歌人の太田静子の日記を基にしていることが知られている。「戦前の旧華族階級」をよく見聞してきた平岡公威が言うように、『斜陽』において、確かに、尊敬語と謙譲語、丁寧語、美化語が混乱して用いられているし、また何でも「お」をつければ敬語になるものでもないのに、やたらとそれを接頭している。こうした奇妙な敬語は、戦前の東京の山の手で使われている。いわゆる「ざます」・「あそばす」である。むしろ、こういうなっていない敬語の作品が流通したということは、社会階級がそれぞれ断絶していて、言葉遣いに関するリテラシーがあまりにも共有されていなかった現状を体現していたと現在の読者に推理させる。日本語に敏感ならば、足袋に執念を燃やす前に、敬語の用法を徹底的に批判するべきだろう。

 キーン自身は、『太宰治の文学』において、訳出の際におびただしい聖書の引用に閉口したと次のように述懐している。
 太宰が諸作品の中で幾度となくキリスト教に触れていることは、欧米の読者に太宰文学を評価しにくくさせているもう一つの原因である。時折キリスト教は、太宰の生活上の精神的空白を満たしていたもののように思われるのだが、晩年に紛れもなくキリスト教信者だと思っていた、と言う人もいる。しかし、太宰がキリスト教について書いたことは、アメリカのビート族が禅について書いていることと似ているように思われる。特に「斜陽」には聖書の引用句が多すぎて、私が翻訳する際に短縮する必要を感じた個所さえあった。聖書の引用句やしばしばキリスト教について書いていることは、太宰が実際上キリスト教の信者だったことを少しも暗示しないどころか、キリスト教を信じたいと欲していたことさえ暗示しない。キリスト教は太宰の好奇心をそそった。そして太宰は聖書の中に、彼自身の意志と情調を表現するのにふさわしい章句を発見したのである。しかし、彼の私生活でどの程度までキリスト教を信仰することができたにしろ、作品の中では、キリスト教は一種の謎めいた要素であって、重要なものではない。キリスト教に触れることで、太宰は彼が望んでいたような深みを作品に加えることはできなかった。
 目標言語の読者にとっては、この聖書の引用の必然性ならびに解釈は理解できない。太宰は思いつきと思いこみで聖書を引いているとしか思えない。聖書の代わりにカール・マルクスの『資本論』が使われていても、たいした違いはないだろう。太宰にはしばしばこうした無内容の恣意性が目につくが、他者と共有する意思もなく、自意識の優位さを示すアイロニーでしかない。浅はかだからこそ太宰にとって聖書が重要だという逆接は真に愚かである。キーンが訳出の際に困ったのは文化ではなく、恣意性である。文化は共同体で共有され、ある種の歴史と合理性を持っている。通常、翻訳で問題になるのはこの文化の伝達である。通時的・共時的理解、すなわちリテラシーを踏まえた上で、自己の解釈を主張している場合、それはその相対性から共有できる可能性がある以上、訳出できる。けれども、共有する気のない恣意性を訳することはできない。しかし、それは翻訳以前の問題である。文学の条件を満たしていない。


第3章 下書きは消すな

 ケセン語訳新約聖書は、その目的が明確であり、明らかに、意訳傾向が強い。と言うよりも、直訳の入りこむ余地はない。山浦医師の福音書解釈は、非常に日常感覚に近く、論理的な難しさは見当たらない。ユダヤ教改革運動を目指しているため、イエスは律法を踏まえつつも、その精神をより生かそうと字句を微妙に改変し、いささか際どいとも言える論理による倫理的な批判を行っている。そういった読解を期待する人からは不満が出るかもかもしれない。けれども、山浦医師の起点言語と目標言語に関する研究は非常に高い。

 ケセン語訳聖書で最も面白いのは解説である。通常、解説は本文だけでは十分に伝えられない歴史的・社会的・文化的・個人的背景に関する脚注である。確かに、この解説にもそういう面はあるが、それを超えている。この解説が翻訳論に新たな認識を提供している。

