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社会科学の精神

〜ジャンバッティスタ・ヴィーコの『新しい学』〜

佐藤清文

Seibun Satow

2010年5月8日


無断転載禁


「学問というのは、物が作られる、その作られ方の知識、精神が自己自身を客体とする知識のことである。なぜなら、学問とは、精神が諸要素を組み立て直すことであるから」

ジャンバッティスタ・ヴィーコ『イタリア最古の知恵』

 中世以来、知識人は、いわゆる自由7(septem artes liberals: セプテム・アルテース・リーベラーレース)に通じていなければならない。それは三学(trivium:トリウィウム)の文法学 ・弁証法(論理学)・修辞学、 四科(quadrivium:クワドリウィウム)の算術・幾何・天文・音楽によって構成されている。

 ナポリの書籍商の息子ジャンバッティスタ・ヴィーコは、苦労の甲斐あって、1699年、ナポリ大学の修辞学第二講座教授に就任する。

 
1744年に貧困と不遇のまま生涯を閉じたこの自信家は、すべてをかけた大著『新しい学(Principi di scienza nuova)』において、従来の枠組みにとらわれない新しい学問を提唱している。「限られた人間の知力が行き届き得るのは、人間が造った『社会』の分野のみであり、そこでは時間が重要な契機となっている」。

 すべては神の摂理に従い、原罪が端的に示す現世は必然的に堕落する。このようなキリスト教神学には歴史が入りこむ余地がない。また、イデア説を説くプラトン流の観念論にも歴史は登場しない、さらに、ルネ・デカルトを始めとする自然科学的普遍法則が万能な世界でも、個別事象を別とすれば、歴史はお呼びではない。

 神でも、イデアでも、自然でもなく、当の人間が造り、歴史を持った「社会」を考える「新しい学」を始めるべきだ。社会の探求は、歴史性に基づいていなければならない。

 歴史研究が社会考察の第一歩である。神学でも、形而上学でも、自然科学でもない。プラトンの哲学、タキトゥスの歴史学、フランシス・ベーコンの実験と観察による帰納法的実証科学、「国際法の父」ことフーゴー・グロティウスの比較法学を統合し、社会=歴史=人間のつながりを考える学である。これこそ「社会科学」にほかならない。

 もっとも、当の『新しい学』は読みやすい書物ではない。非常に総合的・体系的な理論であることは確かであるけれども、それが明確に主張されているとは言い難い。

 加えて、用語や論証も現代とは違う。そもそも、著作の中で「社会科学」という述語も出てこない。しかし、「新しい学」を現代的に解釈すれば、社会科学と理解するのが妥当であるし、その説く精神も、比較的、明瞭である。

 ヴィーコが『新しい学』で論駁しようとした相手の一つが盛隆を極めたデカルト主義である。デカルトが蓋然的な知識を虚偽と斥け、疑うことのできない知識だけを真理と認めたのを受け、デカルト主義者は彼の幾何学的方法だけを唯一の方法論として、すべての学問に援用している。

 一方、ヴィーコは各分野の方法的相対性を認める。「課題が様々に有れば有るだけ、それだけ様々の方法は存在するのだ。レトリックにはレトリックの方法が、詩には詩の方法が、歴史には歴史のそれが、幾何学には幾何学のそれが、論理学には論理学の方法が支配するのである」。

 ヴィーコは、その上で、蓋然性も真理に準ずるものとして是認する。「社会という世界は、明らかに、人間によって作られたものであり、従って、その諸原理は、私たち自身の心の諸形態のうちに見出されるという真理である」。

 人間は全知全能の神ではない。社会を考えるとき、疑いようのない知識だけを真理とすることはできない。信じるに足る蓋然性のある知識も真理と見なせる。絶対的だけでなく、相対的真理もあり得る。
”veryn-factum(真なるものは作られたもの)”.

