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戦争と社会階級(3)
第3章 The War Believer@


佐藤清文

Seibun Satow

2010年3月25日


無断転載禁


第3章 The War Believer

 孫子は、戦争を浪費であると説いている。大量の物資・人命が失われ、戦費の重圧、物資・人員の徴発、国土の荒廃によって国家経済を疲弊させる。為政者は合理的に考えれば、戦争を選択すべきではない。

 しかし、これまで数えきれないほどの戦争が勃発し、今も続いている。

 「帝国主義とは、国家の際限なく拡張を強行しようとする無目的な素質である」とするヨゼフ・A・シュンペーターは、『帝国主義と社会階級』において、戦争の原因について次のように述べている。

 歴史上の事実を分析することによってわれわれは、第一に、何らはっきりした目標にしばられない「無目的的」な武力による拡張への傾向──すなわち戦争や制服を求める無合理的な非合理的な純粋に木能的な性向──が人間の歴史においてきわめて大きな役割を演ずる、という確かな事実をつきとめた。

 逆説的に聞こえるかもしれないが、非常に多くの戦争──おそらくは大多数の戦争──が適当な「理由」(道徳的観点からというより、考えぬかれた尤もな利益の観点からの) なしに、強行されてきた。

 言いかえれば、諸国民の精根をつくしたような努力が実に無駄に流れたのである。われわれの分析は、第二に、この戦争を求める必要性ないしは意欲についての説明を与えており、その説明は、単に「衝動」や「本能」に言及するだけで終っているものではない。

 むしろわれわれは更に一歩進んで、民衆や階級が生きのこるためには武士にならざるをえなかったようなその客観的な生活上の要請の中にその説明を求め、また、遠い昔そのような環境の下で得られた心理的素質と社会的構造とが一度びそれとして確立されると──それの本来の意味と生命保存的機能とがなくなってしまったはるか後においても──いつまでもその力を持ちつづける、という事実の中に説明を求めるのである。

 われわれの分析は、第三に、このような性向ないし情造の存続を助長する第二次的諸要因が存在しているということを明らかにした。この種の諸要因は二つに分けて考えることができる。まず第一には、支配階級の国内政治上の利害関係が好戦的性向を助長したのであり、第二には、戦争政策によって経済的或いは社会的にそれぞれ個人として利益を受けるような人たちのもつ影響力が一つの役割を果している。

 これらいずれの要因も、大ていのばあい、政治的表現や心理的動機の上で、いろいろに異った飾りをつけてあらわれるのが常であった。それぞれの帝国主義は細かい点では相互にかなり異なるが、どの帝国主義も少なくとも右にのべたような諸特性だけは共通してもっているのであって、だからこそ第一章で述べたように、それは社会学上単一の現象として取扱われるのである。

 経済において、個人的・階級的合理性の追求がしばしば社会的・国家的合理性と矛盾することが少なくない。シュンペーターは戦争の原因としてこの齟齬を見出す。戦争は、戦争は国家や社会にとって決して合理的な選択ではない。

 しかし、帝国主義国家は戦争を繰り返す。それ自体に合理的な目的はないにもかかわらず、戦争が頻発する理由は大きく二つある。一つは、支配階級が国内政治の失敗を外にそらすためである。もう一つは、戦争が始まると個人として報われる階級が増加しているからである。

 シュンペーターの独創性はこの第二の原因を導き出した点にある。戦争が厄介なのは、それでしか食っていけない階級を増加させ、次の戦争を誘発してしまうことである。

 経済学者のマーク・ブローグは、『ケインズ以前の100大経済学者』の中で、『帝国主義と社会階級』を「現在でも読む価値のある作品」と賞賛している。残念ながら、日本では、『経済発展の理論』や『景気循環論』、『資本主義・民主主義・社会主義』、『経済分析の歴史』などは読まれているものの、この隠れた名作が振り返られることは稀である。しかし、シュンペペーターの政治学領域の考察は非常に示唆に富んでいる.

 シュンペーターが「個人として」としている点に注意しなければならない。この社会階級は国防費ではなく、戦費にかかわっている。それは軍需産業の関係者ではない。彼らは自分たちが開発・製造している兵器が戦争を抑止していると軍から金を引き出したいと思っている。

 戦果を挙げると、瞬間的に受注が増えるだろうが、戦時になれば、経営・研究・開発に軍が干渉してくる危険性がある。差し迫った戦争の危機がなくなったおかげで、経済成長を遂げ、その余裕から装備の近代化を計画する新興国に自社製品を売却する方が実入りがいい。また、多くの軍人にしても、同様である。志願兵であれば、愛国心もあり、いざというときがきたなら、その覚悟もしている。けれども、そうなれば、自分や部下が死ぬ可能性は高くなる。それよりも、自分たちの存在が外的脅威から祖国を守っていると国内に認知させて誇りとした方がよい。

 軍人も家族がある。できれば、時期がきて、昇進し、給料も上がるなら、都合がいい。学費・資格のために、志願している若者も少なくない。いずれも軍隊で食っているのであって、戦争で食っているわけではない。