 山浦医師は、『マタイによる福音書』において、「解説」を次の三点から記述していると述べている。

(1) ケセン語そのものの意味の解説。
(2) 聖書に述べられている物語の解説。
(3) 聖書に述べられている話の内容についての訳者の解説。

 その上で、こうした解説をつけた理由について次のように説明している。
 翻訳というものには必ず訳者の解釈が入ってくるものです。翻訳作業そのものが実は解釈だといってもいいすぎではありません。新たな解釈は新たな訳を生み出します。訳者の解釈をきちんと伝えれば、なぜそのような役になったのかを伝えることができるでしょう。ただし、これらはあくまでも訳者個人の解釈です。中には見当違いの事柄もあるかもしれません。それについては、読者の叱正をお待ちしなければなりません。人はそうして進歩するものでありますから。

 聖書を読むときに感じる素朴な疑問や、矛盾点についての問題提起は、聖書を読む者にとっても大切なことだと思います。自由に、のびのびと捕われない心で、聖書を読んでゆくときに、思い掛けないすばらしい発見があり、感動があります。読者には、訳者とともに、その楽しさを味わっていただきたいものと思います。その楽しさが、「自分もひとつやってみようか」いう心につながったなら、すばらしいことだと思います。
 こうした姿勢は、このマルコがルカでもあることと無縁ではないだろう。インフォームド・コンセントにとり組み、セカンド・オピニオンを参考にすることを勧める医師のようだ。今日、医療においてコミュニケーションは重要な課題の一つであるが、中でも、インフォームド・コンセントは患者にとってもっとも身近なものの一つである。それは医療行為や治験などの患者や被験者が治療や臨床試験・治験の内容についてよく説明を受けて理解した上で 、方針に合意することと定義される。その内容には行為の名称や内実、期待される結果のみならず、代替治療や副作用、成功率、費用、予後までも含む具体的かつ正確な情報も必要とされる。山浦医師の専門は癌の放射線治療である。インフォームド・コンセントは欠かせない。

 山浦医師は、『マタイ書』5章13節の一般に「地の塩」として知られる字句を「この世の塩」と訳し、次のようにインフォームド・コンセントをしている。
原語はト・ハラス・テース・ゲース。つまり大地(ゲー)の塩(ハラス)ということ。ゲーは大地の意味が第一義で、ついで「この世」の意味になる。死海のあるパレスチナ地方は岩塩の多いところで、ひょっとしたらこれは文字通り「地の塩」つまり岩塩のことかもしれない。となれば、巧みな掛け詞にもなる。塩の主成分は塩化ナトリウムであるが、塩化マグネシウムもかなり含まれていて、これは空気中の水分を吸って潮解という現象を起こし、液化しやすい。当然味も薄まり、役に立たなくなる。どうしようもないから、捨てられて人に踏まれるだけ。また、蛇足ながら、このような岩塩が含まれている土地は塩害で作物が育たないから、農民にとっては困りものである。
 解説を読むと、訳者の翻訳の過程が見える。完成した翻訳だけを見せられるよりも、その形成過程も同時に示されると、読者が翻訳者の作業や思考の流れに合わせることができる。従来の翻訳が一方向的であるのに対し、双方向的なコミュニケーションがあり、協同的である。読者は翻訳の受け手ではない。参加者である。従来、翻訳者のみが問題を背負いこんできすぎている。読者も翻訳の場に立ち合わせ、訳している過程を公開することが望ましい。それが翻訳のコミュニケーションである。シュライエルマッハーの意見以外の第三の道がここに開ける。

 福田収一スタンフォード大学教授は、パワーポイントを利用したきれいな完成図のプレゼンテーションよりも板書を用いた稚拙なスケッチの方が受けての理解度が高いという研究を紹介している。結果だけを提示するよりも過程を共有することが重要である。彼はこれを「引き込み同調現象(Entrainment)」ないし「同調現象(Synchronization)」に起因していると言っている。送り手と受け手の呼吸が合うからである。