 デカルトにおいて、「真なるもの」と「確実なるもの」は同一である。しかし、ヴィーコは両者を区別する。前者は普遍の諸原理であり、後者は個別的な事象や出来事、事件、観衆、法、制度などである。

 哲学を始めとして従来の学問は、かくあるべきだとか、かくあるはずだとか高踏的に述べ、前者を追及している。けれども、両者はお互いを参照することによって、自らを相対化し、より発展していく。個別的な問題を具体的に考察し、整合性のある普遍的な原理に基づいて、体系化する。この普遍性と個別性の相互作用を促進させるのが「新しい学」である。

 そこでは、絶対視を拒絶する姿勢が不可欠である。古代を理想化あるいは誇張したり、民族的自負に溺れていたり、自分の願望を歴史上の人物に投影したりすることはしてはならない。また、権威主義的に、用いるテキストを限定すべきでない。

 過去の歴史家の著作のみならず、言語学や神話、伝説、民間伝承、未開人・子どもの話なども相対的に扱った上で、いかなる説が妥当なのかを吟味する。さらに、自分の思いこみも相対化する必要がある。二つの民族が類似の観念や制度を持っているからと言って、一方が他方から学んだに違いないと早合点してはいけない。「新しい学」には、相対化への意志が必須である。

 加えて、「新しい学」では、事件や出来事、現象などを社会的諸条件から説明しなければならない。歴史を変化させるのは外的諸要因であって、歴史上の人物の性格ではない。けれども、それは神や運命といった超越的な力ではない。歴史の前景の背後に隠れている社会的諸条件を明らかにし、それを再構成する必要がある。歴史の中に循環構造が見出されたとしても、その結論を安易に未来予測へ使うべきではない。

 将来、同じ歴史的諸条件が到来するとは限らない。歴史が循環しているように見えるとしても、それは螺旋構造をしているのであって、円環構造ではない。安直な未来予測は、歴史を社会的諸条件から解明する認識を軽視している。

 社会科学の精神は、ヴィーコに倣うと、社会性・歴史性からの認識と相対化への意志に要約できる。方法論は時代によって変化し、分野によって異なるだろう。しかし、社会を研究するという社会科学におけるその精神は変わらない。社会科学の名に値しないのは、社会性・歴史性の欠如と絶対化への盲従が見られる意見である。

 近代合理主義はデカルトの内省から出発している。他方、社会科学はヴィーコの素行から生まれたわけではない。生前、まったくの無名であり、偉大なる相対主義者シャルル・ド・モンテスキューが読んでいたことは知られているものの、社会科学は彼と無関係に進展してきたのであって、『新しい学』は、19世紀に入って近代学問が発展する中で、発掘されている。

 しかし、その評価は人文に偏っており、自然科学的世界観や近代文明への批判という動機が見える。けれども、それはヴィーコを陳腐な観念論として解釈することになりかねない。彼がベーコンやグロティウスの徒であることを忘れてはならない。

 何にせよ、ヴィーコが最も身近であるはずの社会を再発見し、これからの時代の真の主役は社会だと認識した思想家であることは間違いない。ルネサンスは世俗権力の教会権力に勝利の時代である。

 ヴィーコは、そうした社会的・歴史的激動に身を置きながら、社会に固執し、それを語ることの重要さを孤独の中で書き記す。それはかつて岩田昌征千葉大学名誉教授が『現代社会科学的知性の運命』の中で「社会の居候」としての「社会科学的知性」の姿そのものである。

 新しい学としての社会科学の必要性やその精神の主張は説得力があるし、今日でも色あせていない。改めて確認することは、社会科学が何であり、何であり得るかの再検討につながるだろう。

 言うまでもなく、ヴィーコ自身の作品がそれを完全に体現していたかどうかは別の話である。「生活と自由と名誉とを享受しながら、この著作を書き上げた時、彼は自分をソクラテスより仕合わせだと考えていた」(『ヴィーコ自叙伝』)〈了〉


参考文献

『世界の名著』33.中公バックス、1979
上村忠男、『バロック人ヴィーコ』、みすず書房、1998

青山貞一の註)
岩田昌征氏は青山貞一がアジア経済研究所関連機関に在籍していたときの「師匠」である。青山がローマクラブ日本事務局に転職するきっかけを与えてくれたのも岩田氏である。これが青山が社会科学と自然科学の両分野に係わる学際的研究に邁進する端緒となった。