 このシュンペーターの分析に当てはまる一例がフランス第4共和政である。大戦後、イギリスが次々に植民地を放棄していくのに対し、フランスは固執する。1947年から58年まで続いたこの共和国はつねに戦時下である。46年から54年までインドシナ戦争を行い、それが終わると、アルジェリア戦争に突入し、第5共和政が62年になってようやく終決させる。その間も、56年から57年にスエズ動乱を引き起こしている。

 同時代のヨーロッパでこれだけ戦争に明け暮れた国家はない。戦争でしか食っていけない人たちを多く生み出し、彼らが第5共和政成立前後に無数のテロ・クーデターを計画・実行する。

 フレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』は、この辺りの事情をよく描いている。これは、シャルル・ド・ゴール大統領のアルジェリア政策に反対する過激派組織OASがプロの殺し屋「ジャッカル」を雇い、彼の暗殺を企てるという傑作小説である。その作戦を立案したマルク・ロダン大佐の半生は、戦争でしか食えない人がどのようにして生まれるかをよく物語っている。

 マルク・ロダンは貧しい靴職人の家に生まれたが、ハイティーンのときに、フランスがナチス・ドイツに占領されたため、漁船でドーバー海峡を渡り、「ロレーヌの十字架」に一兵卒として入隊する。北アフリカ戦線やノルマンジー上陸作戦、パリ解放作戦に参加し、彼の教育暦では困難な少尉にまで昇進している。大戦が終わり、民間に戻るか、それとも軍に残るかの選択を迫られた際、後者を選ぶ。10代後半から20代前半の時期に、教育や職業訓練を受ける機会が奪われた彼には、父から仕込まれた靴職人の技術しかなく、民生復帰には難しい。

 軍に残ったものの、ロダンは叩き上げの将校の悲哀を味わうことになる。サン・シーリャンが彼を追い抜き、次々と昇進していく。サン・シール陸軍士官学校は幹部養成を目的としており、戦略や戦術、作戦を体系的に理論として学習させる。全体を知らなければならないので、工兵や砲兵など陸軍に必要な各技術を一通り教育する。

 現場上がりの少尉でも、陣地をどこに置くかくらいは判断できるが、大局的な観点から作戦を立てることはなかなかできない。ロダンの失意は怨念にまで成長する。残された道はただ一つしかない。戦場に戻ることである。

 1945年9月2日、ベトナム民主共和国が独立を宣言する。ところが、宗主国のフランスはそれを認めず、大戦以前の状態への復帰を画策する。46年12月、両者の間で戦争が勃発する。ロダンは、働きかけの甲斐あって、この植民地軍の空挺部隊に転属され、そこで居場所を見つける。

 「彼と同じことばをはなし、同じ考え方をする兵士たちがいた」。彼らは戦争でしか食っていけない。しかるべき時期に教育や職業訓練の機会を奪われ、しかも叩き上げであるため、戦闘で武勲を挙げない限り、軍でも昇進は望めない。シラーズは戦争がなくても、頃合があれば階級が上がっていくため、軍隊で食っていける。戦闘に次ぐ戦闘の8年間で、血と汗を流したロダンは、戦争が終結したとき、少佐になっている。

 けれども、本国に戻ってからの一年間で、以前から心に巣食っていた怨念を憎悪に転化させる。ブルジョアが安穏とした生活をすごせるのは、遠く離れた戦地で兵士たち勝ちと汗を流しているからだと固く信じていたのに、そんなことに気をとめているものなどいない。

 それどころか、左翼知識人たちは、情報収集のためと捕虜に拷問をかけることは非人道的であると軍を批難する有様である。本国政府と国民の支援が十分でさえあったら、わが軍はベトミンを蹴散らしていたのであって、インドシナの放棄は死んでいった兵士たちへの裏切りである。政治家と共産主義者に牛耳られた今のフランスを解放するには、軍人が決起するしかない。裏切り者と口舌の徒は軍にはいないからである。

 日本にいると、労働者階級が共産主義者に乗っとられているというロダンの考えがわかりにくい。戦後の日本の議会勢力は複数政党制の参戦国の中で例外である。鍵になるのは共産党である。議会勢力として共産党が存在しているか否かで大きく分かれる。アメリカやイギリス、西ドイツなどでは共産党は議会勢力ではない。

 そこでは、労働者階級を代表するのは社会民主主義的な政策をとり入れた政党である。一方、フランスやイタリアでは共産党は議会勢力として強力で、保守勢力と拮抗している。労働者階級を代表するのは、言うまでもなく、共産党である。社会党は、第三党として、保守政党と共産党の挟み撃ちにされ、リベラルなホワイトカラーの支持をとりつけて一定勢力を保持し、連立政権に参加する。

 ところが、日本では議会勢力として共産党が存在するものの、社会党の方が優勢で、なおかつ労働者階級の代表の座を両者が奪い合っている。地方レベルでは、京都のように、共産党の方が強い地域もあるが、これはあくまで国政レベルの話である。社会党は自民党と共産党に挟まれているけれども、総評をバックに当選してくる議員も多く、なまじ第二党であるため、市民政党への脱皮も難しい。しかも、自民党は、その複雑な形成過程に伴い、社会民主主義的な国内政策を採用しているので、社会党は違いを明確にしにくい。結果、社会党は護憲平和にそのアイデンティティを見出すほかない。このように、日本とフランスとでは、共産主義者と労働者階級をめぐる状況が違う。


つづく