 翻訳にも同じことが言える。訳者はきれいな翻訳を読者に見せたい。けれども、それは読者と息を合わせることを軽視し、コミュニケーションを十分に考慮していない。コミュニケーションには通時的・共時的な共通理解であるリテラシーが必須である。ところが、きれいな翻訳ではそのリテラシーが訳者と読者の間で共有されていない。他方、優れた翻訳は訳者の考えに読者を引き込み同調させる。

 ドナルド・キーンの"white gloves"の訳には、解説こそないものの、彼がどのように悩んでそう訳出したのかが読者に伝わる同調現象がある。あれだけの議論を巻き起こした、それだけで名訳の名に値する。また、古風な和装の人物が白手袋をしている姿は、欧米人にとっていささかひっかかる。愚かでない限り、読者はそこに気がつき、中には原文を調べるかもしれない。翻訳者はもっと読者を信じてよい。

 これまでの翻訳論は翻訳者を中心に展開されている。ヴァルター・ベンヤミンが提起した「翻訳者の使命」をケセン語訳新約聖書は再考を促す。翻訳者が考えるべきはその使命ではない。「アカウンタビリティ」である。訳者は訳出翻訳作業の概観を提示して、読者に参加を呼びかけ、両者で翻訳を共有する。起点言語と目標言語の相互作用した翻訳がそのとき生まれる。膨大な解説が付せられた山浦医師による『ケセン語訳新約聖書』は、そういった「翻訳者のアカウンタビリティ」を体現した翻訳にほかならない。
 なお、「下書きは消すな」と注意してあって、下書きを調べながら受験生の頭のなかを想像する。ときには、下書きでいろいろといいことを考えていると、答案が白紙で一〇点ぐらい点が入らぬでもない。

 つまり、その問題と取りくんで、受験生がどのように考えてるかを調べて、それによって、彼がどのように数学がわかっているかを評価するのである。機械的にやっていると、正しい間はいいけれど、迷いだすと点がとりにくい。

(森毅『評価は主観』)



 翻訳はコミュニケーションである。だから、「下書きは消すな」。

〈了〉

参考文献
山浦玄嗣、『ケセン語入門』、共和印刷企画センター、1986年
山浦玄嗣、『ケセン語大辞典』上下、無明舎出版、2000年
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山浦玄嗣、『ケセン語訳新約聖書〔2〕マルコによる福音書』、イー・ピックス出版、2003年
山浦玄嗣、『ケセン語訳新約聖書〔3〕ルカによる福音書』、イー・ピックス出版、2003年
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寺山修司、『さかさま世界史 英雄伝』、角川文庫、1974年
鳥飼久美子、『歴史をかえた誤訳』、新潮OH!文庫、2001年
ユージン・A・ナイダ他、『翻訳─理論と実際』、沢登春仁他訳、研究社出版、1973年
中野道雄、『翻訳を考える─日本語の世界・英語の世界』、三省堂、1994年
福田収一、『デザイン工学』、放送大学教育振興会、2008年
二葉亭四迷、『二葉亭四迷全集1』、岩波書店、1964年
別宮貞徳、『特選 誤訳・迷訳・欠陥翻訳』、ちくま学芸文庫、1996年
ヴァルター・ベンヤミン、『ベンヤミン・コレクション〈2〉エッセイの思想』、浅井健二郎他訳、ちくま学芸文庫、1996年
三島由紀夫、『私の遍歴時代―三島由紀夫のエッセイ〈1〉』、ちくま文庫、1995年
森毅、『あたまをオシャレに』、ちくま文庫、1994年
谷沢永一編、『石橋湛山著作集4』、東洋経済新報社、995年
柳瀬尚紀、『翻訳はいかにすべきか』、岩波新書、2000年

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大籠キリシタン殉教公園
http://www.town.fujisawa.iwate.jp/cross/cross.htm
北上市ホームページ
http://www.city.kitakami.iwate.jp/index.html
大学病院医療ネットワーク、「インフォームド・コンセントの在り方に関する検討会報告書〜元気の出るインフォームド・コンセントを目指して〜」、1995年
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Friedrich Schleiermacher, Ueber die verschiedenen Methoden des Uebersezens
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DVD『エンカルタ総合大百科2008』、マイクロソフト社、2008年